ダイガクコトハジメ - 江藤新平(平胤雄)
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江藤新平(平胤雄)
えとうしんぺい(たいらのたねお)
1834(天保5)年3月18日(旧暦・2月9日) - 1874(明治7)年4月13日
東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長、文部大輔、初代司法卿、司法省明法寮創立、参議、愛国公党結成、佐賀征韓党首、「近代日本司法制度の父」・「維新の十傑」・「佐賀の七賢人」
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1830(文政13/天保元)年2月7日 鍋島直正(鍋島閑叟)(16歳)、第9代藩主・鍋島斉直の隠居を受け、肥前佐賀藩第10代藩主に襲封。肥前佐賀藩主に。信濃守より肥前守に任替。フェートン号事件以来、長崎警備等の負担重く、先代の奢侈、シーボルト台風の甚大な被害もあり、藩の財政は破綻状態に。藩政改革に乗り出すも、江戸の前藩主・鍋島斉直とその取り巻きら保守勢力の影響が大きく、倹約令の発令など打ち手に苦慮。
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1830(文政13/天保元)年 古賀穀堂(53歳)、鍋島直正(鍋島閑叟)が佐賀藩第10代藩主を継ぐと、年寄相談役に任じられる。佐賀に帰藩。
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1830(文政13/天保元)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(16歳)、佐賀藩校・弘道館(学館)の充実・拡充を指示。優秀な人材を育成し登用するなど、教育改革を断行。
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1831(天保2)年 古賀穀堂(54歳)、鍋島直正(鍋島閑叟)に意見書『済急封事』提出。藩政改革の基本を「人才の登用」「勤倹の奨励」「藩士の三病(妬忌嫉妬・優柔不断・負け惜しみ)の除去」と論じる。『葉隠』を崇拝し、その他の学問を軽視する藩内の風潮を批判。
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1834(天保5)年3月18日(旧暦・2月9日) 江藤新平(1歳)、肥前国佐賀郡八戸村(現・佐賀県佐賀市八戸)に佐賀藩士・江藤胤光と妻・浅子の長男として生まれる。江藤氏は肥前小城郡晴気保の地頭で、九州千葉氏の遠祖である千葉常胤の末裔を称した。父は「手明槍」という身分の下級武士であったとされる。
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1835(天保6)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(21歳)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼。前藩主・鍋島斉直の干渉を押し切り、佐賀城再建を実行。これを機に歳出削減、借金割賦を認めさせ、また磁気・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を断行。財政改善。
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鍋島直正(鍋島閑叟)、古賀穀堂の『学政管見』意見書に沿うかたちで、佐賀藩校・弘道館を拡充。優秀な人材を育成、出自を問わずに積極的に政務の中枢へ登用するなど、教育改革を断行。蘭学・医学を他藩に先駆けて導入、佐賀藩の西洋化を推進。
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1835(天保6)年 古賀穀堂(58歳)、保守派の抵抗により藩政改革は困難を極めたが、佐賀城火災をきっかけに改革が急速に進む。医学館医学寮(後に好生館)設立設立、上級家臣師弟の佐賀藩校・弘道館出仕義務など教育改革を実行。改革半ばに病に倒れる。
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1848(弘化5/嘉永元)年 江藤新平(15歳)、水戸藩・但馬国出石藩の同名藩校と並び「天下三弘道館」と称された、佐賀藩校・弘道館で学ぶ。内生課程は成績優秀で学費の一部を官給。父が職務怠慢の咎により郡目付役を解職・永蟄居の処分に、生活は困窮。外生課程に進学せず。
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江藤新平、佐賀藩校・弘道館教授で儒学・国学者であった枝吉神陽の私塾に学ぶ。神道や尊皇思想に影響される。
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江藤新平、この頃窮乏生活を強がり、「人智は空腹よりいずる」を口癖に。
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1850(嘉永3)年 大木喬任(19歳)、副島種臣・島義勇らと共に、枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。後に、江藤新平・大隈重信らも加わる。勤王派として藩政改革を推進、藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせず。この義祭同盟より、明治維新に大きな影響を与えた人材が多数輩出される。
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1850(嘉永3)年 江藤新平(17歳)、枝吉神陽を発起人に大木喬任・副島種臣・島義勇らが結成した義祭同盟に、大隈重信と共に参加。勤王派として藩政改革を推進。藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るも果たせず。この義祭同盟より、明治維新に大きな影響を与えた人材が多数輩出される。
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1850(嘉永3)年 大隈重信(13歳)、佐賀藩校・弘道館教授・枝吉神陽から国学を学ぶ。枝吉神陽を発起人に、副島種臣・島団右衛門(島義勇)・大木幡六(大木喬任)・木原義四郎(木原隆忠)ら同志38名により義祭同盟を結成。第一回の祭祀を行う。当初は尊王論を拡げるための枝吉神陽の私塾であったが、尊皇思想を藩内に広めることで藩論を尊王討幕へ向かわせることを目的とする政治結社の色合いを強めていく。江藤新平らと参加。
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。
1853(嘉永6)年 安政の改革
黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所を設置。
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1853(嘉永6)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(39歳)、江戸幕府老中・阿部正弘による意見募集にて、アメリカの武力外交に対する強固な攘夷論を唱える。品川台場建設に佐賀藩の技術を提供、阿部正弘の信頼を得る。一方で、開国以前から密貿易で利益を上げていたとされるほど貿易の重要性を熟知、イギリスの親善外交に対して開国論を主張する。
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1856(安政3)年 江藤新平(23歳)、江戸時代後期の外国船の日本近海への出没、アメリカ・ペリー艦隊やロシア・プチャーチン艦隊など来航による通商要求など時勢を受け、開国論の必要性を説いた『図海策』執筆。
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1862(文久2)年 江藤新平(29歳)、同志の大木喬任が活動資金を工面、佐賀藩を脱藩。尊王攘夷運動に身を投じ、京都で活動。長州藩士・桂小五郎(木戸孝允)、公家・姉小路公知らと接触。2ヶ月ほどで帰郷、通常脱藩は死罪であるが、見識を高く評価する鍋島直正の直截裁断により、永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減される。
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江藤新平、蟄居後、寺子屋師匠など務める。同士との密かな交流を続け、幕府による長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では鍋島直正への献言を行うなど、政治的活動を続ける。
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1867(慶応3)年 大隈重信(30歳)、京都と長崎を往来、尊王派として活動。副島種臣と共に、将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画。脱藩して京都へ赴くも、捕縛。佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受ける。
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鍋島直正(鍋島閑叟)、幕末激動の中、政界において佐幕・尊王・公武合体派いずれとも均等に距離を置いたため、「肥前の妖怪」と警戒される。参預会議や小御所会議などで発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるも実らず。政治力・軍事力共に発揮できなかったことを背景に、佐賀藩内における犠牲者は最小限に。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
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1867(慶応3)年12月 江藤新平(34歳)、蟄居解除、郡目付として復帰。
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1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 大久保利通(38歳)、岩倉具視ら倒幕派公家と共に、王政復古の大号令を計画、実行。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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1868(慶応4/明治元)年 大隈重信(31歳)、明治維新、幕府役人が去った長崎の管理を行うため、佐賀藩命により長崎赴任。仮政府を采配。2月14日、朝廷より長崎裁判所総督・澤宣嘉と参謀・井上馨が赴任、引継ぎを行う。長崎裁判所参謀助役として、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮するなど、外国人との訴訟を処理。井上馨、「天下の名士を長崎においておくのは良くない」とその語学・行政力を評価、木戸孝允に明治新政府への登用を推薦。徴士参与職・外国事務局判事に。12月18日には前任の小松清廉(小松帯刀)の推挙により、外国官副知事に。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
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1868(慶応4/明治元)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(54歳)、鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩藩より佐賀征伐の声が挙がる。新政府軍の勝利以降、上京した佐賀藩も新政府軍に参加。上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、アームストロング砲ほか最新式兵器を装備した軍の活躍は大きく、討幕運動には不熱心であったが薩長土肥の一角を担うことに。
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1868(慶応4/明治元)年1月13日(旧暦・12月9日) 江藤新平(35歳)、副島種臣と共に京都へ派遣される。
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1868(慶応4/明治元)年 江藤新平(35歳)、新政府軍の東征大総督府軍監・徴士に。土佐藩士・小笠原唯八と共に、江戸偵察。江戸開城が決定、城内の文書類を接収。鎮将府・江戸府の各判事として、民政・会計・財政・都市問題など担当。江戸の人心収拾と復興に尽力。
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1868(慶応4/明治元)年1月23日 大久保利通(39歳)、太政官にて、大阪への遷都を主張。
1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し
官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。
1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文』
政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
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1868(慶応4/明治元)年5月15日 江藤新平(35歳)、彰義隊の問題にて、大村益次郎らと共に討伐を主張。軍監として上野戦争で戦い、彰義隊勢を寛永寺周辺に追い詰める。佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解。
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1868(慶応4/明治元)年 楠田英世(38歳)、会津戦争、仁和寺宮嘉彰親王の副参謀に。
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1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 鶴田皓(33-34歳)、会津戦争、佐賀藩のアームストロング砲隊分隊長として彰義隊と戦う。
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1868(慶応4/明治元)年 江藤新平(35歳)、岩倉具視に対し、大木喬任と連名で江戸を東京と改称、遷都すべきこと(東京奠都)を献言。献言が認められる。明治天皇が行幸、江戸は東京と改称される。
1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都
江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。
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1868(慶応4/明治元)年 大木喬任(37歳)、明治新政府に出仕。徴士に。外国事務局・京都府・軍務官の各判事に着任。
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1868(慶応4/明治元)年12月 大木喬任(37歳)、東京府知事に。
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1868(慶応4/明治元)年12月 加藤弘之(33歳)、明治新政府に出仕、政体律令取調御用掛に。新しい国の政体について研究・提言。『立憲政体略』刊行。
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1869(明治2)年 江藤新平(36歳)、維新の功により、賞典禄100石を賜る。
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1869(明治2)年1月 相良知安(34歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。強引なドイツ医学の採用の進言の経緯より、ウィリスを推していた西郷隆盛、山内容堂の体面をつぶし、薩摩閥、土佐閥の恨みを受ける。
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1869(明治2)年1月10日 大隈重信(32歳)、再び参与に。贋金問題が外交懸案となっていたことを背景に、イギリス公使パークスと対等に交渉ができることから会計官御用掛を兼任。3月30日、会計官副知事に。高輪談判処理や新貨条例制定、版籍奉還への実務など担務。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。
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1869(明治2)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(55歳)、知藩事として最初に賛同の意を示す。
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1869(明治2)年 江藤新平(36歳)、佐賀に帰郷。権大参事に、藩政改革を指導。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 二官六省制に
官制の大改正、神祇官・太政官が天皇を補佐、国政全般にあたる。太政官の下、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務省の六省が置かれる。徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する木戸孝允一派の働きかけにより、翌月9月16日(旧暦・8月11日)に民部省と大蔵省が合併。形式上は両省とも存続され、卿以下少丞以上の幹部が両省の役職を兼ねることに。民部大蔵省とも称される。一方、地方官の支持を受け、大久保利通が主導して広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の4参議で再分離を求めた結果、翌年1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に再度分離。
その後、1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日)に殖産興業を推進する工部省が民部省より分離される。翌年1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日)に民部省が大蔵省に合併される。民部省廃止。
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1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大隈重信(32歳)、二官六省制により、大蔵大輔に。中央集権体制確立を主張する木戸孝允一派のナンバー2の立ち位置に。翌月9月16日(旧暦・8月11日)、大蔵・民部両省の合併を実現、民部大輔を兼ねる。巨大な権力を持つ民部大蔵省の実力者として、地租改正などの改革を担うと共に、殖産興業政策を推進。官営の模範製糸場・富岡製糸場設立、鉄道・電信建設などに尽力。これらの急進的な改革は、副島種臣・佐々木高行・広沢真臣など保守派、民力休養を考える大久保利通の嫌うところに。4参議の求めにより、1870(明治3)年8月6日(旧暦・7月10日)に大蔵省・民部省が再度分離。
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1869(明治2)年8月29日(旧暦・7月22日) 大久保利通(40歳)、参議に就任、内政の中枢を握る。木戸孝允らと共に版籍奉還・廃藩置県など、明治新政府の中央集権体制を確立。当初は保守的・斬新的態度をとり、木戸孝允・大隈重信ら革新的・開明的態度に政策・政治勢力で一歩譲る立ち位置に。岩倉遣欧使節団にて欧米先進諸国を視察、イギリスにおける工業と貿易の発展、プロイセン(ドイツ)における政治体制と軍事力の拡充などを目の当りにし、強い衝撃を受ける。大蔵卿就任後、富国強兵・殖産興業政策実行の舵を取る。
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1869(明治2)年9月 江藤新平(36歳)、明治新政府より求められ、政府に復帰。太政官中弁に。
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1869(明治2)年12月 江藤新平(36歳)、虎ノ門にて佐賀藩の卒族に襲撃され、負傷。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
1870(明治3)年7月27日 貢進生
太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。
1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。
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1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手。
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江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥・加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。
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1870(明治3)年 箕作麟祥(25歳)、制度取調局長官・江藤新平からフランス民法典(ナポレオン法典)の翻訳を命じられる。以後、長年にわたり法典の翻訳・編纂に携わっていく。
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1871(明治4)年6月28日(旧暦・5月11日) 楠田英世(41歳)、司法省明法寮権頭に。後に、司法大丞、司法大検事を兼任。江藤新平が主催する民法会議に出席。箕作麟祥・加藤弘之らと共に民法編纂に従事。
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1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。
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1871(明治4)年7月 江藤新平(38歳)、文部大輔に。加藤弘之と共に日本の教育制度改革に着手。大学本校・大学南校・大学東校の分裂問題を担当、「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。また、文部省務の大綱を定める。後任の盟友、初代文部卿・大木喬任の下、学制として体系化される。
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1871(明治4)年7月、司法省設置。刑部省と弾正台を廃止。初代司法卿に、江藤新平。
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1871(明治4)年8月 江藤新平(38歳)、左院副議長に就任。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1871(明治4)年9月11日(旧暦・7月27日) 大隈重信(34歳)、民部省を改めて大蔵省に合併。巨大官庁・大蔵省を誕生させる。地租改正などの改革に当たると共に、殖産興業政策を推進。
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大木喬任、初代文部卿として学制頒布を掲げる中、予算問題で大蔵省・井上馨と対立
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1871(明治4)年9月27日、司法省明法寮設置。法律専門家の育成が急務に。
1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団
岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。
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1871(明治4)年 - 1873(明治6) 大久保利通(42-44歳)、大蔵卿に就任。岩倉遣欧使節団の副使として外遊。イギリスの工業・工場群に、日本近代化のための殖産興業の姿を描く。政治体制のあるべき姿については、先進国イギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。
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1871(明治4)年 - 1873(明治6) 伊藤博文(31-33歳)、岩倉遣欧使節団の副使にとして渡米。サンフランシスコにて、「日の丸演説」・「国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん」。1873(明治6)年3月、ベルリンに渡り、プロイセン皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相・ビスマルクと会見、ビスマルクから強い影響を受ける。
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1872(明治5)年4月25日 江藤新平(39歳)、新設された司法省の初代司法卿に就任。四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。
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江藤新平、自らが低い身分から栄進した為、司法卿に就任後も尊大ぶらず。面会を求める書生は誰でも引見、その才幹を認めれば直ぐにも登用した。その為、郷国の官途につこうとする者は、先ず江藤新平を訪い、志望を述べ採用を頼むので、私邸にも役所にも常に訪問者が絶えなかった。
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江藤新平、政府内における急進的な民権論者であり、「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。
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江藤新平、英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める。政府内保守派は、行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ち、プロイセン王国(後のドイツ帝国)を範としており、厳しく非難される。また、急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省・井上馨との確執を招く。
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1872(明治5)年 鶴田皓(37歳)、司法卿・江藤新平の命により、司法省調査団として井上毅らと共に渡仏。パリ大学にてギュスターヴ・エミール・ボアソナードの講義を受ける。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年 - 1873(明治6)年、司法省顧問としてジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードが来日。司法省明法寮教員に。フランス語による本格的な法学教育を開始。
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1873(明治6)年4月 大木喬任(42歳)、参議に。
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1873(明治6)年5月 江藤新平(40歳)、官吏の汚職に厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥・山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及。予算を巡る対立も絡み、2人を一時的に辞職に追い込む。
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1873(明治6)年5月26日 伊藤博文(33歳)、岩倉遣欧使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を開始。全権委任状を取るため、大久保利通と共に一旦帰国。しかし、取得に5か月もかかったことで木戸孝允との関係も悪化。改正交渉中止。木戸孝允との不仲は、のちに和解。
1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変
征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・桐野利秋・大隈重信・大木喬任ら。反対したのが大久保利通・岩倉具視
・木戸孝允・伊藤博文・黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。
閣議において、大隈重信・大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。
西郷隆盛、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。
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1873(明治6)年 板垣退助(37歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。
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1873(明治6)年10月24日 江藤新平(40歳)、朝鮮出兵を巡る征韓論問題より発展した政変で、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野。
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1873(明治6)年10月 大木喬任(42歳)、参議兼司法卿に。士族の反乱(萩・秋月の乱)の司法処理に力を注ぐ。
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1873(明治6)年 相良知安(38歳)、明治六年政変(征韓論争)で下野した親友・江藤新平を支持。
1874(明治7)年 - 1890(明治23)年 自由民権運動
明治六年政変で征韓論を主張し敗れた板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らが明治政府を下野、征韓派勢力を結集。1874(明治7)年1月12日、愛国公党を結成。1月17日に『民選議員設立建白書』を左院に提出。国会開設の請願を行ったことに始まる政治・社会運動。藩閥政府による専制政治を批判。憲法制定・議会開設・地租軽減・不平等条約撤廃・言論の自由や集会の自由の保障など要求を掲げる。1890(明治23)年の帝国議会開設頃まで続く。
自由民権運動は教育界にも多大に影響。1876(明治9)年、代言人(弁護士)資格試験制度が発足すると、代言人の養成を主目的とする私立法律学校が林立。これら私立法律学校が法学を学ぼうとする法律青年だけでなく、自由民権運動に熱を上げる政治青年の学びの場に。法学教育が同時に政治教育の役割も担うこととなる。特に、明治法律学校(現・明治大学)ほか「権利や自由の重要性」を説くフランス法系法律学校は自由民権運動の牙城に。政府より猜忌の目を以って注視されることに。
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1874(明治7)年1月12日 江藤新平(41歳)、板垣退助らを中心に、日本初期の政治結社・愛国公党を結成。
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1874(明治7)年1月12日 江藤新平(41歳)、愛国公党より政府に対し『民撰議院設立建白書』を提出。後藤象二郎、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋らと共に署名。佐賀への帰郷を決意。大隈重信・板垣退助・後藤象二郎らは、帰郷が大久保利通の術策に嵌るものであることを看破、慰留の説得を試みるも、全く耳を貸さず。翌13日、船便で九州へ向かう。
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1874(明治7)年2月11日-12日 江藤新平(41歳)、憂国党・島義勇と会談。翌12日、佐賀征韓党首領として擁立される。政治的主張の全く異なる征韓党と憂国党が共同、反乱を計画。
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1874(明治7)年2月16日 江藤新平(41歳)、憂国党が武装蜂起、士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発。県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃。その約半数に損害を与え、遁走させる。
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1874(明治7)年2月 大久保利通(45歳)、江藤新平・島義勇らが率いる不平士族による初の大規模反乱・佐賀の乱が勃発。自ら鎮台兵を率い遠征。
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1874(明治7)年3月1日 江藤新平(41歳)、征韓党を解散、逃亡。鹿児島鰻温泉に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られる。
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1874(明治7)年3月25日 江藤新平(41歳)、高知の林有造・片岡健吉の下を訪ね、武装蜂起を説くがいずれも容れられず。このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。その途、捕縛され佐賀へ送還される。自らが確立した写真手配制度の被適用者第1号となってしまう。
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1874(明治7)年4月13日 江藤新平(41歳)、征韓党の首領として、佐賀の乱の責により処刑される。享年41歳。辞世の句「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため」。後に、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。贈正四位。「維新の十傑」・「佐賀の七賢人」の一人に挙げられる。
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1874(明治7)年 箕作麟祥(29歳)、5年の歳月をかけ、フランスの諸法典を全訳した『仏蘭西法律書』上申。日本で初めて「権利」・「義務」という訳語を用いたほか、訳語を新規に創作。日本国に初めて近代法典を知らしめる。近代的裁判制度への大きな転換期にあり、手探りの中で裁判にあたっていた当時の司法官に多大な影響を与え、その後の日本の近代的法制度整備の基礎を築く。このことから、「法律の元祖」と評される。Constitutionを「憲法」と訳し、定着させる。
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