ダイガクコトハジメ - 相良知安
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相良知安
さがらちあん
1836(天保7)年4月1日(旧暦・2月16日) - 1906(明治39)年6月10日
長崎精得館(現・長崎大学)館長、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)初代校長、文部省医務局長兼築造局長
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1830(文政13/天保元)年2月7日 鍋島直正(鍋島閑叟)(16歳)、第9代藩主・鍋島斉直の隠居を受け、肥前佐賀藩第10代藩主に襲封。肥前佐賀藩主に。信濃守より肥前守に任替。フェートン号事件以来、長崎警備等の負担重く、先代の奢侈、シーボルト台風の甚大な被害もあり、藩の財政は破綻状態に。藩政改革に乗り出すも、江戸の前藩主・鍋島斉直とその取り巻きら保守勢力の影響が大きく、倹約令の発令など打ち手に苦慮。
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1830(文政13/天保元)年 古賀穀堂(53歳)、鍋島直正(鍋島閑叟)が佐賀藩第10代藩主を継ぐと、年寄相談役に任じられる。佐賀に帰藩。
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1830(文政13/天保元)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(16歳)、佐賀藩校・弘道館(学館)の充実・拡充を指示。優秀な人材を育成し登用するなど、教育改革を断行。
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1831(天保2)年 古賀穀堂(54歳)、鍋島直正(鍋島閑叟)に意見書『済急封事』提出。藩政改革の基本を「人才の登用」「勤倹の奨励」「藩士の三病(妬忌嫉妬・優柔不断・負け惜しみ)の除去」と論じる。『葉隠』を崇拝し、その他の学問を軽視する藩内の風潮を批判。
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1835(天保6)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(21歳)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼。前藩主・鍋島斉直の干渉を押し切り、佐賀城再建を実行。これを機に歳出削減、借金割賦を認めさせ、また磁気・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を断行。財政改善。
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鍋島直正(鍋島閑叟)、古賀穀堂の『学政管見』意見書に沿うかたちで、佐賀藩校・弘道館を拡充。優秀な人材を育成、出自を問わずに積極的に政務の中枢へ登用するなど、教育改革を断行。蘭学・医学を他藩に先駆けて導入、佐賀藩の西洋化を推進。
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1835(天保6)年 古賀穀堂(58歳)、保守派の抵抗により藩政改革は困難を極めたが、佐賀城火災をきっかけに改革が急速に進む。医学館医学寮(後に好生館)設立設立、上級家臣師弟の佐賀藩校・弘道館出仕義務など教育改革を実行。改革半ばに病に倒れる。
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1836(天保7)年4月1日(旧暦・2月16日) 相良知安(1歳)、佐賀城下八戸に藩医・相良柳庵の三男として生まれる。
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1840(天保11)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(26歳)、佐賀藩校・弘道館を北堀端に移転拡充、蒙養舎設立。15歳以下の藩士子弟を教育。古賀穀堂が『学政管見』で訴えた教育政策はほぼそのまま実施されるかたちに。170石だった教育予算は、1,000石に加増される。
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1843(天保14)年 相良知安(8歳)、佐賀藩校・養蒙舎入学。
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1843(天保14)年12月 伊東玄朴(43歳)、佐賀藩第10代藩主・鍋島直正(鍋島閑叟)の侍医に。7人扶持で召し抱えられる。
1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令
漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。
翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。
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1849(嘉永2)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(35歳)、1846(弘化3)年より佐賀藩内で天然痘が大流行。当時不治の病であった天然痘根絶のため、佐賀藩医・伊東玄朴の進言により、長崎出島のオランダ商館を通じて牛痘種痘苗を入手。佐賀城内にて種痘接種。佐賀藩が漢方から蘭方医学へ転換する象徴的な出来事となる。この痘苗は、長崎・佐賀を起点とし、複数の蘭方医の手によって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播。
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1849(嘉永2)年7月20日 伊東玄朴(49歳)、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言。オランダ商館を通じ、入手に成功。この痘苗が長崎から京都・大阪・福井から北陸へと広まる。10月に江戸に運ばれ、関東や東北へ広まる。
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1851(嘉永4)年 相良知安(16歳)、佐賀藩校・弘道館入学。
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1851(嘉永4)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(37歳)、佐賀藩校・弘道館(学館)内に医学寮蘭学寮設置。
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1854(嘉永7/安政元)年 相良知安(19歳)、佐賀藩校・蘭学寮入寮。
1855(安政2)年 長崎海軍伝習所設立
ペリー来航後間もなく、海防強化を急務とする江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を決定。オランダ商館長の勧めにより、海軍士官養成のための教育機関設立を決める。長崎奉行を通じ、オランダから練習艦として帆船(後の観光丸)の寄贈を受ける。併せて、オランダ人教官隊を招聰。長崎奉行所西屋敷(現・長崎市江戸町)に長崎海軍伝習所設立。総監理に永井尚志。
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長崎海軍伝習所、オランダ人教官よりオランダ語学をはじめ、航海術・造船学・砲術・測量術・機関学などが教授される。またその基礎として、西洋数学・天文学・地理学なども授けられる。幕府関係者のほか、諸藩からも多数の者が伝習に参加。これらの人々の中から、勝海舟(勝麟太郎)・榎本武揚ら幕臣、五代友厚・佐野常民ら諸藩士など、幕末維新期の指導的人材を数多輩出する。
1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令
新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。
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1856(安政3)年 相良知安(21歳)、佐賀藩校・医学寮(後に好生館)入校。
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1857(安政4)年11月12日、長崎海軍伝習所にて、第二次海軍伝習隊と共にオランダ軍医・ポンペ(Pompe Van Meerdervoot)が来日。医学伝習所(後に長崎医学校、現・長崎大学)創立。幕府医官・松本良順ら12名に医学講義を行う。西洋医学の伝習が始められ、江戸とならび長崎が幕末における西洋医学の中心に。西洋医学のほか、化学・物理学・生理学等も授けられ、物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学の始まりとなる。
1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立
江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎・伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫・林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所(東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎。
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1860(安政7/万延元)年 相良知安(25歳)、福地文安と共に佐賀藩校・好生館の教官に抜擢される。
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1860(安政7/万延元)年 佐藤尚中(舜海)(34歳)、関寛斎ら4人の門人と共に長崎遊学。松本良順の案内により、医学伝習所にてポンペ・ファン・メーデルフォールトにオランダ医学を学ぶ。
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1861(万延2/文久元)年 相良知安(26歳)、佐倉順天堂(順天堂大学の前身)にて佐藤泰然より蘭学を学ぶ。
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1861(万延2/文久元)年9月 松本良順(30歳)、コレラ流行を踏まえ、長崎奉行所に衛生行政の重要性を訴える。病院設立の必要を説き、幕府がこれに応じる。長崎に124床のベッドを持つ日本初の近代西洋医学病院・小島養生所開院。ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらない、極めて民主的なものであった。あわせて医学伝習所をここに移転、医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)として併設。初代頭取に。
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1861(万延2/文久元)年 長與專齋(24歳)、長崎の医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)にて、オランダ人医師ポンペより西洋医学を学ぶ。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事、医学教育近代化の必要性を諭される。
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1863(文久3)年 相良知安(28歳)、医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)にてオランダ人医師ボードインより医学を学ぶ。
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1864(文久4/元治元)年 - 1868(慶応4/明治元)年 池田謙斎(24-28歳)、幕府の命にて、長崎遊学。長崎精得館にて、ボードウィンらに学ぶ。
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1867(慶応3)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(53歳)、佐賀藩諫早家の屋敷内に、英学校・致遠館設立。翌年1868(慶応4)年に副島種臣・大隈重信の手引きにより幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で教えていたオランダ人宣教師フルベッキが校長として招かれる。新約聖書とアメリカ合衆国憲法をテキストとし、欧米の政治制度・法制度の講義や議論が盛んに行われる。副島種臣・大隈重信もフルベッキに学びながら、教頭格として教壇に立つ。佐賀藩のみならず広く他藩の人材も在学。勝海舟の子・勝小鹿、岩倉具視の子・岩倉具定・岩倉具経、服部一三、相良知安ほか100余名の学生を擁する。1869(明治2)年4月、フルベッキが明治新政府より招かれ上京、大学南校(現・東京大学)教師に。閉校。
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1867(慶応3)年 大隈重信(30歳)、副島種臣と共に長崎の幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で英語を学んだオランダ人宣教師フルベッキを佐賀藩に迎え入れる。長崎五島町の諌早藩士・山本家屋敷を改造した英学校・致遠館にて、フルベッキを校長に。副島種臣と共に教頭格となる。学校運営と教育に熱中、宣教師フルベッキより英語を学びながら、自らも教壇に立つ。
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1867(慶応3)年 相良知安(32歳)、佐賀藩校・致遠館でフルベッキに学ぶ。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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1868(慶応4/明治元)年 相良知安(33歳)、佐賀藩校・好生館教導方差次に。佐賀藩主・鍋島直正公の侍医となる。
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
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1868(慶応4/明治元)年5月 長與專齋(31歳)、長崎精得館(後に長崎府医学校、現・長崎大学)の医師頭取に。
1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都
江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。
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1869(明治2)年1月 相良知安(34歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。強引なドイツ医学の採用の進言の経緯より、ウィリスを推していた西郷隆盛、山内容堂の体面をつぶし、薩摩閥、土佐閥の恨みを受ける。
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明治維新後、それまでの医学校では日本人教師によりオランダ医学を教えていたが、イギリス人教師によるイギリス医学が取り入れられる。しかし、ドイツ医学が優秀であることを認め、ドイツ医学を中心とすることに方針転換。
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1869(明治2)年6月 相良知安(34歳)、ドイツより教師を招くことを建議、 2名を招請することに。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1869(明治2)年12月 佐藤尚中(舜海)(43歳)、明治新政府より医学教育確立のための出仕を求められる。一度は辞退も、要請に応じる。大学大博士に。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
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1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。
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1871(明治4)年8月、大学東校にドイツ人教師ミュルレルとホフマンの招聘が実現、来任。ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる。日本の医学教育制度構築の全権を託す。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1872(明治5)年1月11日 佐藤尚中(舜海)(46歳)、東校(現・東京大学医学部)学事主務兼院長に。
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1872(明治5)年4月25日 江藤新平(39歳)、新設された司法省の初代司法卿に就任。四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。
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江藤新平、政府内における急進的な民権論者であり、「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。
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江藤新平、英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める。政府内保守派は、行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ち、プロイセン王国(後のドイツ帝国)を範としており、厳しく非難される。また、急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省・井上馨との確執を招く。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、長崎医学校は中学校へと改組。第六大学区医学校(後に第五大学区医学校)に。
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1872(明治5)年10月2日、「医学教育を第一大学区医学校に一元化・集中させる」という文部省および第一大学区医学校の方針により、第四大学区医学校が突然の廃校に。日本の医学教育について、ドイツ医学への統一が図られる。
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1872(明治5)年10月8日 相良知安(37歳)、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)初代校長に。『医制略則』起案。今日まで続く医学制度の基礎に。
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1872(明治5)年10月 佐藤尚中(舜海)(46歳)、佐々木東洋らと共に日本初の私立病院・博愛舎設立。
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1873(明治6)年3月 相良知安(38歳)、文部省医務局長兼築造局長に。
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1873(明治6)年 佐藤尚中(舜海)(47歳)、ドイツ人教師が東校(現・東京大学医学部)の全権を握り、医学生の大半を退学させ、外来患者の数も限定する事態に。患者も医学生も居場所を失ってしまったことに心を痛める。佐倉藩に戻る予定を取りやめ、下谷練塀町9番地(現・秋葉原)に順天堂設立。博愛舎の患者が転院。医学生の教育を行う。
1873(明治6)年4月 学制二編追加
「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。
「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。
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1873(明治6)年4月、学制二編追加に伴い、第一大学区医学校は専門学校へと改組。
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1873(明治6)年5月 江藤新平(40歳)、官吏の汚職に厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥・山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及。予算を巡る対立も絡み、2人を一時的に辞職に追い込む。
1873(明治6)年10月24日-10月25日 明治六年政変
征韓論に端を発した一大政変。政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞す。発端は、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対し、その旨を伝える使節を幾度か派遣。また朝鮮においては、興宣大院君が政権を掌握、儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始め、日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるように。西郷隆盛は交渉よりも武力行使を前提に、朝鮮使節派遣を目論む。これに賛同したのが、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任ら。反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆ら。岩倉遣欧使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、留守政府を預かっていた西郷隆盛らが急激な改革を起こし、混乱していたことも大久保利通らの態度を硬化させた。また、日本には朝鮮や清、ひいてはロシアと交戦できるだけの国力が備わっていないという戦略的判断、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという国際的立場より猛烈に反対、費用の問題なども絡め征韓の不利を説き、延期を訴える。
閣議において、大隈重信、大木喬任が反対派にまわり、採決は同数に。しかし、賛成意見が通らない場合は辞任するという西郷隆盛の言葉に恐怖した議長・三条実美は即時派遣を決定。これに対し、反対派も辞表提出、辞意を伝える。明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、太政大臣・三条実美が過度のストレスにより倒れ、意識不明となる。代わって岩倉具視が太政大臣代理に。岩倉具視は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は派遣延期の意見を採用、朝鮮使節派遣は無期延期の幻となった。
西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は辞表を提出。受理され、賛成派参議5名は下野。桐野利秋ら西郷隆盛に近く、征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷隆盛を咎めず、逆に西郷隆盛に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣退助・後藤象二郎に近い官僚・軍人も辞職。この政変が、後の士族反乱や自由民権運動の発端となる。
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1873(明治6)年 板垣退助(37歳)、明治六年政変、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に、世論が沸騰。率先して征韓論を主張するも、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤、西郷隆盛・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持、倣って職を辞する官僚が600名あまりに及ぶ。自身と土佐派官僚が土佐で自由民権を唱える契機となる。
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1873(明治6)年 相良知安(38歳)、明治六年政変(征韓論争)で下野した親友・江藤新平を支持。
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1874(明治7)年 長與專齋(37歳)、相良知安の草案を基に、医療制度や衛生行政に関する各種規定を定めた『医制76ヶ条』公布。
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1874(明治7)年10月12日、台湾出兵により病院設備のみが蕃地事務局病院に改編、第五大学区医学校閉校。
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1885(明治18)年7月 相良知安(50歳)、文部省御用掛に任じられる。
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1900(明治33)年 相良知安(65歳)、勳五等に叙せられ、雙光旭日章を授けられる。
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1906(明治39)年6月10日 相良知安(71歳)、死去。享年71歳。正五位に叙せられる。
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