ダイガクコトハジメ - 東京高等工藝学校
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参考情報
参考文献・書籍
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学校略歴
→ 東京工業大学
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1899(明治32)年9月、「工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない」という考えに基づき、東京工業学校工業図案科設置
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1914(大正3)年、東京美術学校図案科、東京高等工業学校工業図案科を併合、機能美実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず、独立の機運が高まる
→ 東京藝術大学
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1919(大正8)年8月20日、文部省の高等工業学校拡充の政策にも合致、工業図案科が東京美術学校から独立、東京高等工業学校工業図案科の流れを汲む専門学校として東京高等工藝学校(現・千葉大学工学部)創立認可
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1921(大正10)年12月9日、東京高等工藝学校設立、初代校長に松岡壽
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1924(大正13)年3月29日、職工徒弟学校を東京高等工藝学校に移管、東京高等工藝学校附属工芸実修学校設立
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1944(昭和19)年、専門学校令改正に伴い、東京工業専門学校に改称
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1945(昭和20)年4月5日、東京大空襲、芝浦校舎が焼失、千葉県松戸の陸軍工兵学校跡地に移転
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1949(昭和24)年5月31日、国立学校設置法により、千葉医科大学を主な母体に千葉大学設立、東京工業専門学校は千葉大学に内包され、千葉大学東京工業専門学校に
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1951(昭和26)年4月1日、千葉大学東京工業専門学校廃止、千葉大学工学部に
→ 千葉大学工学部
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1951(昭和26)年、工芸実修学校を東京工業大学に再度移管
創立者
学校年表
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1886(明治19)年1月、東京商業学校(現・一橋大学)、東京商業学校附設商工徒弟講習所職工科設立。
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1890(明治23)年1月、高等商業学校附属商工徒弟講習所を東京職工学校(現・東京工業大学)に移管。東京職工学校附属職工徒弟講習所に改称。8月、職工徒弟学校に改称。
→ 東京工業大学
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1899(明治32)年9月、東京工業学校工業図案科、「工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない」という考えに基づき設置。
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1906(明治39)年 松岡壽(45歳)、西洋画地位向上に努めると共に、美術工芸品の向上にも尽力。特許局審査官として、産業としての工芸品の発展にも尽くす。この手腕を東京高等工業学校(現・東京工業大学)の手島精一校長に見込まれ、東京高等工業学校(現・東京工業大学)工業図案科科長として迎えられる。
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安田禄造、東京高等工業学校工業図案科卒業。卒業と同時に、東京高等工業学校工業図案科助教授に。
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- 1914(大正3)年 安田禄造(- 41歳)、東京高等工業学校工業図案科科長・松岡壽の働きかけにより、教員の海外派遣が実現。最初の派遣者に。オーストリア留学。ウィーン工芸学校にて、建築家・デザイナーとしてモダンデザインの道を切り拓いた先駆者の一人・ホフマンに師事。ホフマンの現実的で実用的な様式を追及する姿勢が、東京高等工業学校工業図案科が目指す方向と合致。その後、西欧各地を巡る。
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1914(大正3)年、東京高等工業学校工業図案科、東京美術学校図案科に併合、廃止に。在学生が東京美術学校に転入。しかし、東京美術学校では機能美実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず。また日本美術に重きが置かれ、合理的な西洋美術が軽んじられる当時の風潮も重なり、工業図案科が目指す美麗なる製品のための産業工芸の必要性がすぐには理解されず。
→ 東京藝術大学
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松岡壽、東京高等工業学校工業図案科科長として、安田禄造らと共に廃止反対。工芸図案に関する高等教育の必要性を訴え続ける。東京美術学校に移った関係者の不満も次第に高まり、分離独立の機運が高まる。
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1914(大正3)年 安田禄造(41歳)、オーストリア留学より帰国。東京高等工業学校工業図案科教授昇進。しかし、間も無く東京美術学校図案科に併合されることに。一人、東京高等工業学校に残る。
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1919(大正8)年8月20日 松岡壽(58歳)、文部省の高等工業学校拡充の政策にも合致、工業図案科を東京美術学校から独立。東京高等工業学校工業図案科の流れを汲み、工業学校と美術学校との境界領域・産業デザインを教授する専門学校として東京高等工藝学校(現・千葉大学工学部)創立が認められる。東京高等工業学校校長・吉武栄之進、安田禄造と共に創立委員に。
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1920(大正9)年 吉武栄之進(57歳)、東京高等工業学校第3代校長に。
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1921(大正10)年12月9日 松岡壽(60歳)、東京高等工藝学校設立。初代校長に。修業年限3年の本科に工芸図案科・工芸彫刻部・金属工芸科・木材工芸科・印刷工芸科を設置。
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1923(大正12)年11月 吉武栄之進(60歳)、東京高等工藝学校第2代校長を兼任。
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1924(大正13)年3月29日、職工徒弟学校を東京高等工藝学校に移管、東京高等工藝学校附属工芸実修学校設立。
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1925(大正14)年6月 松岡壽(64歳)、東京高等工藝学校第3代校長に。
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1928(大正17)年4月 安田禄造(55歳)、東京高等工藝学校第4代校長に。以後、1941(昭和16)年まで在任。
1943(昭和18)年2月16日 専門学校令改正
実業学校令廃止、専門学校と実業専門学校の区別廃止。翌年、各種専門学校は経済専門学校(旧高等商業学校・旧高商)・工業専門学校(旧高等工業学校・旧高工)・農林専門学校(旧高等農業学校・旧高農)・外事専門学校(旧外国語学校)など改称。
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1944(昭和19)年、東京高等工藝学校、専門学校令改正に伴い、東京工業専門学校に改称。
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1945(昭和20)年4月5日、東京大空襲、芝浦校舎が焼失。千葉県松戸の陸軍工兵学校跡地に移転。
1946(昭和21)年 - 学制改革
第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。
複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。
戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。
1949(昭和24)年5月31日公布・施工 国立学校設置法
文部省管轄、全国に69の新制国立大学が発足。
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1949(昭和24)年5月31日、国立学校設置法により、千葉医科大学を主な母体に千葉大学設立。東京工業専門学校は千葉大学に内包され、千葉大学東京工業専門学校に。
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1949(昭和24)年5月、学制改革に伴い、新制大学・東京工業大学発足。工学部設置。
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1951(昭和26)年4月1日、千葉大学東京工業専門学校廃止。千葉大学工学部に。
→ 千葉大学工学部
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1951(昭和26)年、工芸実修学校を東京工業大学に再度移管。東京工業大学附属科学技術高等学校の前身に。