ダイガクコトハジメ - 広岡浅子
出身校
-
関連する学校・組織(前史)
-
京都法政学校
関連する学校・組織(現代)
-
立命館大学
関連する教育者
参考情報
-
参考文献・書籍
-
年表 | 動画
広岡浅子
ひろおかあさこ
1849(嘉永2)年10月18日(旧暦・9月3日) - 1919(大正8)年1月14日
実業家・大同生命創業者、教育者、日本女子大学校(現・日本女子大学)創立発起人、京都法政学校(現・立命館大学)創立協力
-
1849(嘉永2)年10月18日(旧暦・9月3日) 広岡浅子(1歳)、山城国京都油小路通出水に小石川三井家六代当主・三井高益の四女として生まれる。幼名、照。
-
広岡浅子(幼少期)、裁縫や茶の湯・生け花・琴の稽古などよりも、四書五経の素読など学問に強い興味を持つ。しかし、「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を禁じられる。
-
広岡浅子(9歳)、父・三井高益が死去。三井高喜が家長に。
-
1865(元治2/慶応元)年 広岡浅子(17歳)、鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商・加島屋の第8代広岡久右衛門正饒の次男、広岡信五郎と結婚。嫁いだ後も、主人は手代に任せて業務に関与しない商家の風習に疑問と限界を感じ、簿記や算術など独学。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
-
1869(明治2)年 広岡浅子(21歳)、明治維新の動乱を迎え、家運傾く加島屋を救うため、実業界に身を投じる。夭逝した第8代広岡久右衛門正饒の長男に代わり加島屋当主となった第9代広岡久右衛門正秋、夫の広岡信五郎と共に、加島屋の立て直しに奔走。
-
1884(明治17)年頃 広岡浅子(36歳)、炭鉱事業に参画。筑豊の潤野炭鉱(後の製鐵所二瀬炭鉱)を買収、開発に着手。単身炭鉱に乗り込み、護身用のピストルを懐に坑夫らと起き伏しを共にする。男もためらう冒険的事業に敢えて乗り出し、しばしば狂人扱いされる。
-
1888(明治21)年 広岡浅子(40歳)、加島銀行設立。
-
1890(明治23)年 - 1894(明治27)年1月 成瀬仁蔵(33-37歳)、アメリカ留学。アンドーバー神学校・クラーク大学にて教育学や社会学・キリスト教などを学ぶ。ユニテリアン的な思想を身に付け、各種社会施設も視察。女子教育研究。英文で『澤山保羅伝』出版。
-
1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、病気で辞任の文部大臣・井上毅の後任として、第2次伊藤博文内閣に初入閣。文部大臣に。女子教育発展などに努める。
-
1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、戊辰戦争以来の繋がり、中川家子息・中川小十郎との出会いを喜ぶ。厚遇、文部大臣秘書官に抜擢。
-
1894(明治27)年 中川小十郎(29歳)、文部大臣・西園寺公望の秘書官として仕える。以後、首相秘書官・元老私設秘書として終生そばに仕え続ける。
-
1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。
-
1896(明治29)年 広岡浅子(48歳)、土倉庄三郎の紹介により、梅花女学校校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、著書『女子教育』を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験より大いに共感。金銭の寄付のみならず、行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者に。
-
1897(明治30)年1月11日 中川小十郎(32歳)、文部省参事官に。
-
1897(明治30)年3月24日 成瀬仁蔵(40歳)、日本女子大学校第一回創立委員会開催。創立委員長に大隈重信。総理大臣・伊藤博文、学習院院長・近衞篤麿、文部大臣・西園寺公望、財界人・渋沢栄一、岩崎弥之助ほか各界の重鎮の多大な支援を受ける。
-
1897(明治30)年 西園寺公望(49歳)、女子大学設立援助を求め中川小十郎邸を訪れる成瀬仁蔵を後援。日本女子大学校設立発起人・創立委員に。中川小十郎を創立事務幹事嘱託に置く。
-
1897(明治30)年 中川小十郎(32歳)、女子大学創立に奔走する成瀬仁蔵、自宅寄寓。西園寺公望と共に後援、日本女子大学校創立協力。創立事務幹事嘱託に。
-
1898(明治31)年1月-4月 西園寺公望(50歳)、第3次伊藤博文内閣発足、再び文部大臣に。第二次教育勅語作成にあたる。虫垂炎後遺症発病、辞任。
-
1898(明治31)年 中川小十郎(33歳)、西園寺公望の文部大臣辞任に伴い、文部省退職を余儀なくされる。失意。日本女子大学校創立を共にした成瀬仁蔵より、広岡浅子の豪商加島屋を紹介される。実業界へ転身。経営不振の加島銀行理事に。再建に尽力。
1899(明治32)年2月7日公布・4月1日施行 高等女学校令
中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める。
-
1899(明治32)年6月 中川小十郎(34歳)、広岡浅子に事業手腕を信頼され、新規事業拡大を任される。朝日生命保険(大同生命保険の前身の一つ)副社長に。
-
1899(明治32)年 中川小十郎(34歳)、教育への情熱を捨てきれず。文部官僚時代、創設に関わった京都帝国大学が高等学校卒業生しか受けれ入れることができないことに限界を感じ、私学創立を志す。教学面での協力を京都帝国大学教授陣より得、また設立賛助員として広岡浅子や西園寺公望実弟・住友友純からの大口寄付ほか京都政財界大物の協力を得る。朝日生命保険事務所の一角に、京都法政学校(現・立命館大学)設立事務所創立。
-
中川小十郎、加島屋時代に生計のため働く青年たちが高等教育を受ける機会を奪われている現状に官立学校の不備実感。西園寺公望が提唱する「能力と意欲のある人に国として教育機会を与えるべき」実現のため、私学創立決意。
-
1900(明治33)年6月5日 中川小十郎(35歳)、鴨川河畔の清輝楼にて京都法政学校開校。司法省法学校卒業の京都始審裁判所勤務・山崎恵純が校主を務めるフランス法系私立法律学校・京都法学校を吸収。
-
1900(明治33)年 成瀬仁蔵(43歳)、大阪市東区清水谷東之町で学校建設を進めたが、広岡浅子の働きかけで三井財閥から東京・目白の地5,520坪を寄贈される。
-
1900(明治33)年 広岡浅子(52歳)、日本女子大学校学校建設に向け、広岡家、実家の三井家一門に働きかけ。三井家から目白台の土地5,520坪を寄贈させるに至る。
-
1901(明治34)年4月20日 成瀬仁蔵(44歳)、日本で初めての組織的な私立の女子高等教育機関・日本女子大学校(現・日本女子大学)創立。初代校長に。「女子を人として、婦人として、国民として教育する」を教育方針に掲げる。設立者総代、大隈重信。
-
1902(明治35)年 中川小十郎(37歳)、朝日・護国・北海3生命保険を合併、大同生命保険設立。筆頭取締役に。
-
1904(明治37)年 広岡浅子(56歳)、夫・広岡信五郎の死去を機に、事業を娘婿の広岡恵三に譲る。以後、女子教育や婦人事業に貢献。社会貢献事業と自身の学問に専念。長井長義らに学ぶ傍らで愛国婦人会大阪支部授産事業の中心的人物としても活動。
-
1909(明治42)年 広岡浅子(61歳)、大学病院において胸部の悪性腫瘍手術を受け回復。
-
1909(明治42)年 広岡浅子(61歳)、大阪の菊池侃二宅で宮川牧師と知り合う。同席者の成瀬仁蔵より宗教哲学を勧められた縁で、1911(明治44)年に宮川経輝より受洗。
-
広岡浅子、婦人運動や廃娼運動に参加。当時発行が相次いでいた女性雑誌に多数の論説を寄稿。「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」と、宮川経輝『心霊の覚醒』や自らの宗教的信条を記した『一週一信』を出版。日本のキリスト教化に励む。
-
1914(大正3)年 - 1918(大正7)年 広岡浅子(66-70歳)、毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡にて、若い女性を集めた合宿勉強会を主宰。参加者に、市川房枝や村岡花子らがいる。
-
1919(大正8)年1月14日 広岡浅子(71歳)、死去。享年71歳。「私は遺言はしない、普段言っていることが、皆遺言です」
このページをシェアする