ダイガクコトハジメ - お茶の水女子大学
東京女子師範学校・お茶の水女子大学
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参考情報
参考文献・書籍
学校略歴
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1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日)、大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク、大学廃止、大学南校・大学東校が独立、新たに文部省設立
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1872(昭和5)年3月、文部省、新時代の女子教育の中心機関として官立女学校開校、東京女学校と改称、中等教育相当の非常に程度の高い教育が成される
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1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日)、学制公布、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令、全国を学区に分けそれぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画、身分・性別に区別ない国民皆学を目指す、「大学」を高尚な諸学を授ける専門科の学校とし、卒業者に学士の称号を与えるとする
→ 東京師範学校・筑波大学
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1873(明治6)年8月、6大学区(名古屋・大阪・広島・長崎・新潟・仙台)で官立師範学校設立、東京の師範学校を東京師範学校に改称
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1874(明治7)年11月、文部省主導により東京女子師範学校開校、女子教育機関の最高峰とみなされる
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神田湯島聖堂内・昌平坂学問所跡地に文部省、東京師範学校およびその付属学校、東京女子師範学校およびその付属学校、国立博物館が同居
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1875(明治8)年8月、東京師範学校、中等教員養成のため中学師範学科設置
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1875(明治8)年11月29日、東京女子師範学校、江戸時代から「御茶ノ水」と呼ばれていた湯島の地にて開校式挙行
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1876(明治9)年11月16日、東京女子師範学校附属幼稚園設立、日本の幼稚園の初めに、幼児保育・教育およびそれらを担う保母育成を開始
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1877(明治10)年2月1日、東京女子師範学校附属小学校設立、生徒の実地研修の場としての附属学校園の制度を順次整備
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1877(明治10)年2月19日、西南戦争による財政難により、東京女学校廃校、在校生は東京女子師範学校英文科に転入
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1878(明治9)年11月、西南戦争時の財政難により、東京師範学校と東京女子師範学校を除く官立師範学校が廃校に追い込まれる、管轄を文部省より府県に移管
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1880年代、高嶺秀夫、ペスタロッチ主義の原理と教授法が小学師範学科教職員講習を通じて普及、生徒の自発性を重視する開発教育が全国に広まりブームに
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1882(明治15)年7月、東京女学校を起源とする東京女子師範学校附属高等女学校設立、日本最初の高等女学校に
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1885(明治18)年12月22日、森有礼、第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に、『学政要領』立案、国家至上主義の教育観による「国体教育主義」を基本方針に近代日本の学校諸制度を整備、その後の教育行政に引き継がれていく、師範学校を「教育の総本山」と称して改革、全面的に軍隊式教育が取り入れられる
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1886(明治19)年4月10日、師範学校令、師範学校を「高等師範学校」と「尋常師範学校(師範学校)」の2つに分ける、東京師範学校が高等師範学校となる
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1886(明治19)年4月、高等師範学校昇格に伴い、東京師範学校女子部は高等師範学校女子師範学科に
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1890(明治23)年3月25日、高等師範学校女子師範学科、高等師範学校より分離独立、女子高等師範学校設立
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1902(明治35)年、広島高等師範学校設立に伴い、東京高等師範学校に改称
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1908(明治41)年、第2の官立女子高等師範学校を奈良に設立、女子高等師範学校を東京女子高等師範学校に改称
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1923(大正12)年9月、関東大震災、文部省と東京女子高等師範学校が焼失、東京高等師範学校に文部省が仮事務所設置、東京女子高等師範学校が仮教室開校
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1932(昭和7)年12月28日、大塚に校舎移転
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1949(昭和24)年5月31日、国立学校設置法により、新制・お茶の水女子大学発足、文学部・理家政学部設置、翌年、文教育学部・理学部・家政学部の3学部に
創立者
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ダビット・モルレー
学校年表
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団
岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。
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1871(明治4)年 - 1873(明治6)年 田中不二麿(27-29歳)、岩倉遣欧使節団に文部省理事官として随行。アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手に、欧米の学校教育を見聞・調査。また、教育顧問の日本招聘の任務も帯びる。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。
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1872(明治5)年 田中不二麿(28歳)、ワシントン駐在の日本国外交官・森有礼がラトガース・カレッジの学長ウイリアム・キャンベルに教育問題を質問状。この長文回答書をダビット・モルレーが執筆。この文書が教育顧問を探していた木戸孝允・田中不二麿の目にとまる。モルレーの招聘を検討。報酬月額600ドル、3年間の予定で契約が交わされることに。翌1873(明治6)年6月に来日。文部省学監として諸藩の教育事務に対する助言・建言を行う。省務を統括していた田中不二麿を助ける。
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文部省学監ダビット・モルレー、東京大学設立、東京女子師範学校および附属幼稚園設立、教育博物館設立、東京学士会院設立、官立諸学校の教則制定・改正などの実現に尽力。1873(明治6)年6月に来日、1878(明治11)年12月の契約満了に伴い、アメリカ帰国。
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1872(昭和5)年3月、文部省、新時代の女子教育の中心機関として官立女学校開校。同年末、東京女学校と改称。中等教育相当の非常に程度の高い教育が成される。
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1872(昭和5)年5月、文部省、学制公布に先立ち、近代教育の担い手となるべき教員の育成を重視。「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」を提出。認可を受け、東京府下に師範学校設立が決定。生徒募集を広く布達。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
1872(明治5)年9月 師範学校設立
学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に日本初の官立教員養成機関・師範学校(後に東京師範学校、筑波大学の源流)設立。湯島聖堂内の昌平坂学問所(昌平黌)跡地に置かれる。将来全国に設立されるべき小学校教員養成機関のモデルケースとしての役割を果たす。校内編輯局にて、全国小学校で使用される新たな教科書の編纂、全国小学校の教則の範例となるべき『小学教則』の編成などが行われる。
1873(明治6)年8月 6大学区で官立師範学校設立
名古屋・大阪・広島・長崎・新潟・仙台で官立師範学校設立。東京の師範学校は、東京師範学校に改称。師範学校は卒業後教職に就くことを前提に授業料が無料、生活も保障された。このため、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たす。
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1874(明治7)年1月 田中不二麿(30歳)、文部省学監ダビット・モルレーより、日本も欧米諸国に倣い、女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」として育成することが建言される。これに賛同、三条実美太政大臣へ「東京府下ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」ることを伺い、承認される。同年3月13日、木戸孝允文部卿により、お茶ノ水橋袂に女子師範学校を設置する旨が布達発令。
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1874(明治7)年9月27日 田中不二麿(30歳)、文部大輔に。学制実施の実質上の責任者に、教育行政の要衝にあたる。
1874(明治7)年11月 東京女子師範学校開校
湯島聖堂(旧・昌平坂学問所)構内界隈(現・お茶の水橋袂)に日本最初の官立女子師範学校・東京女子師範学校創立。女子教育機関の最高峰とみなされる。修業年限5年、課程は10級に分けられ、地理・歴史・物理学・化学大意・修身学・雑書・修辞・書取・作文・数学(算術・代数・幾何)・経済学・博物学・教育論・記簿法・養生書・手芸・画学・唱歌・体操・授業法・実地授業の学科目が講義される。
1872(明治5)年創立の女子中等教育機関・東京女学校からも相当数の生徒が東京女子師範学校予科へ転入。
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明治以後の一時期、神田湯島の湯島聖堂内・昌平坂学問所跡地に文部省、東京師範学校およびその付属学校、東京女子師範学校およびその付属学校、国立博物館が同居。
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1875(明治8)年8月、東京師範学校、中等教員養成のため中学師範学科設置。
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1875(明治8)年11月18日 中村正直(44歳)、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)摂理に。
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1875(明治8)年11月29日、東京女子師範学校、江戸時代から「御茶ノ水」と呼ばれていた湯島の地にて、開校式挙行。
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1876(明治9)年11月16日、東京女子師範学校附属幼稚園設立。日本の幼稚園の初めに。1878(明治11)年6月、幼稚園・保姆練習科を設置、幼児保育・教育およびそれらを担う保母育成を開始。
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1877(明治10)年2月1日、東京女子師範学校附属小学校設立。生徒の実地研修の場としての附属学校園の制度を順次整備。
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1877(明治10)年2月19日、西南戦争による財政難により、東京女学校廃校。在校生は東京女子師範学校英文科に転入。
1878(明治9)年11月 東京以外の官立師範学校、府県に移管
西南戦争時の財政難により、東京師範学校と東京女子師範学校を除く官立師範学校が廃校に追い込まれる。管轄を文部省より府県に移管。小学校教員養成を目的に府県が独自に設置した師範学校が多数存在したが、修業期間・入学年齢共にまちまちであった。
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1878(明治11)年 高嶺秀夫(25歳)、帰国。東京師範学校および附属小学校の教員に。アメリカ留学で学んだペスタロッチ主義教育の理論と方法を実践的に紹介・導入。
1879(明治12)年9月29日 教育令公布(自由教育令)
全国を7つの学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置するとした学制について、当時の国力や民情・文化の異なる日本では全国画一的に実施することが困難であり、多くの問題が生じていた。学制を廃止。地方の実情を重視するという立場から、文部省が中央集権的教育政策を改め、地方当局に教育行政を大幅に与えることに。アメリカの教育制度をモデルとし、自由教育令とも呼ばれる。その寛容さから学校教育の停滞を招く要因と批判があがる。翌1880(明治13)年、再度国家管理を強化する方向で改正される。
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1879(明治12)年 田中不二麿(35歳)、日本の学校における音楽教育の研究を目的に、文部省音楽取調掛を開設。伊沢修二を御用係に。彼らを欧米に派遣、『蝶々』『霞か雲か』『ローレライ』などのドイツ民謡を教育現場に取り入れると共に、音楽教育の近代化を図る。
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1879(明治12)年 伊沢修二(29歳)、文部省音楽取調掛に。目賀田種太郎と連名にて、日本の音楽教育の意見書提出。米国で師事したボストン音楽学校創立者・ルーサー・メーソンを日本に招く。メーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植。『小學唱歌集』編纂。
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1880(明治13)年3月 伊沢修二(30歳)、文部省音楽取調掛にて、日本内外音楽の調査をはじめ多くの事業を開始。また、東京師範学校及び東京女子師範学校の附属小学校・幼稚園生徒に授業を行う。また、伝習人を募集、音楽の授業と教員の養成を始める。
1881(明治14)年 師範学校教則大綱
教育令の下、『師範学校教則大綱』が定められる。府県管轄の師範学校について、就業期間・入学年齢ほか統一される。
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1882(明治15)年7月、東京女学校を起源とする東京女子師範学校附属高等女学校設立。日本最初の高等女学校に。
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1882(明治15)年 - 1883(明治16)年 伊沢修二(32-33歳)、師範学校教育研究のためのアメリカ留学から帰国した高嶺秀夫らと共に、小学師範学科教職員講習を通じてペスタロッチ主義による教育法を普及。生徒の自発性を重視する開発教育は全国に広まりブームに。
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1885(明治18)年6月、財政難を理由に全国府県の女子師範学校が師範学校に統合される流れの中、東京女子師範学校が東京師範学校に統合される。東京師範学校女子部に改組。東京師範学校は、全国唯一の官立師範学校となる。
1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足
太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼。
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森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく。
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森有礼、師範学校を「教育の総本山」と称して改革を行う。その教育には、全面的に軍隊式教育が取り入れられる。また、「良妻賢母教育こそ国是とすべきである」と声明。「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布。
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1886(明治19)年 森有礼(40歳)、「学位令」を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年4月10日公布 師範学校令
師範学校を「高等師範学校」と「尋常師範学校(師範学校)」の2つに分ける。「高等師範学校」を東京に1校設置することとし、東京師範学校が高等師範学校(後に東京高等師範学校、現・筑波大学)となる。国費により運営(尋常小学校は府県の地方税により運営)。卒業生は原則として尋常師範学校(師範学校)の校長および教員に任命するとされる。
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1886(明治19)年4月、東京師範学校の高等師範学校昇格に伴い、東京師範学校女子部は高等師範学校女子師範学科に。尋常師範学校2年終了を入学資格に。修業年限4年。
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1890(明治23)年3月25日、高等師範学校女子師範学科、高等師範学校より分離独立。女子高等師範学校(後に東京女子高等師範学校、現・お茶の水女子大学)設立。女子師範学校・高等女学校・小学校教員および幼稚園保母などの養成にあたる。附属学校園も女子高等師範学校の附設学校に復帰。
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1890(明治23)年3月 中村正直(59歳)、高等師範学校(現・筑波大学)より分離独立した女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の初代校長に。
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1891(明治24)年 天野為之(31歳)、国会にて予算委員として活動。予算削減のため、第一高等中学校ほか第五までの高等中学校、女子高等師範学校・東京音楽学校を廃止する案が出た際、これに異議を唱え、撤回させる。
1897(明治30)年 師範教育令
「高等師範学校」は師範学校・尋常中学校・高等女学校の教員、「女子高等師範学校」は師範学校女子部・高等女学校の教員を養成することが定められる。また、尋常師範学校は「師範学校」と改められる。
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1897(明治30)年11月19日 高嶺秀夫(44歳)、女子高等師範学校校長に。12年余にわたり在任、女子教育に尽力。
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1898(明治31)年 津田梅子(35歳)、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)教授を兼任。
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1908(明治41)年、第2の官立女子高等師範学校を奈良に設立。女子高等師範学校を東京女子高等師範学校に改称。
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1917(大正6)年 湯原元一(55歳)、東京女子高等師範学校校長に。
1923(大正12)年9月1日11時58分32秒 関東大震災
神奈川県および東京府(現東京都)を中心に、隣接する茨城県・千葉県から静岡県東部までの内陸・沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらす。死者・行方不明者は推定10万5,000人。明治以降の日本の地震被害として最大規模の被害に。
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1932(昭和7)年12月28日、文部省、新校地として大塚の地を給付される。校舎移転。
1943(昭和18)年3月8日公布 第2次師範教育令
師範学校はすべて官立に移管。専門学校と同格の教育機関に昇格。新しく青年師範学校設置。
1946(昭和21)年 - 学制改革
第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。
複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。
戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。
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教員養成について、連合国軍最高司令官総司令部よりアメリカに倣って大学で行うよう指導。アメリカのリベラルアーツカレッジなどを手本に、各地の師範学校は新制大学の教育学部・学芸学部として再出発することに。
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1946(昭和21)年10月、学内に国立女子大学への昇格運動が起こる。
1949(昭和24)年5月31日公布・施工 国立学校設置法
文部省管轄、全国に69の新制国立大学が発足。
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1949(昭和24)年5月31日、国立学校設置法により、新制・お茶の水女子大学発足。文学部・理家政学部設置。東京女子高等師範学校を内包。
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1950(昭和25)年4月1日、国立学校設置法の一部改正により、文教育学部・理学部・家政学部の3学部に。
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1952(昭和27)年4月1日、国立学校設置法の一部改正により、東京女子高等師範学校廃止。附属高等学校・中学校・小学校・幼稚園がお茶の水女子大学文教育学部附属に。
お茶の水女子大学年表