ダイガクコトハジメ - 司法省法学校
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東京法学社
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東京仏学校
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和仏法律学校
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参考情報
参考文献・書籍
司法省法学校年表
学校略歴
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1870(明治3)年、江藤新平、制度取調専務として国家機構整備、フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示、憲法制定作業に着手
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江藤新平、国法会議や民法会議を主催、加藤弘之・箕作麟祥らと共に『民法典編纂』に取り組む、フランスの法制度を高く評価、「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」
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1871(明治4)年7月、司法省設置
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1871(明治4)年9月、江藤新平、フランス語とフランス法律の研究教育機関・司法省明法寮創立を主導、大学南校より優秀な生徒を引き抜き、フランス法律実務の専門家を育成
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1872(明治5)年 - 1873(明治6)年、ジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードが来日、司法省明法寮教員に、フランス語による本格的な法学教育を開始
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1875(明治8)年5月、司法省法学校設立、卒業者に「学士」の称号を与えることができる司法省管轄の高等教育機関に
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1876(昭和9)年、代言人資格試験制度、法律実務を担う法律家の育成が急務となるも、司法省法学校と東京大学法学部の官立2学校だけでは人材需要を十分にまかなうことができず、各地に試験準備のための私立法律学校が開校、私立大学発足の一大源流に
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1877(明治10)年、東京大学法学部発足、英米人御雇教師により英米法が講じられる、フランス法学派と英米法学派との対立、後の民法典論争に大きく影響
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1880(明治13)年、代言人資格試験制度の厳格化、司法省法学校・東京大学法学部の卒業者や欧米留学経験者、官職者らの手により、本格的な私立法律学校が設立されるように
→ 明治法律学校
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明治法律学校、自由民権運動の高まり、急速に野党色を強めていく、政府より自由民権の牙城とみなされる
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明治法律学校、司法省法学校関係者の支援を受け設立された準官学的な立場の東京法学社と激しく対抗、熾烈な授業料値下げ競争、共倒れ危惧、明治10年代末に至りようやく抗争終結
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1884(明治17)年12月、管轄が司法省より文部省に移管、東京法学校に改称
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1885(明治18)年9月、東京大学法学部が東京法学校を併合、東京大学法学部仏法科設置
→ 東京大学法学部仏法科
創立者
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江藤新平
学校年表
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
1870(明治3)年7月27日 貢進生
太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。
1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。
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1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手。
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江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥・加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。
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1871(明治4)年6月28日(旧暦・5月11日) 楠田英世(41歳)、司法省明法寮権頭に。後に、司法大丞、司法大検事を兼任。江藤新平が主催する民法会議に出席。箕作麟祥・加藤弘之らと共に民法編纂に従事。
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1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。
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1871(明治4)年7月 江藤新平(38歳)、文部大輔に。加藤弘之と共に日本の教育制度改革に着手。大学本校・大学南校・大学東校の分裂問題を担当、「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。また、文部省務の大綱を定める。後任の盟友、初代文部卿・大木喬任の下、学制として体系化される。
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1871(明治4)年7月、司法省設置。刑部省と弾正台を廃止。初代司法卿に、江藤新平。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1871(明治4)年9月27日、司法省明法寮設置。法律専門家の育成が急務に。
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1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。
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1872(明治5)年4月25日 江藤新平(39歳)、新設された司法省の初代司法卿に就任。四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。
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江藤新平、政府内における急進的な民権論者であり、「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。
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江藤新平、英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める。政府内保守派は、行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ち、プロイセン王国(後のドイツ帝国)を範としており、厳しく非難される。また、急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省・井上馨との確執を招く。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。
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1872(明治5)年8月 岸本辰雄(22歳)、新設の司法省明法寮に第一期生として入学。ジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらにフランス法を学ぶ。宮城浩蔵・磯部四郎・矢代操・杉村虎一と五人組として親交。
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1872(明治5)年 宮城浩蔵(21歳)、司法省明法寮に第一期生として入学。ボアソナードらにフランス法を学ぶ。
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1872(明治5)年 - 1873(明治6)年、司法省顧問としてジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードが来日。司法省明法寮教員に。フランス語による本格的な法学教育を開始。
1873(明治6)年4月 学制二編追加
「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。
「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。
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1873(明治6)年4月10日、学制条文追加に伴い、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組。第一大学区開成学校に。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。
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1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。
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1873(明治6)年5月 江藤新平(40歳)、官吏の汚職に厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥・山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及。予算を巡る対立も絡み、2人を一時的に辞職に追い込む。
1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変
征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・桐野利秋・大隈重信・大木喬任ら。反対したのが大久保利通・岩倉具視
・木戸孝允・伊藤博文・黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。
閣議において、大隈重信・大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。
西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。
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1873(明治6)年 板垣退助(37歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。
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1873(明治6)年10月 大木喬任(42歳)、参議兼司法卿に。士族の反乱(萩・秋月の乱)の司法処理に力を注ぐ。
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1873(明治6)年11月 箕作麟祥(28歳)、ボアソナードが来日。以降、ボアソナードの下で法典編纂に従事。
1874(明治7)年 - 1890(明治23)年 自由民権運動
明治六年政変で征韓論を主張し敗れた板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らが明治政府を下野、征韓派勢力を結集。1874(明治7)年1月12日、愛国公党を結成。1月17日に『民選議員設立建白書』を左院に提出。国会開設の請願を行ったことに始まる政治・社会運動。藩閥政府による専制政治を批判。憲法制定・議会開設・地租軽減・不平等条約撤廃・言論の自由や集会の自由の保障など要求を掲げる。1890(明治23)年の帝国議会開設頃まで続く。
自由民権運動は教育界にも多大に影響。1876(明治9)年、代言人(弁護士)資格試験制度が発足すると、代言人の養成を主目的とする私立法律学校が林立。これら私立法律学校が法学を学ぼうとする法律青年だけでなく、自由民権運動に熱を上げる政治青年の学びの場に。法学教育が同時に政治教育の役割も担うこととなる。特に、明治法律学校(現・明治大学)ほか「権利や自由の重要性」を説くフランス法系法律学校は自由民権運動の牙城に。政府より猜忌の目を以って注視されることに。
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1874(明治7)年 鶴田皓(39歳)、司法省明法寮権頭に。
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1874(明治7)年 箕作麟祥(29歳)、5年の歳月をかけ、フランスの諸法典を全訳した『仏蘭西法律書』上申。日本で初めて「権利」・「義務」という訳語を用いたほか、訳語を新規に創作。日本国に初めて近代法典を知らしめる。近代的裁判制度への大きな転換期にあり、手探りの中で裁判にあたっていた当時の司法官に多大な影響を与え、その後の日本の近代的法制度整備の基礎を築く。このことから、「法律の元祖」と評される。Constitutionを「憲法」と訳し、定着させる。
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1874(明治7)年 加藤弘之(39歳)、『国体新論』発表。天賦人権論の立場から人民の自由尊重を述べ、国家・政府・人民のあり方を説く。この頃まで、民撰議院設立尚早論を展開するも平等思想啓蒙の立場に立つ。自由民権運動の高まりを受け、次第に人権思想否認に傾斜。自ら『国体新論』・『真政大意』を絶版に。
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1875(明治8)年5月、司法省所管の法学校、司法省法学校設立。麹町区永楽町の司法省敷地内にあった旧信濃国松本藩邸の建物を校舎に。卒業者に「学士」の称号を与えることができる司法省管轄の高等教育機関となる。
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1875(明治8)年 - 1882(明治15)年 木下広次(25歳)、司法省明法寮を卒業しないまま、フランス留学。パリ大学法科入学。1879(明治12)年に卒業、法律学士・法学博士の学位を得る。1882(明治15)年まで研学。
1876(昭和9)年 代言人資格試験制度・私立法律学校発足
江戸時代において”法律”はお上が制定・運用するものであり、法や法律に関する研究・出版を行うことは「お上を誹謗する振る舞い」として厳しく制限、法律学が独立した学問分野として成立することはあり得なかった。しかし、明治時代に入って欧米社会に進出。欧米各国と対等に付き合うため、法典や司法制度など整備が急務となった。官立法学校として1871(明治4)年に司法省明法寮(後に司法省法学校)・1877(明治10)年に東京大学法学部が設置され、法律・法学の教育・研究が進められる。
法典整備に先行し、近代的裁判制度が発足。代言人(現・弁護士)の資格試験制度が成立。このため、法律実務を担う法律家の育成が急務となるも、官立2学校だけでは人材需要を十分にまかなうことができず。各地に試験準備のための私立法律学校が開校。私立大学発足の一大源流となる。
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東京大学法学部では英米人御雇教師により英米法が講じられ、司法省明法寮(後に司法省法学校)ではボアソナードらフランス人御雇教師によりフランス法学が講じられる。このことがフランス法学派と英米法学派との対立、後の民法典論争に大きく影響する。また、官立両法律学校は英語・フランス語それぞれに習熟している者でなければ十分に学ぶことは不可能であった。
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1876(昭和9)年7月、第一期生20名が卒業。この時点では、法律学士の称号授与の権能を有していなかったため、称号授与は行われず。第一期生はギュスターヴ・エミール・ボアソナードによる旧民法など法典編纂に協力。民法典論争において断行派の中核に。
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第一期生卒業を受け、第二期生入学。第二期生以降は修業年限が8年(予科4年、本科4年)、定員100名に増員。予科はフランス語を中心とする普通教育、本科はフランス語による法学教育が行われる。第一期・第二期卒業生の多くが、フランス法系私立法律学校の創立者や校長・講師となる。
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フランス人御雇い外国人ジョルジュ・アッペールが法学教育を担当。また、裁判官の速成教育のため修業年限2年の出仕生徒の制度を新設。
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1876(明治9)年8月 - 1880(明治13)年2月 岸本辰雄(26-30歳)、司法省法学校卒業。宮城浩蔵・小倉久と共に、国費にてフランス留学。パリ法科大学入学。民法典をビュフノワール、ローマ法をポール・ジイド、民事訴訟法をカルソネに学ぶ。フランス法律学士の学位取得。
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1876(明治9)年8月 - 1880(明治13)年2月 宮城浩蔵(25-29歳)、司法省法学校卒業。岸本辰雄・小倉久と共に、国費にてフランス留学。リヨン大学入学。法律学・政治学を学ぶ。フランス法律学士の学位取得。
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1876(明治9)年 矢代操(25歳)、「新入諸生徒ニモ及ハサル」成績で卒業。フランス留学・司法省入省叶わず。法律系出版社・時習社の設立参画。
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1876(明治9)年頃 矢代操(25歳)、北畠道龍・大井憲太郎らの法律学校・講法学舎設立参加。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年4月13日 加藤弘之(42歳)、東京大学法・理・文三学部綜理に。
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1877(明治10)年 箕作麟祥(32歳)、司法大書記官に。翻訳課長兼民法編纂課長に。民法編纂委員に。
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1879(明治12)年 相馬永胤(30歳)、日本に帰国。司法省出仕、代言人に。次いで判事に任じられるも辞職。目賀田種太郎と共同で東京市京橋区(現・東京都中央区)に法律事務所を開設。事務所の2階に、やはり米国から帰ったばかりの田尻稲次郎と駒井重格が寄宿。4人で起居を共にし、法律学校設立の準備に動き出す。
1880(明治13)年 代言人資格試験制度の厳格化
日本最初の近代法として刑法・治罪法制定。代言人(現・弁護士)規則改正により資格試験が厳格化。司法省法学校・東京大学法学部の卒業者や欧米留学経験者、官職者らの手により、本格的な私立法律学校が設立されるように。
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1880(明治13)年4月 岸本辰雄(30歳)、帰国。司法省入省、判事に。司法省法学校で法律講義。
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1880(明治13)年 矢代操(29歳)、フランス留学より帰国の岸本辰雄・宮城浩蔵を法律学校・講法学舎の講師に招く。内紛、集団退学騒動。退学した学生より新しい法律学校開設を求められる。明治法律学校(現・明治大学)創立の契機に。
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1880(明治13)年6月 目賀田種太郎(28歳)、司法省附属代言人の最初の3人の一人に。東京代言人組合(現・東京弁護士会)会長に。
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1880(明治13)年6月 相馬永胤(31歳)、司法省附属代言人の最初の3人の一人に。
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1880(明治13)年8月 宮城浩蔵(29歳)、帰国。司法省入省、大審院検事に。
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1880(明治13)年9月14日 相馬永胤(31歳)、慶應義塾夜間法律科を独立させる形で、三叉学舎法律経済科・東京攻法館法律科の3社を統合。田尻稲次郎・目賀田種太郎・駒井重格と共に専修学校(現・専修大学)創立。初代校長に。日本で最初の私立法律経済学校が誕生。明治法律学校・東京専門学校・東京法学校・英吉利法律学校と「五大法律学校」と呼ばれる。福澤諭吉の好意により、簿記講習所を仮校舎として利用。
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法律学を本格的に教える教育機関は、東京大学法学部や司法省法学校など極少数であった。東京大学法学部が英語、司法省法学校が仏語で教授していたのに対し、専修学校法律科は日本語で英米法を教授する唯一の本格的法律学校に。多くの学生を集める。
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1881(明治14)年1月17日 岸本辰雄(31歳)、有楽町数寄屋橋の旧・島原藩上屋敷にて、司法省法学校同窓の宮城浩蔵・矢代操と共に明治法律学校(現・明治大学)創立。旧鳥取藩主・池田輝知と旧島原藩主・松平忠和の財政的援助を受ける。校長を置かず、3名の合議制で学校運営。矢代操と民法・商法を、宮城浩蔵が刑事法を教授。
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1881(明治14)年 宮城浩蔵(30歳)、岸本辰雄・矢代操と共に明治法律学校(現・明治大学)創立。刑事法教授。旧刑法下、フランス刑法理論の新古典派・折衷主義を日本にもたらすことに大きく貢献、「東洋のオルトラン」と呼ばれる。
→ 明治法律学校
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1881(明治14)年 西園寺公望(33歳)、フランス留学中に親交の岸本辰雄・宮城浩蔵らが創立した明治法律学校(現・明治大学)講師に迎えられる。行政法を教授。法論会会長に。
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司法省法学校卒業者による準官学的なフランス法系法律学校として出発するも、自由民権運動の高まりにより急速に野党色を強めていく。フランス革命の影響、権利自由の拡張を主張する学生たちが集い、政府より自由民権の牙城とみなされることに。自由党を支える人材を多数輩出。
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同じくフランス法系法律学校として司法省法学校関係者の支援を受け設立された東京法学社(現・法政大学)と激しく対抗。自由民権色を強めた明治法律学校(現・明治大学)と異なり、「本校に於て政事に関する事項は一切之を講ぜず」を掲げる東京法学社は準官学的な立場を貫く。熾烈な授業料値下げ競争、共倒れ危惧。明治10年代末に至り、和議。ようやく抗争終結。
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フランス留学組の岸本辰雄・宮城浩蔵・西園寺公望・光妙寺三郎ら、留学先で急進的法学者エミール・アコラスの影響を受ける。ボアソナードの怒りを買ったことで、ボアソナード直系・東京法学社(現・法政大学)と対立を深める。
1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生
東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法・理・文三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。
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1881(明治14)年9月18日、当時最先端を誇ったドイツ文化の移植を目的に。政府主導により、獨逸学協会(獨協大学の源流)設立。初代総裁に、北白川宮能久親王就任。
1881(明治14)年10月 明治十四年の政変
自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。
政府から追い出され下野した福澤諭吉の慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓・矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。
1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭
自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。
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1882(明治15)年3月14日 伊藤博文(42歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。
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森有礼、憲法調査のため渡欧中の伊藤博文と面会。日本の政治について議論。「日本の発展・反映のためには、先ずは教育からこれを築き上げねばならない」という教育方針を披歴。この国家教育の方針に関する意見が伊藤博文に強い感銘を与える。「国家のための教育」の文教制度改革のため、帰国を命じられることに。
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1883(明治16)年 西周(55歳)、獨逸学協会を母体に、獨逸学協会学校(獨協大学の源流)創立。初代学長に。加藤弘之など啓蒙学者が設立に関与、精神的支柱にドイツ啓蒙主義を置く。設立メンバーに、政治・外交を支える品川弥二郎・井上毅・青木周蔵・桂太郎・平田東助・伊藤博文らが加わる。学校運営は、品川弥二郎が中心的役割を果たす。
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1883(明治16)年 品川弥二郎(41歳)、北白川宮能久親王を会長、自身を委員長に獨逸学協会学校(獨協大学の源流)創立。学校運営において中心的役割を果たす。
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1884(明治17)年3月 森有礼(36-37歳)、伊藤博文の要請により、英国より帰国。参事院議官、文部省御用掛を兼勤。日本の教育制度全般に関する改革に着手。国家至上主義の教育観より、国体教育主義を基本方針とする文教政策を推進。「今夫国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせんと欲せば、国民の志気を培養発達するを以て其根本と為さざることを得ず」
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1884(明治17)年7月、二期生卒業。入学生104名中、卒業生37名。法律学士の称号を授与(東京大学法学部卒業生の称号は法学士)。第一期生20名およびフランス留学5名にも法律学士の称号が与えられる。
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1884(明治17)年12月、司法省法学校の管轄が司法省より文部省に移管。東京法学校に改称。
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1885(明治18)年9月、東京大学法学部が東京法学校を併合。東京大学法学部仏法科設置。
→ 東京大学法学部仏法科
1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足
太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年5月 辻新次(45歳)、帝国大学工科大学初代工科大学長に就任した古市公威らと共に、仏学会(日仏協会の前身)設立。初代会長に。11月、東京仏学校(後に東京法学校と合併、現・法政大学)創立。
1886(明治19)年 私立法律学校特別監督条規
東京府下に所在し、特に教育水準が高く特別許認可を受けた英吉利法律学校(現・中央大学)・専修学校・東京専門学校(現・早稲田大学)・東京法学校(現・法政大学)・明治法律学校(現・明治大学)の5校について、帝国大学総長の監督下に。帝国大学特別監督学校(五大法律学校)となる。
背景に、帝国大学のみでは間に合わない行政官僚育成について、新たに私立法律学校にもその補助的な機能を担わせたいという政府の思惑があり。また、高等文官試験受験の特権を認める代わりに、放任されていた私立法律学校について監督・干渉することが構想された。
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1886(明治19)年11月 岸本辰雄(36歳)、法律取調報告委員に。
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1886(明治19)年12月 岸本辰雄(36歳)、司法省参事官に。
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1886(明治19)年 宮城浩蔵(35歳)、司法省参事官に。
1887(明治20)年7月25日 文官試験試補及見習規則
官僚任用制度として、高等文官試験(高等試験)が定められる。試験は奏任官対象の高等試験と判任官対象の普通試験の二種類が設けられる。帝国大学法科大学・帝国大学文科大学の卒業生に対し、無試験で高等官(勅任官・判任官)の試補となる特権が与えられる。
文部大臣により特別認可された私立法律学校卒業生に受験資格が与えられるとされ、英吉利法律学校(現・中央大学)・専修学校・東京専門学校(現・早稲田大学)・東京法学校(現・法政大学)・明治法律学校(現・明治大学)に加えて、独逸学協会学校と東京仏学校(後に東京法学校と合併し和仏法律学校、現・法政大学)の7校が認可される。この特権を得られるか否かが、私立法律学校の経営・存続を左右する死活問題となる。
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1887(明治20)年 箕作麟祥(42歳)、法律取調委員会委員に。
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1887(明治20)年 箕作麟祥(42歳)、明治法律学校(現・明治大学)名誉校員に推される。
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1888(明治21)年 箕作麟祥(43歳)、司法次官に。
1889(明治22)年2月11日公布 1890(明治23)年11月29日施行 大日本帝国憲法(明治憲法)
君主大権のプロイセン憲法(ドイツ憲法)を参考に、伊藤博文が日本独自の憲法を草案。明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出され、大日本帝国憲法を発布。国民に公表される。
明治新政府は大政奉還・王政復古を経て、天皇の官制大権を前提に近代的な官僚機構構築を目指し、直接的君主政に移行。大日本帝国憲法第10条にて、「官制大権が天皇に属する」と規定。
版籍奉還を経て、土地と人民に対する統治権を藩・藩主より天皇に奉還。天皇の下に中央政府が土地・人民を支配、統治権(立法・行政・司法)を行使。廃藩置県を経て、国家権力が中央政府に集中。大日本帝国憲法第1条および同4条にて、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定。同時に、人民の財産権・居住移転の自由を保障。等しい公務就任権を規定。兵役の義務を規定。
衆議院と貴族院の両院制による帝国議会を開設、華族の貴族院列席特権を規定。
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1889(明治22)年9月9日 箕作麟祥(44歳)、和仏法律学校(後に東京仏学校と合併、現・法政大学)初代校長に。司法次官の公務の傍ら、校務にあたる。ボアソナードが教頭を務める。民法典論争において、法典実施断行派の拠点に。
1889(明治22)年 - 1892(明治25)年 民法典論争
旧民法施行の是非を巡り論争展開。延期派は、「法典が簡明でなく」・「内容もフランス法的に過ぎる」・「拙速主義に依らず、条約改正事業と切り離して慎重に編纂すべき」と主張。断行派は、「形式上の問題は認めるが」・「内容面では十分日本の慣習を尊重している」・「法典断行が条約改正および司法権の確立に資する」と反論。論争の結果、延期派が勝利。ドイツ民法第一草案をはじめとする比較法研究を踏まえ、旧民法の形式上の欠点を克服しながら、現行日本民法典の成立に至る。
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箕作麟祥、民法典論争において、ボアソナード民法典をベースとする旧民法典の実施断行を主張。施行延期が決まった後も、法典調査会主査委員に任命され、新民法典編纂に積極的に関わっていく。1984(明治27)年に法典調査会副総裁を務めた西園寺公望は、総裁・伊藤博文に対し、副総裁を箕作麟祥に譲りたいと願い出ている。
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明治法律学校、民法典論争において和仏法律学校と共に実施断行論を掲げも、延期派に敗れる。校運、一時衰退。ドイツ法全盛の中、ドイツ法系学者を多数招聘することで生き残り図る。
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1893(明治26)年 箕作麟祥(48歳)、法典調査会主査委員に。
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1893(明治26)年 岸本辰雄(43歳)、法典調査会委員に。
1893(明治26)年12月 司法省指定学校
司法省が判事検事登用試験規則に基づき、判事検事登用試験受験資格を関西法律学校(現・関西大学)・日本法律学校(現・日本大学)・東京法学院(現・中央大学)・独逸学協会学校(獨協大学の源流)・東京専門学校(現・早稲田大学)・明治法律学校(現・明治大学)・慶應義塾(現・慶應義塾大学)・専修学校(現・専修大学)・和仏法律学校(現・法政大学)の九校の私立法律学校卒業生に与える。帝国大学法科大学卒業生は試験免除で司法官試補に任命された。
九校から関西法律学校(現・関西大学)を除き、帝国大学法科大学を加えた法律学校を「九大法律学校」と呼ぶ。
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1895(明治28)年、獨逸学協会学校専修科(獨協大学の源流)、政府からの補助金が打ち切られたことより経営が行き詰まる。教授陣や教育課程がそのまま帝国大学法科大学獨法科へ移管。廃校。普通科は旧制中学校として存続、現・獨協中学校・高等学校に。
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