ダイガクコトハジメ - 京都大学
関連する学校・組織(前史)
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理化学校
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大阪舎密局
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大阪化学所
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大阪理学所
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大阪洋学校
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大阪開成所
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第四大学区第一番中学校
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第三大学区第一番中学校
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開明学校
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大阪外国語学校
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大阪英語学校
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大阪専門学校
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大阪中学校
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大学分校
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第三高等中学校
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第三高等学校
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京都帝国大学
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京都法政学校
関連する学校・組織(現代)
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立教大学
関連する教育者
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神田孝平
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クーンラート・ハラタマ
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後藤象二郎
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小松帯万
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武田五一
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田中芳男
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永井久一郎
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牧野伸顕
参考情報
参考文献・書籍
京都大学年表
学校略歴
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1861(万延2/文久元)年9月、松本良順、コレラ流行を踏まえ、長崎奉行所に衛生行政の重要性を訴える、124床のベッドを持つ日本初の近代西洋医学病院・小島養生所開院、医学伝習所をここに移転、医学所として併設
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1867(慶応3)年、幕府、開成所内に理化学校建設、翌年春の開講を予定するも、幕府瓦解により講義が行われることなく終わる
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1868(慶応4/明治元)年、大阪府に大学校設立構想、大阪府知事・後藤象二郎と副知事・小松帯万が理化学校の大阪移転を建言、舎密局創設が決定
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1869(明治2)年9月、大阪府立の大阪洋学校設立、英語科設置、後にフランス語科設置
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学に改称、昌平学校を大学本校に、開成学校を大学南校、医学校を大学東校に改称
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1870(明治3)年4月、大阪化学所および大阪洋学校、大学南校管轄に
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1870(明治3)年5月、大阪理学所、造幣寮管轄に、大学管轄に
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に、大学本校は当分休校、そのまま再開することなく廃校、昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす、大学南校を中核とする高等教育機関構想へ転換
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1870(明治3)年10月24日、大阪洋学校、大阪開成所に改称、分局として大阪理学所を併合
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1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日)、大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク、大学廃止、大学南校・大学東校が独立、新たに文部省設立
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1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学南校は文部省管轄に、南校に改称、文部省主導による貢進生廃止など制度改革のため一時閉鎖、翌10月に再開、外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となるも、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた
→ 東京大学
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1871(明治4)年7月18日、大阪学問所、文部省管轄に
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1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日)、学制公布、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令、全国を学区に分けそれぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画、身分・性別に区別ない国民皆学を目指す、「大学」を高尚な諸学を授ける専門科の学校とし、卒業者に学士の称号を与えるとする
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組、第一大学区第一番中学校に、外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、大阪開成所は中学校へと改組、第四大学区第一番中学校に、理化学課程を廃止
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1873(明治6)年4月、学制二編追加、「専門学校」を外国教師によって教授する高尚な学校とし、「大学」と同じく卒業者に学士の称号を与えるとする、外国語教育機関として「外国語学校」を定める
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1873(明治6)年4月10日、学制二編追加により、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組、第一大学区開成学校に、教授言語が原則として英語に統一される
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1873(明治6)年4月、第四大学区第一番中学校、第三大学区第一番中学校に、開明学校に改称、専門学校進学の予備教育のための機関として位置付け
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1874(明治7)年5月、開明学校、大阪外国語学校に改称
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1877(明治10)年2月19日、東京英語学校・大阪英語学校以外の官立英語学校、廃止
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1877(明治10)年4月12日、東京大学創立、東京開成学校本科と東京医学校が統合、法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生、しかし実態は1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった
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1877(明治10)年、東京英語学校と東京開成学校予科が統合、東京大学予備門(後に、第一高等中学校・第一高等学校)設立、東京大学法・理・文三学部入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に
→ 大学予備門
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1879(明治12)年4月、大阪専門学校に改称、化学・医学よりなる本科(4年)、予科(4年)設置
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1880(明治13)年12月11日、文部省通達により、大学進学のための予備教育機関を主体とする大阪中学校に改組、中学校の運営が未整備な中、模範となることを期待される、大学に直接接続する学校として整備する一方、大阪中学校を大学相当の教育機関に発展させることが構想される
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1881(明治14)年4月12日、東京大学機構改革、東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学誕生、単一の総理を新設、東京大学初代総理に加藤弘之
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1882(明治15)年6月、東京大学医学部予科を東京大学予備門に合併、東京大学・東京大学医学部各学部に入学する全生徒に対する基礎教育・語学教育機関に
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1885(明治18)年8月、東京大学予備門、東京大学付属より分離、文部省の管轄に、東京大学の予備教育機関であるばかりでなく他の官立学校に入学すべき生徒も養成する機関に拡張
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1885(明治18)年12月、大阪中学校を改組・拡張、関西に第二の大学開設構想、大学分校に改称
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1885(明治18)年12月22日、森有礼、第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に、『学政要領』立案、国家至上主義の教育観による「国体教育主義」を基本方針に近代日本の学校諸制度を整備、その後の教育行政に引き継がれていく
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1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行、帝国大学令により帝国大学発足、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定、大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成、これらをまとめる総長を勅任官とする
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1886(明治19)年、東京大学予備門は第一高等中学校に、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められ全国に7校の高等中学校が誕生、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に
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1886(明治19)年、中学校令により、大学分校は第三高等中学校に改組、京都移転決定
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1889(明治22)年8月、新校地・京都吉田への移転完了
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1894(明治27)年、第一次高等学校令公布、高等中学校を高等学校に改組、第一高等学校(東京)・第二高等学校(仙台)・第三高等学校(京都)・第四高等学校(金沢)・第五高等学校(熊本)が誕生、総称してと呼ばれる、学生による自治制度と皆寄宿制度(全寮制)が特色
→ 第一高等学校
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1894(明治27)年5月1日、高等学校令により、第三高等学校に改組、予科を置かず、将来の大学昇格を視野に法学部・工学部・医学部設置、初代校長・折田彦市が三高の「自由」の精神を体現
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1897(明治30)年6月18日、京都帝国大学創立、理工科大学設置、次いで法科大学・医科大学・文科大学設置、第三高等学校は予科復活・専門学部廃止により大学予備機関に転換
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1919(大正8)年4月1日、第二次帝国大学令により学部制へ、法学部・理学部・工学部・文学部・医学部に加えて経済学部を新設
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1923(大正12)年、高等教育機関拡張政策を背景に、農学部設置
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1925(大正14)年、「時計台」と称される本部本館竣工、京都大学のシンボルに
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1949(昭和24)年5月、学制改革により、新制・京都大学発足、文学部・法学部・経済学部・理学部・医学部・工学部設置、教育学部新設、第三高等学校と附属医学専門部を包括
舎密局・大阪洋学校創立者
第三高等学校初代校長
京都帝国大学初代総長
学校総称
学校年表
1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策
江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。
この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。
1853(嘉永6)年 安政の改革
黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所を設置。
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1853(嘉永6)年7月 勝海舟(31歳)、老中首座・阿部正弘の意見募集に対し、海防意見書提出。西洋式兵学校設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く。これが阿部正弘の目に留まる。
1855(安政2)年 長崎海軍伝習所設立
ペリー来航後間もなく、海防強化を急務とする江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を決定。オランダ商館長の勧めにより、海軍士官養成のための教育機関設立を決める。長崎奉行を通じ、オランダから練習艦として帆船(後の観光丸)の寄贈を受ける。併せて、オランダ人教官隊を招聰。長崎奉行所西屋敷(現・長崎市江戸町)に長崎海軍伝習所設立。総監理に永井尚志。
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長崎海軍伝習所にて、オランダ人教官よりオランダ語学をはじめ、航海術・造船学・砲術・測量術・機関学などが教授される。またその基礎として、西洋数学・天文学・地理学なども授けられる。幕府関係者のほか、諸藩からも多数の者が伝習に参加。これらの人々の中から、勝海舟(勝麟太郎)・榎本武揚ら幕臣、五代友厚・佐野常民ら諸藩士など、幕末維新期の指導的人材を数多輩出する。
1857(安政4)年3月 築地に軍艦操練所新設
永井尚志をはじめ多数の幕府伝習生が長崎海軍伝習所より教員として動員され、長崎海軍伝習所生は45名程に、勝海舟は留任。江戸から遠い長崎で伝習所を維持することが財政負担となり、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになる。
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1857(安政4)年11月12日、長崎海軍伝習所にて、第二次海軍伝習隊と共に、オランダ軍医・ポンペ(Pompe Van Meerdervoot)が来日。医学伝習所(後に長崎医学校、現・長崎大学)創立。幕府医官・松本良順ら11名に医学講義を行う。西洋医学の伝習が始められ、江戸とならび長崎が幕末における西洋医学の中心に。西洋医学のほか、化学・物理学・生理学等も授けられ、物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学の始まりとなる。
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1859(安政6)年、長崎海軍伝習所閉鎖。設置期間は短かったが、江戸時代においてオランダを通じて西洋文化を学ぶための窓口となったことで極めて重要な役割を果たした。洋学者の多くは先ずは長崎で蘭学を学ぶことに。
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1859(安政6)年 何礼之(20歳)、鄭幹輔に率いられ、長崎停泊中のアメリカ船に赴く。アメリカ人宣教師・医師マクゴーワンに英語を学ぶ。引き続き、通詞同僚の平井希昌(義十郎)と共に、後に立教大学創立者となるチャニング・ウィリアムズ、ジョン・リギンズ、ウォルシュ、グイド・フルベッキより本式の英語を学ぶ。
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1861(万延2/文久元)年9月(旧暦・8月16日) 松本良順(30歳)、コレラ流行を踏まえ、長崎奉行所に衛生行政の重要性を訴える。病院設立の必要を説き、幕府がこれに応じる。長崎に124床のベッドを持つ日本初の近代西洋医学病院・小島養生所開院。ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらない、極めて民主的なものであった。あわせて医学伝習所をここに移転、医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)として併設。初代頭取に。
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1863(文久3)年7月 何礼之(24歳)、英語通訳の功績により、長崎奉行所支配定役格に任じられ、幕臣に。
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1865(元治2/慶応元)年8月、ボードウィンが化学の専門家招聘を幕府に建言。オランダ人理化学者クーンラート・ハラタマ(Koenraad Wolter Gratama)を招聘。長崎精得館の物理・舎密(化学)研究所として、分析究理所(長崎大学薬学部の前身、京都大学の源流)附設。
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1866(慶応2)年2月9日、オランダ二等軍医・ハラタマが来日。分析究理所教師に。
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1867(慶応3)年8月、幕府が大阪開成所設置を構想。
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1867(慶応3)年、幕府、開成所内に理化学校建設。ハラタマを江戸に招聘。翌年春の開講を予定も、幕府瓦解により講義が行われることなく終わる。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文』
政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
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1868(慶応4/明治元)年 何礼之(29歳)、『仮語学所積高』提案。大阪府に舎密局・医学館・語学所から成る大学校設置を計画。
1868(慶応4/明治元)年8月17日(旧暦・6月29日) 新政府が昌平坂学問所を接収
明治新政府が昌平坂学問所(昌平黌)を接収、官立の昌平学校として再出発。
1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都
江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。
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1868(慶応4/明治元)年、大阪府知事・後藤象二郎と参与兼外国宮副知事・小松帯万により、理化学校の大阪移設が建言される。明治新政府は舎密局(京都大学の源流)として大阪移設を決定。開成所御用掛の田中芳男・神田孝平・箕作麟祥・何礼之助、教師ハラタマと生徒数名を派遣。
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1869(明治2)年2月、大阪府知事・後藤象二郎、参与・小松清廉の尽力により、東成郡東高津村八丁目寺町(現・大阪市天王寺区上本町四丁目)の大福寺に浪華仮病院、および適塾(適々斎塾)元塾生らを中心とする仮医学校(後に大阪医学校、現・大阪大学医学部)設立。院長に緒方洪庵の次男・緒方惟準。主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招く。一般の病気治療と医師に対する新治術伝習を行う。
→ 大阪大学医学部
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1869(明治2)年6月10日(旧暦・5月1日)、大阪城西側大手前旧城番邸跡にて、大阪府所轄の舎密局(大阪舎密局)開校。オランダ人化学教師・ハラタマが教頭に。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1869(明治2)年9月、大阪府立の大阪洋学校(後に大阪英語学校)設立。英語科設置。後にフランス語科も設置される。
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1869(明治2)年 何礼之(30歳)、大阪洋学校創立を発議・設立。督務に。教鞭を執る傍ら、『経済便蒙』・『西洋法制』など訳出。
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1869(明治2)年12月、大阪洋学校、管轄が大阪府より民部省へ移管。兵庫県洋学校を合併。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年3月 折田彦市(22歳)、岩倉具定・岩倉具経の米国留学に随行。同じくフルベッキに学んだ服部一三と山本重輔も同行。官費留学生に。フルベッキが留学斡旋。他4名はアメリカニュージャージー州ニューブラウンズウィックに入学するも、英語力不足を理由に別行動に。ミルストンの町に寄宿。一時、神田乃武と同居。
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1870(明治3)年4月、大阪舎密局、大阪化学所の名称も使用。大阪化学所および大阪洋学校、大学南校管轄となる。
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1870(明治3)年5月、大阪理学所、造幣寮管轄に。間もなく、大学管轄に復帰。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
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1870(明治3)年10月24日、大阪洋学校、大阪開成所に改称。分局として大阪理学所を併合。語学に加えて理化学の教育を行い、大学南校と並ぶ西の洋学教育拠点に。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1871(明治4)年7月18日、大阪学問所、文部省の管轄に。
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1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。
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1872(明治5)年6月27日 折田彦市(24歳)、プリンストンのニュージャージー大学(現・プリンストン大学)入学。コーウィン牧師の勧めにより、キリスト教長老派協会の大学を受験。森有礼も大きく関わる。
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折田彦市、ニュージャージー大学学長のジェームズ・マコッシュが掲げる「秩序ある自由」の教育方針に大きく影響を受ける。自由尊重の精神が培われる。
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1872(明治5)年6月 肥田昭作(31歳)、明治天皇が大阪開成所を臨幸。管理者として迎える。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、大阪開成所は中学校へと改組。第四大学区第一番中学校に。大阪理学所を受け継いだ理化学課程を廃止。一旦閉校、全生徒を退学させた後、改めて試験実施。適格者に入学許可を与え、再開。
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1872(明治5)年9月 肥田昭作(31歳)、第四大学区第一番中学校監学心得に。規則改正・改組に伴う引継ぎなどにあたる。10月、第四大学区第一番中学校学長に。翌月、病のため辞す。
1873(明治6)年4月 学制二編追加
「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。
「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。
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1873(明治6)年4月10日、学制二編追加に伴い、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組。第一大学区開成学校に。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。
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1873(明治6)年4月、第四大学区第一番中学校、第三大学区第一番中学校に。開明学校に改称。通弁養成に加え、専門学校進学の予備教育のための機関として位置付け。
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1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業にと伴い順次廃止。
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1873(明治6)年10月、開明学校、フランス学科廃止。
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1873(明治6)年11月4日、学制二編追加により、開成学校より「語学課程」(普通科)が分離独立。開成学校語学課程(英・独・仏の3科)・独逸学教場・外国語学所を統合。東京外国語学校(東京外国語大学の源流)創立、官立最初の語学学校に。翌1874年までに全国に8校の官立外国語学校が設立される。
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東京外国語学校、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置(後に英語科が分離)。朝鮮語科を増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。
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1873(明治6)年末、東京外国語学校、開成学校が教授言語を原則として英語に統一したことにあわせて、東京外国語学校英語科を東京英語学校として独立。
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1874(明治7)年5月、開明学校、大阪外国語学校に改称。
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1874(明治7)年5月、東京開成学校に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編される。加えて、修業年限3年の予科が設けられる。
1874(明治7)年12月 官立外国語学校、英語学校に改称
愛知・大阪・広島・長崎・新潟・宮城の官立外国語学校、英語学校に改称。
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1874(明治7)年12月、大阪英語学校(後に第三高等中学校・第三高等学校、現・京都大学)に改称。
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1875(明治8)年10月 高橋是清(23歳)、大阪英語学校校長に。
1877(明治10)年2月19日 東京英語学校・大阪英語学校以外の官立英語学校廃止
愛知・広島・長崎・新潟・宮城の官立英語学校、廃止。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年4月13日 加藤弘之(42歳)、東京大学法・理・文三学部綜理に。
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1877(明治10)年 服部一三(27歳)、東京大学法・理・文三学部綜理補に。東京大学予備門主幹を兼務。
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1877(明治10)年、東京英語学校と東京開成学校予科が統合、東京大学予備門(後に第一高等中学校・第一高等学校)設立。「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」とされ、東京大学法・理・文三学部入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に。当初、東京大学医学部は別に予科を設ける。
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1879(明治12)年4月、大阪専門学校に改称。化学・医学よりなる本科(4年)、普通科として予科(4年)設置。
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1879(明治12)年4月4日 服部一三(27歳)、大阪専門学校(後に第三高等学校、京都大学)校長に。
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1880(明治13)年6月4日 服部一三(30歳)、東京大学法・理・文三学部綜理に。東京大学予備門予備門長を兼務。
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1880(明治13)年12月、文部省通達により、官立中学校に改組。大阪中学校に改称。最初の官立中学校であり、未整備であった中学校の模範となることが期待される。
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1880(明治13)年12月11日 折田彦市(32歳)、文部省の財政問題などを原因に、大阪専門学校の中学校改組が行われる。大阪中学校校長に。大学進学のための予科を主体とする学校となり、拡充を目指していた本科・医学科は消滅。在校生の行く先を求めて奔走することに。目まぐるしく変わる文部省の教育政策に対し、不満をあらわに。
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折田彦市、当時、中等教育と高等教育の接続方法も定まっておらず、中学校に関する運営方針が未整備であった。寄宿舎の整備・体操教育の導入など、後の中学校の在り方を方向付け、指導的な役割を果たす。中学校を大学に直接接続する学校として整備する一方、大阪中学校を大学相当の教育機関に発展させることを構想。
1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生
東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法・理・文三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。
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1885(明治18)年7月、大学分校に改称。校長に、折田彦市。
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1885(明治18)年7月 折田彦市(37歳)、大学分校校長に。
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1885(明治18)年9月、東京外国語学校、高等教育の基礎としての外国語教育について、英・仏・独3語科は東京大学予備門に合併。英・仏・独以外の語学科が東京商業学校(現・一橋大学)に合併される。東京外国語学校(旧外語)は廃止に。東京商業学校への合併に対し、東京外国語学校学生が激しく反発、中退者も出現。
1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足
太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼。
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森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく。
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1885(明治18)年12月 折田彦市(37歳)、森有礼の文部大臣就任による官制改革・人事刷新に伴い、文部省に呼び戻される。文部権大書記官・学務局次長心得に。学校教育制度改革、諸学校令制定作業に加わる。翌年3月、学務局長に。
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1885(明治18)年12月 中島永元(42歳)、新設間もない大阪の大学分校校長に。
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1886(明治19)年 森有礼(40歳)、学位令を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。
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1886(明治19)年、中学校令により、大学分校は第三高等中学校に改組。高等中学校の設置区域決定、京都移転。新校地は愛宕郡吉田村に。
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1887(明治20)年4月 折田彦市(39歳)、第三高等中学校校長復帰。京都移転を準備。本科・医学部設置。
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1887(明治20)年 松井直吉(31歳)、第三高等中学校(現・京都大学)教頭に。
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1889(明治22)年8月、新校地・京都吉田への移転完了。
1890(明治23)年10月30日 『教育ニ関スル勅語(教育勅語)』
近代日本の教育の基本方針として発布。
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1893(明治26)年7月 中川小十郎(28歳)、帝国大学法科大学政治学科卒業。農商務省入省を希望、東京大学予備門の恩師・木下広次に同省次官・斎藤修一郎を紹介してもらう。態度に憤慨、断り。木下広次の文部省専門学務局局長就任を機に、文部省入省。専門学務局局にて実業教育普及のため学科取り調べに着手。
1894(明治27)年6月25日公布 第一次高等学校令
1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、「高等学校」に改組すること主な目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。改組により、第一高等学校(東京)・第二高等学校(仙台)・第三高等学校(京都)・第四高等学校(金沢)・第五高等学校(熊本)が誕生(総称してナンバースクールと呼ばれる)。
専門学科(法学部・工学部・医学部など)を教授することを原則とする。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。
但し書きで帝国大学に入学する者のための予科を設けることができるとしたが、制度としては従属的な扱いであった大学予科が大いに発展。
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文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、帝国大学を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置。高等学校を専門教育機関として機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた帝国大学を改革することはできず。日清戦争後は帝国大学そのものが増設、高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強める。構想は実現せず。
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1894(明治27)年5月1日、高等学校令により、第三高等学校に改組。予科を置かず、将来の大学昇格を視野に法学部・工学部・医学部設置。初代校長に、折田彦市。
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1894(明治27)年 折田彦市(46歳)、第三高等学校初代校長に。「無為にして化す」の教育方針が三高の「自由」の精神を体現。生徒の人格を最大限認め、可能な限り干渉を排する姿勢を貫く。
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1894(明治27)年9月11日、第一次高等学校令により、第一高等中学校を第一高等学校に改組。卒業生の多くは東京帝国大学進学。政界・官界・財界・学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった学生による自治制度と皆寄宿制度(全寮制)。
→ 第一高等学校
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1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、病気で辞任の文部大臣・井上毅の後任として、第2次伊藤博文内閣に初入閣。文部大臣に。女子教育発展などに努める。
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1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、戊辰戦争以来の繋がり、中川家子息・中川小十郎との出会いを喜ぶ。厚遇、文部大臣秘書官に抜擢。
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1894(明治27)年 中川小十郎(29歳)、文部大臣・西園寺公望の秘書官として仕える。以後、首相秘書官・元老私設秘書として終生そばに仕え続ける。
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1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、高等教育拡張計画立案。東京帝国大学と共に国家の需要に応じる高等教育機関を京都の地に設置する必要を説く。京都帝国大学創立準備委員設置。私設秘書を務める中川小十郎を京都帝国大学初代事務局長に任命。
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第三高等学校を京都帝国大学に昇格する案が文部省内で議論されるも、大学予備機関に転換することに。予科を復活、専門学部廃止。施設を京都帝国大学に譲渡、二本松地区に校舎移転。
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1897(明治30)年6月28日 木下広次(47歳)、文部省専門学務局長を兼任のまま、新設の京都帝国大学初代総長に。ドイツ流の大学システムを採用、「自由」の学風の基礎を築く。大学寄宿舎設置、舎生に管理・運営を任せる。
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1897(明治30)年 折田彦市(49歳)、牧野伸顕・木下広次・永井久一郎と共に、京都帝国大学創立委員に。第三高等学校を京都帝国大学に昇格、初代総長の有力候補となる観測もあったが、第三高等学校は大学予備機関に転換することに。
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1897(明治30)年、学区制廃止。第一高等学校は全国から受験可能に。
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1899(明治32)年 中川小十郎(34歳)、教育への情熱を捨てきれず。文部官僚時代、創設に関わった京都帝国大学が高等学校卒業生しか受けれ入れることができないことに限界を感じ、私学創立を志す。教学面での協力を京都帝国大学教授陣より得、また設立賛助員として広岡浅子や西園寺公望実弟・住友友純からの大口寄付ほか京都政財界大物の協力を得る。朝日生命保険事務所の一角に、京都法政学校(現・立命館大学)設立事務所創立。
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中川小十郎、加島屋時代に生計のため働く青年たちが高等教育を受ける機会を奪われている現状に官立学校の不備実感。西園寺公望が提唱する「能力と意欲のある人に国として教育機会を与えるべき」実現のため、私学創立決意。
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1900(明治33)年6月5日 中川小十郎(35歳)、鴨川河畔の清輝楼にて京都法政学校開校。初代校長に、富井政章。司法省法学校卒業の京都始審裁判所勤務・山崎恵純が校主を務めるフランス法系私立法律学校・京都法学校を吸収。
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1900(明治33)年 木下広次(50歳)、京都帝国大学初代事務局長・中川小十郎による京都法政学校(現・立命館大学)設立に尽力。京都法政学校は京都帝国大学と「同心一体たるべきことを根本条件とすべき」と述べる。
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1903(明治36)年6月 中川小十郎(38歳)、木下広次に請われ、官界復帰。京都帝国大学書記官に。
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1907(明治40)年7月1日 木下広次(57歳)、京都帝国大学初代総長を依願退官。12月、名誉教授に。
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1910(明治43)年11月 折田彦市(62歳)、第三高等学校校長辞任。「三高三十年の感想は、わずかな時間に尽くすべくもない。私の生活は第三高等学校であった」
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1916(大正5)年 折田彦市(68歳)、最初の第三高等学校名誉教授に。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令
原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。
その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 第二次高等学校令
高等教育の拡大・改善を目的に。高等学校を「男子ノ高等普通教育ヲ完成スル」ための機関と位置付け、その内容を拡大・充実。官立のナンバースクールのみであった高等学校が、官立・私立・公立に拡大。1943(昭和18)年までに、高等学校は33校に。
1919(大正8)年2月7日公布・4月1日施行 第二次帝国大学令
帝国大学令を全部改正。分科大学制を廃止、学部制に。帝国大学官制により、総長・学部長・教授・助教授その他必要な職員を設置。
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1919(大正8)年4月1日、第二次帝国大学令により学部制へ。法学部・理学部・工学部・文学部・医学部に加えて経済学部を新設。
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1923(大正12)年、高等教育機関拡張政策を背景に、農学部設置。
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1925(大正14)年、創立期の中心的建物・京都帝国大学理工科大学本館があった場所に、「時計台」と称される本部本館竣工。設計者は、工学部建築学科初代教授・武田五一。2000人収容の大ホール、総長室、食堂、法学部・経済学部の教室などが置かれる。京都大学のシンボルに。
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1926(大正15/昭和元)年、大学初の附設研究所、化学研究所設置。
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1931(昭和6)年 天野貞祐(48歳)、京都帝国大学文学部教授に。
1946(昭和21)年 - 学制改革
第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。
複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。
戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。
1949(昭和24)年5月31日公布・施工 国立学校設置法
文部省管轄、全国に69の新制国立大学が発足。
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1949(昭和24)年5月、学制改革により、新制・京都大学発足。文学部・法学部・経済学部・理学部・医学部・工学部設置、教育学部新設。第三高等学校と附属医学専門部を包括。
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