ダイガクコトハジメ - 古賀精里
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古賀精里
こがせいり
1750(寛延3)年11月18日(旧暦・10月20日) - 1817(文化14)年6月17日(旧暦・5月3日)
佐賀藩校・弘道館(学館)創立、湯島聖堂(後に昌平坂学問所、東京大学の源流)取締、儒学者、「寛政の三博士」
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1750(寛延3)年 古賀精里(1歳)、佐賀藩に代々佐賀藩鍋島家藩士の子として生まれる。
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古賀精里、京都遊学。横井小車に朱子学、西依成斎に山崎闇斎の神道・思想を学ぶ。
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古賀精里、大阪に私塾を拓く。尾藤二洲・頼春水らと親交を深め、朱子学を追究。
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1781(安永10/天明元)年、佐賀藩第8代藩主・鍋島治茂、儒学者・古賀精里に命じ、佐賀城に近い松原小路に佐賀藩校・弘道館(学館)設立。水戸藩校・出石藩校の弘道館と並び、「天下三弘道館」と称される。
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1781(安永10/天明元)年 古賀精里(32歳)、佐賀に帰藩、藩主・鍋島治茂に仕える。主命により、佐賀城に近い松原小路に佐賀藩校・弘道館(学館)創立。教授に。水戸藩・出石藩(但馬国)の藩校・弘道館と並び称され、「天下三弘道館」と呼ばれる。幕末から明治維新にかけて活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、佐野常民、江藤新平(平胤雄)、島義勇ら多数の英傑を輩出。
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古賀精里、闇斎朱子学の教説に基づき、学問思想の統制を図る。徂徠学を排斥。
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1788(天明8)年6月 中井竹山(59歳)、懐徳堂(大阪大学文系学部の源流)は父・中井甃庵の代に官許学問所となっていたが、さらに昌平坂学問所(昌平黌)が官立となったように、官立学問所を目指した。江戸幕府の老中就任すぐの松平定信が大阪に。引見、3日と短い滞在期間の中で、政治・経済・学問などについて諮問を受ける。後に『草茅危言』を著作、献上。この引見から名声が全国に拡がり、来阪する諸大名や旗本らの招きが増える。懐徳堂に諸藩士や学者の訪問が相次ぐ。大坂城代・堀田正順との関係も緊密に、召し抱えの儒者として大阪城内に自由な出入りが許され、講義をするように。
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中井竹山、大阪の学問所・懐徳堂(大阪大学文系学部の源流)第4代学主として、「寛政の三博士」と呼ばれる柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里と親交。江戸幕府老中・松平定信が進める寛政の改革に際し、相互に影響を与える。
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1789(天明9/寛政元)年 古賀精里(40歳)、佐賀藩の支藩・蓮池藩のため、『十事解』著作。施政治民の要を説く。
1790(寛政2)年7月6日(旧暦・5月24日) 寛政異学の禁
江戸幕府老中・松平定信による教学政策。8代将軍・徳川吉宗が理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、古学や折衷学派などが流行したこともあり、朱子学が不振。湯島聖堂の廃止も検討される状況にあった。天明の大飢饉で低下した幕府の威信を取り戻すため、松平定信は儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させるべく学問統制。当時流行していた古文辞学や古学について、風俗を乱すものとして規制。学問所(後に昌平坂学問所)をはじめ、幕府教育機関における朱子学以外の異学の講義を禁じた。
林家の私塾であった学問所を林家から切り離し、聖堂学規や職制を制定、幕府直轄の教育機関とする。1792(寛政4)年9月、湯島聖堂仰高門内に講舎落成。旗本・家人を問わず、幕臣とその子弟の学問吟味を行う。
朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系(新儒教)である。万物は宇宙の理想的なあり方を示す善や真の概念「理」と現実世界の諸現象「気」から成るとし(理気二元論)、「理」である理性・道徳により、「気」としての現実を支配することを理想とした。江戸幕府が朱子学を正学(官学)と定めた背景には、政権の安定と支配層の再生産について、「理」を四民の身分秩序にあると定義(上下定分の理)し、身分制度を知的・理念的側面から支えたい思惑があった。武士が学ぶべき学問として、思想体系・教育環境の整備を図る。一方で現実の「気」に重きを置き、実践を重視(知行合一)した陽明学は反体制的な行動を誘引する恐れがある学問とされ、日本だけでなく東アジアの多くの体制下で異端・異教として扱われた。
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1791(寛政3)年 尾藤二洲(47歳)、幕府からの招聘を受け、昌平坂学問所(昌平黌)教官に。
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1796(寛政8)年 古賀精里(47歳)、幕府からの招聘を受け、昌平坂学問所(昌平黌)教官に。
1797(寛政9)年 昌平坂学問所(昌平黌)設立
学舎の敷地拡張、昌平坂学問所(昌平黌)設立。外部より尾藤二洲・古賀精里を教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可される。柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里の3名は「寛政の三博士」と呼ばれる。
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1797(寛政9)年 古賀穀堂(20歳)、幕府より父・古賀精里が招聘を受けて昌平坂学問所(昌平黌)の学官に任じられると、その後を追いかけて江戸に。父の下で学び、柴野栗山・尾藤二洲からも教えを受ける。
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1799(寛政11)年、長年荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成。敷地面積は1万6千坪余りに。大成殿も水戸孔子廟にならい、創建時2.5倍規模の黒塗りの建物に改められる。
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1806(文化3)年 古賀穀堂(29歳)、佐賀に帰藩。佐賀藩校・弘道館の教授に任じられる。佐賀藩第9代藩主・鍋島斉直に意見書『学政管見』提出。「教育予算は削らず、逆に三倍に増やすべき」など提言、教育の重要性を訴えるのみならず、学問に励まない藩士・僧侶の処罰、儒学以外の医学・蘭学の振興の必要性を訴える。
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1816(文化13)年12月29日(旧暦・11月11日) 古賀謹一郎(1歳)、江戸・昌平坂学問所(昌平黌)官舎にて、儒者古賀侗庵と鈴木松との間に生まれる。祖父は、「寛政の三博士」と称される儒者・古賀精里。儒者の家系に生まれ、幼い頃から漢籍・経典に精通。
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1817(文化14)年6月17日(旧暦・5月3日) 古賀精里(68歳)、死去。享年68歳。後年、従四位を追贈される。
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古賀穀堂、父・古賀精里を尊敬すること厚く、午前4時に起床、勉学に打ち込む。一方、父が排斥した朱子学以外の人士とも積極的に交流。陽明学者・頼山陽や徂徠学派・亀井昭陽とも親交。「文政の三太郎」と呼ばれる。
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