ダイガクコトハジメ - 小幡甚三郎
小幡甚三郎
小幡甚三郎
おばたじんざぶろう
1846(弘化2)年1月2日(旧暦・12月5日) - 1873(明治6)年1月29日
慶應義塾初期運営に尽力、開成所教授手伝並、藍謝堂(高島学校)教員
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1846(弘化3)年1月2日(旧暦・12月5日) 小幡甚三郎(1歳)、 豊前国中津藩殿町(現・大分県中津市殿町)に中津藩家老・小幡氏の中津藩士で供番・元締兼郡奉行を務める小幡篤蔵の三男として生まれる。兄は、小幡篤次郎。
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小幡篤次郎、 幼時より、父・小幡篤蔵に四書五経を習う。
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小幡篤次郎、中津藩校・進脩館に入学、藩儒・野本真城、野本三太郎、藩士・古宇田姑山より漢学を学ぶ。弟・小幡甚三郎と共に塾頭並に。
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小幡甚三郎、 兄・小幡篤次郎と共に、中津藩校・進脩館塾頭並に。
1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令
新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。
1857(安政4)年2月 蕃書調所発足
洋学所を蕃書調所(東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪、中村敬輔(中村敬宇・中村正直)、加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。
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蕃書調所、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。
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1857(安政4)年 福澤諭吉(23歳)、最年少で適塾(適々斎塾)第10代塾頭に。オランダ語の原書を読み、あるいは筆写、その記述に従って化学実験、簡易な理科実験などを行う。生来血を見るのが苦手であり、瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さず。
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1858(安政5)年、蕃書調所、幕臣の子弟に限らず、諸藩士の子弟の入学も認める。
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岡見清熙、江戸中津藩邸内にて蘭学塾(慶應義塾大学の源流)設立。蘭学教師について、投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を杉亨二、松木弘安(寺島宗則)に依頼。一方、幕府において勝海舟が台頭。大砲も判り、勝海舟とも通じる適塾塾頭・福澤諭吉に白羽の矢を立てる。
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1858(安政5)年 福澤諭吉(24歳)、中津藩江戸藩邸に設立された蘭学塾(慶應義塾大学の源流)の講師を任されることに。適塾(適々斎塾)を去る。塾頭後任に、長與專齋を指名。古川正雄(古川節蔵)・原田磊蔵を伴う。築地鉄砲洲の奥平家中屋敷に住み込み、蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の鳩居堂から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。
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1859(安政6)年 福澤諭吉(25歳)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜を見物。そこではもっぱら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来、英語の必要性を痛感。英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。鎖国の日本ではオランダが鎖国の唯一の例外であったが、大英帝国が世界の覇権を握る中、オランダに昔日の面影はなかった。蘭学塾が英学塾に転身する契機に。
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福澤諭吉、英語の勉強を志すも、当時鎖国日本の中でオランダ語以外の本は入手困難であった。幕府通辞・森山栄之助を訪問、英学を学ぶ。蕃書調所へ入所するも、英蘭辞書が持ち出し禁止だったため、1日で退所。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするも、神田孝平は蘭学から英学に転向することに躊躇、今までと同じように蘭学のみを学習することを望む。そこで村田蔵六に相談、ヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく、蕃書調所の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得することに。
1860(安政7)年 万延元年遣米使節
1858(安政5)年7月29日(旧暦・6月19日)締結の日米修好通商条約について、批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府がアメリカに使節団を派遣。外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興を正使、村垣範正を副使に。目付に、小栗忠順。米軍艦ポーハタン号に加え、護衛を名目に咸臨丸を派遣。軍艦奉行・木村喜毅を司令官に、乗組士官の多くを軍艦操練所教授・勝海舟をはじめとする長崎海軍伝習所出身者で固める。通訳に、中浜万次郎(ジョン万次郎)。軍艦奉行・木村喜毅の従者として、福澤諭吉も同行。総勢77人に。
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1860(安政7/万延元)年 福澤諭吉(26歳)、日米修好通商条約の批准交換のため、万延元年遣米使節が米軍艦ポーハタン号で渡米。この護衛艦・咸臨丸に軍艦奉行・木村摂津守の従者として乗り込み、アメリカへ。蒸気船を初めて目にしてからたった7年後、日本人のみの手によって初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海について、「日本人の世界に誇るべき名誉である」と述べる。
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1860(安政7/万延元)年 福澤諭吉(26歳)、アメリカより帰国。木村摂津守の推薦により、中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕。外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっており、英語とオランダ語を対照するのに都合が良く、英語の勉強を行う。
1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置
文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所は昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。
1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 文久遣欧使節団
1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。
正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中・福地源一郎・福澤諭吉・松木弘安(寺島宗則)・箕作秋坪・尺振八らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。
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1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、文久遣欧使節に幕府翻訳方として同行。同行者に、寺島宗則・福地源一郎・箕作秋坪・尺振八がおり、行動を共に。途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりに。イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪問。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚く。書物では分からない、病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度など、未知の事柄・日常について調べる。
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1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、ロンドンにて万国博覧会視察。蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクにて、陸軍病院で外科手術を見学。
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1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、幕府支給の支度金400両で、英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰る。
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1863(文久3)年 福澤諭吉(29歳)、文久遣欧使節の品川帰港の翌日に英国公使館焼き討ち事件、3月に孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月に石清水八幡宮への行幸を受け、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つように。同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が切られそうになるなど、外出も難しい世情に。
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1863(文久3)年7月 福澤諭吉(29歳)、薩英戦争、幕府翻訳方の仕事が忙しくなる。外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳。翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案。
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1864(文久4/元治元)年 小幡篤次郎(22歳)、江戸より帰藩した福澤諭吉に勧められ、弟・小幡甚三郎と共に江戸に出る。江戸鉄砲洲中津藩邸の英学塾(現・慶應義塾大学)に入塾。英学を学ぶ。
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1864(文久4/元治元)年 小幡甚三郎(19歳)、江戸より帰藩した福澤諭吉に勧められ、兄・小幡篤次郎と共に江戸に出る。江戸鉄砲洲中津藩邸の英学塾(現・慶應義塾大学)に入塾。
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1866(慶応2)年 - 1868(慶應4/明治元)年 小幡篤次郎(24-26歳)、江戸鉄砲洲中津藩邸の英学塾(現・慶應義塾大学)塾頭に。
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1866(慶応2)年 小幡篤次郎(24歳)、 弟・小幡甚三郎と共に開成所教授手伝並出役に。
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1866(慶応2)年 - 1870(明治3) 福澤諭吉(33-37歳)、1860(安政7/万延元)年に万延元年遣米使節随行員としてアメリカに渡って以降、ヨーロッパの状況を日本に紹介。『西洋事情』刊行。初編3冊・外編3冊・2編4冊の10冊。その内容は政治・税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気機関、電信機、ガス燈などに及ぶ。著書を通じ、啓蒙活動を展開。
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1867(慶応3)年2月27日(旧暦・1月23日) 福澤諭吉(33歳)、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共にコロラド号で再び渡米。津田仙・尺振八が同乗。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れる。紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込む。
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福澤諭吉、帰国後、現地で使節主席・小野友五郎と揉めたことで、しばらく謹慎に。中島三郎助の働きかけにより、謹慎はすぐに解ける。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し
官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。
1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文』
政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
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1868(慶応4/明治元)年4月 福澤諭吉(34歳)、塾を慶應義塾と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は慶應義塾内に紀州塾という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。
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1868(慶応4/明治元)年 吉田賢輔(31歳)、福澤諭吉が慶應義塾を立ち上げるにあたり、盟友として指導的役割を果たす。福澤諭吉・小幡篤次郎と共に、慶應義塾の塾長兼教授として最も高い地位に就く。漢学を教える。上杉麻布邸で平田東助・内村良蔵・曽根俊虎、米沢藩・甘糟継成を指導。
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1868(慶応4/明治元)年 箕作秋坪(43歳)、浜町(現・東京都中央区日本橋蛎殻町)の津山藩江戸屋敷一角を借り、私塾・三叉学舎創立。漢学、数学に加え、幕末期にオランダ語に代わって習得が急務となっていた英語を教える。福沢諭吉の慶應義塾と並び「洋学塾の双璧」と称される。東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦ほか、日本の政治・経済・教育を牽引する人材を輩出。
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1868(慶応4)年7月4日(旧暦・5月15日) 福澤諭吉(34歳)、上野戦争、明治新政府軍と彰義隊の合戦が起こる中、慶應義塾でF・ウェイランド『経済学原論』の講義を続ける。「日本国中苟も書を読んで居る処は唯慶應義塾ばかり」。
1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都
江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。
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1868(慶応4)年 福澤諭吉(34歳)、江戸開城、明治新政府から出仕を求められるも、辞退。以後、官職につかず。翌年1869(明治2)年、帯刀をやめ、平民に。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。
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1869(明治2)年 福澤諭吉(35歳)、「教授もやはり人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある」と、日本で初めて授業料の制度をつくる。
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1870(明治3)年 小幡甚三郎(25歳)、文部省入省。『西洋学校軌範』を記す。1872(明治5)年の学制整備にあたり、この学校制度案が採用されることに。
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1870(明治3)年 福澤諭吉(36歳)、新銭座の土地を近藤真琴に300円で譲渡。攻玉社移転。慶應義塾の移転先として、三田の旧島原藩中屋敷の土地払い下げを東京府に交渉。内大臣・岩倉具視の助力を得、実現。
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1870(明治3)年 尺振八(32歳)、吉田賢輔・須藤時一郎と共に、本所相生町(現・両国4丁目)に英語塾・共立学舎創立。福澤諭吉「慶應義塾」・近藤真琴「攻玉塾」・中村正直「同人社」・箕作秋坪「三叉学舎」などと並ぶ名門英語私塾に。門下生に、島田三郎、田口卯吉ほか。
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1871(明治4)年4月 小幡甚三郎(26歳)、 慶應義塾が芝新銭座から三田に移転、教授法の整備や会計事務などに尽力。
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1871(明治4)年 高島嘉右衛門(40歳)、スイス人カドレー・アメリカ人バラ兄弟など西洋人の教師を雇い、英仏独の3ヶ国語を教授。横浜伊勢山下と入船町に語学私塾・藍謝堂(高島学校)開校。私財3万円を投じ、敷地は一万坪、学生1,000人が収容できる大きな学校であった。福澤諭吉を招聘したが実現せず。代わりに慶応義塾の海老名晋、荘田平五郎・小幡甚三郎・濱尾新・日原昌造ら高弟を講師に推薦、派遣される。岡倉天心・寺内正毅・本野一郎・宮部金吾・星亨ら人材を輩出。貧しい学生には経済的援助も行う。
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1871(明治4)年 中村正直(40歳)、「天は自ら助くる者を助く」。イギリスの著述家S.スマイルズ『自助論 Self-Help (1859)』翻訳。明治維新後の文明開化の風潮の中、封建思想打破と共に近代的人間の確立を目的に『西国立志編』刊行。その反響は大きく、福澤諭吉『学問のすゝめ』と並ぶ二大啓蒙書に。総発行部数100万部以上とされ、明治期を通して広く読まれる。
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1872(明治5)年2月 福澤諭吉(38歳)、「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」。『学問のすゝめ』初編刊行。1876(明治9)年11月25日にかけて順次刊行、17編出版をもって一応の完成をみる。初編のみ、小幡篤次郎共著。明治維新直後の日本人に対し、中世的な封建社会から近代民主主義国家への転換、欧米の近代的政治思想、民主主義を構成する理念、市民国家の概念など、平易な比喩を多用して説く。総発行部数300万部以上とされ、当時日本の人口が3,000万人程であったことから、全国民の10人に1人が手に取った計算に。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1873(明治6)年1月29日 小幡甚三郎(28歳)、中津藩主・奥平昌邁に随行しアメリカ留学、ラトガース大学で勉学中に急病で客死。享年28歳。
出身校
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中津藩校・進脩館
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ラトガース大学
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参考情報
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参考文献・書籍
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