初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
関連:慶應義塾・適塾・福沢諭吉・緒方洪庵・長与専斎・箕作秋坪
再度米国行
夫《それ》から慶応三年になって又私は亜米利加《アメリカ》に行《いっ》た。是《こ》れで三度目の外国|行《こう》。慶応三年の正月二十三日に横浜を出帆して、今度の亜米利加行に就《つい》ても亦《また》なか/\話がある。と云うのは、先年亜米利加の公使ロペルト・エーチ・プラインと云う人が来て居て、その時に幕府で軍艦を拵《こしら》えなければならぬと云うことで、亜米利加の公使にその買入方《かいいれかた》を頼んで、数度《すうど》に渡したその金高は八十万|弗《ドルラル》、そうして追々《おいおい》にその軍艦が出来て来る筈《はず》。ソレで文久三、四年の頃、富士山《ふじやま》と云う船が一艘出来て来て、その価《あたい》は四十万弗。所がその後幕府はなか/\な混雑、又亜米利加にも南北戦争と云う内乱が起《おこっ》たと云うような訳《わけ》で、その後一向便りもない。何しろ金は八十万弗渡したその中で、四十万弗の船が来た丈《だ》けでその後は何も来ない。左《さ》りとは埓《らち》が明かぬから、アトの軍艦は此方《こっち》から行《いっ》て請取《うけと》ろう。その序《ついで》に鉄砲も買《かっ》て来ようと云《い》うような事で、そのとき派遣の委員長に命ぜられたのは小野友五郎《おのともごろう》、この人は御勘定吟味役《ごかんじょうぎんみやく》と云う役目で御勘定奉行の次席、なか/\時の政府に於《おい》ては権力もあり地位も高い役人である。その人が委員長を命ぜられて、その副長には松本寿太夫《まつもとじゅだいふ》と云う人が命ぜられたと云うことは、その前年の冬に定《き》まった。夫《そ》れから私もモウ一度行て見たいものだと思《おもっ》て、小野の家に度々《どど》行て頼んだ。何卒《どうぞ》一緒に連れて行て呉《く》れないかと云《いっ》た所が、連れて行こうと云うことになって、私は小野に随従《ずいじゅう》して行くことになりました。その外《ほか》同行の人は、船を請取るのですから海軍の人も両人ばかり、又|通弁《つうべん》の人も行きました。
太平海の郵便汽船始めて通ず
この時には亜米利加《アメリカ》と日本との間《あいだ》に太平海の郵便船が始めて開通したその歳《とし》で、第一着に日本に来たのがコロラドと云う船で、その船に乗込む。前年亜米利加に行た時には小さな船で海上三十七日も掛《かかっ》たと云うのが、今度のコロラドは四千|噸《トン》の飛脚船、船中の一切《いっさい》万事、実に極楽世界で、廿二《にじゅうに》日目に桑港《サンフランシスコ》に着《つい》た。着たけれども今とは違《ちがっ》てその時分はマダ鉄道のないときで、パナマに廻《まわ》らなければならぬから、桑港に二週間ばかり逗留《とうりゅう》して、其処《そこ》で太平洋汽船会社の別の船に乗替えてパナマに行て、蒸気車に乗《のっ》てあの地峡《ちきょう》を踰《こ》えて、向側《むこうがわ》に出て又船に乗て、丁度三月十九日に紐育《ニューヨーク》に着き、華聖頓《ワシントン》に落付《おちつい》て、取敢《とりあ》えず亜米利加の国務卿に遇《あ》うて例の金の話を始めた。その時の始末でも幕府の模様が能《よ》く分る。此方《こっち》を出立《しゅったつ》する時から、先方の談判には八十万|弗《ドルラル》渡したと云《い》う請取がなければならぬと云うことは能く分《わかっ》て居る。所がどうも丸で一寸《ちょい》とした紙切に十万とか五万とか書てあるものが何でも十枚もある、その中には而《し》かも三角の紙切に僅《わずか》に何万弗請取りと記して唯《ただ》プラインと云う名ばかり書《かい》てあるのが何枚もある。何の為《た》めにどうして請取たと云う約定《やくじょう》もなければ何にもない。只《ただ》金を請取たと云う丈《だ》けの印ばかりである。代言流義に行けば誠に薄弱な殆《ほと》んど無証拠と云《いっ》ても宜《い》い位。ソコでその事に就《つい》ては出発|前《ぜん》に随分《ずいぶん》議論しました。却《かえっ》て是《こ》れが宜《よろ》しい、此方《こっち》では一切《いっさい》万事、亜米利加《アメリカ》の公使と云うものを信じ抜て、イヤ亜米利加の公使を信じたのではない、日本の政府が亜米利加の政府を信じたのだ、書付も要らなければ条約も要らない、只《ただ》口で請取たら請取たと云《い》うた丈《だ》けで沢山だ、是れは只覚書に数《すう》を記した丈《だ》けの事、固《もと》よりこんな物は証拠にしないと云う風に出ようと相談を極《き》めて、彼方《あっち》へ行てからその話に及ぶと、直《す》ぐに前の公使プラインが出て来た。出て来て何とも云わない、ドウですか船を渡すなり金を渡すなりドウでも宜《い》いと、文句なしに立派に出掛けて来た。
吾妻艦を買う
先《ま》ず是《こ》れで安心であるとした所で、此方《こっち》では軍艦一艘欲しい。夫《そ》れから諸方の軍艦を見て廻《まわっ》て、是れが宜《よ》かろうと云《いっ》て、ストーンウオールと云う船、ソレが日本に来て東艦《あずまかん》となりましたろう、この甲鉄艦を買うことにして、その外《ほか》小銃何百|挺《ちょう》か何千挺か買入れたけれども、ソレでもマダ金が彼方《あっち》に七、八万|弗《ドルラル》残て居る。是れは亜米利加《アメリカ》の政府に預けて置《おい》て、その船を廻航《かいこう》するに付《つい》て、私共は先に帰《かえっ》たが、海軍省から行《いっ》た人はアトに残《のこっ》て、そうして亜米利加の船長を一人|雇《やと》うて此方《こっち》に廻航することになって、夫れで事が済《す》んだ。丁度船の日本に着《つい》たのは王政維新の明治政府になってから、即《すなわ》ち明治元年であるが、その事に就《つい》て当時会計を司《つかさど》って居た由利公正《ゆりきみまさ》さんに遇《あっ》て後に聞《きい》た所が、ドウもあの時金を払うには誠に困《こまっ》た、明治政府には金がない。如何《どう》やら斯《こ》うやらヤット何十万弗|拵《こしら》えて払《はらっ》たと云う話を私が聞て、ソレは大間違いだ、マダ幾らか金が余《あまっ》て彼方《あっち》に預けてある筈《はず》だと云うたら、爾《そ》うかと云って、由利は大造《たいそう》驚いて居ました。何処《どこ》にドウなったか、二重に金を払たことがある。亜米利加《アメリカ》人が取る訳《わ》けはない、何処《どこ》かに舞込《まいこ》んで仕舞《しまう》たに違《ちが》いない。
幕府人の無法を厭う、安いドルラル
それは扨《さて》置き、私の一身に就《つい》てその時|甚《はなは》だ穏かならぬ事があった、と云《い》うのは私は幕府の用をして居るけれども、如何《いか》なこと幕府を佐《たす》けなければならぬとか云うような事を考えたことがない。私の主義にすれば第一鎖国が嫌い、古風の門閥無理圧制が大嫌いで、何でもこの主義に背《そむ》く者は皆敵のように思うから、此方《こっち》が思う通りに、先方《さき》の鎖国家古風家も亦《また》洋学者を外道《げどう》のように悪《にく》むだろう。所で私が幕府の様子を見るに、全く古風のそのまゝで、少しも開国主義と思われない、自由主義と見えない。例えば年来、政府の御用達は三井八郎右衛門《みついはちろうえもん》で、政府の用を聞くのみならず、役人等の私用をも周旋するの慣行でした。ソコで今度の米国|行《こう》に付《つい》ても、役人が幕府から手当の金を一歩銀で請取《うけと》れば、亜米利加《アメリカ》に行くときには之《これ》を洋銀の弗《ドルラル》に替《か》えなければならぬ。然《しか》るにその時は弗《ドル》相場の毎日変化する最中で、両替が甚《はなは》だ面倒である。スルト一行中の或《あ》る役人が三井の手代を横浜の旅宿に呼出《よびだ》し、色々|弗《ドル》の相場を聞糺《ききただ》して扨《さて》云《い》うよう、「成程昨今の弗《ドルラル》は安くない、併《しか》し三井にはズットその前安い時に買入れた弗もあるだろう、拙者《せっしゃ》のこの一歩銀《いちぶぎん》はその安い弗と両替して貰いたいと云うと、三井の手代は平伏して、畏《かしこま》りました、お安い弗と両替いたしましょうと云《いっ》て、幾《いく》らか割合を安くして弗を持《もっ》て来た。私は傍《そば》に居てこの様子を見て居て「ドウモ無鉄砲な事を言う奴だ、金の両替をするに、安いときに買入れた金と云《いっ》て、ドウ云う印があるか、安いも高いもその日の相場に定《き》まったものを、夫れを相場|外《はず》れにせよと云いながら、愧《はず》る気色《けしき》もなく平気な顔をして居るのみならず、その人の平生《へいぜい》も賤《いや》しからぬ立派な士君子であるとは驚いた。又三井の手代も算盤《そろばん》を知るまいことか、チャント知《しっ》て居ながら平気で損をして何とも云わぬ。畢竟《ひっきょう》人の罪でない、時の気風の然《しか》らしむる所、腐敗の極度だ、こんな政府の立行《たちゆ》こう筈《はず》はないと思《おもっ》たことがある。
御国益論に抵抗す
夫《そ》れから私共が亜米利加《アメリカ》に行《いっ》た所で、その時に日本は国事多端の折柄、徳川政府の方針に万事倹約は勿論、仮令《たと》い政府であろうとも利益あることには着手せねばならぬと云うので、その掛の役人を命じて御国益掛《ごこくえきがかり》と云うものが出来た。種々《しゅじゅ》様々な新工夫の新策を奉《たてまつ》る者があれば、ソレを政府に採用していろ/\な工夫をする。例えば江戸市中の何処《どこ》の所に掘割《ほりわり》をして通船《かよいせん》の運上《うんじょう》を取るが宜《よろ》しいと云う者もあり、又|或《あるい》は新川《しんかわ》に這入《はい》る酒に税を課したら宜《よ》かろうとか、何処《どこ》の原野の開墾《かいこん》を引受けてソレで幾らかの運上を納めようと云《い》う者もあり、又|或《あ》る時江戸市中の下肥《しもごえ》を一手に任せてその利益を政府に占《し》めようではないかと云う説が起《おこっ》た。スルト或《あ》る洋学者が大に|気※[#「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87]《きえん》を吐《はい》て、政府が差配人《さはいにん》を無視して下肥の利を専《もっぱ》らにせんとは、是《こ》れは所謂《いわゆる》圧制政府である、昔し/\亜米利加《アメリカ》国民はその本国英の政府より輸入の茶に課税したるを憤《いきどお》り、貴婦人達は一切《いっさい》茶を喫《のま》ずして茶話《ちゃわ》会の楽しみをも廃したと云《い》うことを聞《きい》た、左《さ》れば吾々もこの度は米国人の顰《ひん》に傚《なら》い、一切|上※[#「囗<睛のつくり」、第3水準1-15-33]《じょうせい》を廃して政府を困《こま》らして遣《や》ろうではないか、この発案の可否|如何《いかん》とて、一座|大笑《たいしょう》を催《もよお》したことがある。政府の事情が凡《およ》そ斯《こ》う云う風であるから、今度の一行中にも例の御国益掛《ごこくえきがかり》の人が居て、その人の腹案に、今後日本にも次第に洋学が開けて原書の価《あたい》は次第に高くなるに違いない、依《より》て今この原書を買て持て帰て売たら何分かの御国益になろうと云うので、私にその買入方を内命したから、私が容易に承知しない。「原書買入は甚《はなは》だ宜《よろ》しい。日本には原書が払底《ふってい》であるから一冊でも余計に輸入したいと思う所に、幸《さいわい》なる哉《かな》、今度米国に来て官金を以《もっ》て沢山《たくさん》に買入れ、日本に持《もっ》て帰《かえっ》て原価でドシ/\売《うっ》て遣《や》ろう、左様《そう》なれば誠に難有《ありがた》い。如何《いか》ようにも勉強して、安いもの適当なものを買入れよう。この儀は如何《どう》で御座ると尋《たずぬ》れば、「イヤ左様《そう》でない、自《おのず》から御国益《ごこくえき》にする積りだと云《い》う。「左《さ》すれば政府は商売をするのだ。私は商売の宰取《さいと》りをする為《た》めに来たのではない、けれども政府が既《すで》に商売をすると切《きっ》て出れば、私も商人になりましょう。左る代りにコンミツション(手数料)を思うさま取るがドウだ。何《いず》れでも宜《よろ》しい、政府が買《かっ》た儘《まま》の価《あたい》で売て呉《く》れると云《い》えば、私はどんなにでも骨を折《おっ》て、本を吟味《ぎんみ》して値切り値切《ねぎっ》て安く買うて売て遣《や》るようにするが、政府が儲《もう》けると云えば、政府にばかり儲けさせない、私も一緒に儲ける。サア爰《ここ》が官商分れ目だ。如何《いかが》で御座《ござ》ると捩《ねじ》り込んで、大変|喧《やかま》しい事になって、大に重役の歓心を失うて仕舞《しまっ》たが、今日より考えれば事の是非《ぜひ》に拘《かか》わらず、随行の身分にして甚《はなは》だ宜《よ》くない事だと思います。
幕府を倒せ
夫《そ》れから又斯う云う事がある。同行の尺振八《せきしんぱち》などゝ飲みながら壮語快談、ソリャもう官費の酒だから、船中の事で安くはないが何に構うものか、ドシ/\飲み次第喰い次第で、颯々《さっさ》と酒を注文して部屋に取《とっ》て飲む。サアそれからいろ/\な事を語《かたり》出して、「ドウしたってこの幕府と云うものは潰《つぶ》さなくてはならぬ。抑《そ》も今の幕政の様《ざま》を見ろ。政府の御用と云えば、何品《なにしな》を買うにも御用だ。酒や魚を買うにも自分で勝手な値《ね》を付けて買て居るではないか、上総房州から船が這入《はい》ると、幕府の御用だと云《いっ》て一番先にその魚を只《ただ》持《もっ》て行くようなことをして居る。ソレも将軍様が喰《く》うならばマア宜《い》いとするが、爾《そ》うではない、料理人とか云うような奴が只|取《とっ》て来て、その魚を又|売《うっ》て居るではないか。この一事|推《お》して他を知るべし、実に鼻持のならぬ政府だ。ソレも宜いとして置《おい》て、この攘夷はドウだ。自分がその局に当《あたっ》て居るから拠《よんどこ》ろなく渋々《しぶしぶ》開国論を唱えて居ながら、その実を叩《たた》いて見ると攘夷論の張本だ。彼《あ》の品川の海鼠台場《なまこだいば》、マダあれでも足りないと云て拵《こしら》え掛けて居るではないか。夫《そ》れから又|勝麟太郎《かつりんたろう》が兵庫に行《いっ》て、七輪見たような丸い白い台場を築くなんて何だ。攘夷の用意をするのではないか。そんな政府なら叩き潰して仕舞うが宜いじゃないかと云うと、尺振八が、爾うだ、その通りに違いない。けれども斯《こ》うして船に乗《のっ》て亜米利加《アメリカ》に往来するのも、幕府から入用《にゅうよう》を出して居ればこそだ。御同前《ごどうぜん》に喰《くっ》て居るものも着て居るものも幕府の物ではないか。夫れを衣食して居ながら、ソレを潰すと云うのは何だか少し気に済まないようではないか。「それは構わぬ。御同前に此《この》身等《みら》が政府の御用をすると云うのは、何も人物がエライと云て用いられて居るのではない、是《こ》れは横文字を知《しっ》て居るからと云《い》うに過ぎない。
穢多に革細工
之《これ》を喩《たと》えば革細工《かわざいく》だから穢多《えた》にさせると云《い》うと同じ事で、マア御同前《ごどうぜん》は雪駄《せった》直しを見たような者だ。幕府の殿様方は汚い事が出来ない、幸い此処《ここ》に革細工をする奴が居るからソレにさせろと云うので、デイ/\が大きな屋敷の御出入《おでいり》になったのと少しも変ったことはない。ソレに遠慮会釈も糸瓜《へちま》も要《い》るものか、颯々《さっさ》と打毀《ぶちこわ》して遣《や》れ。只《ただ》此処で困るのは、誰《たれ》が之《これ》を打毀すか、ソレに当惑して居る。乃公等《おれら》は自分でその先棒《さきぼう》になろうとは思わぬ。誰《だれ》が之を打毀《うちこわ》すか、之が大問題である。今の世間を見るに、之を毀そうと云《いっ》て騒いで居るのは所謂《いわゆる》浮浪の徒、即《すなわ》ち長州とか薩州とか云う攘夷藩の浪人共であるが、若《も》しも彼《か》の浪人共が天下を自由にするようになったら、ソレこそ徳川政府の攘夷に上塗りをする奴じゃないか。ソレよりもマダ今の幕府の方が勝《ま》しだ。けれども如何《どう》したって幕府は早晩《そうばん》倒さなければならぬ、唯《ただ》差当《さしあた》り倒す人間がないから仕方なしに見て居るのだ。困《こまっ》た話ではないかなどゝ、且《か》つ飲み且つ語り、部屋の中とは云いながら、人の出入りを止《と》めるでもなし、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》、大きな声でドシ/\論じて居たのだから、爾《そ》う云うような話もチラホラ重役の耳に聞えたことがあるに違《ちが》いない。
謹慎を命ぜらる
サア夫《そ》れから江戸に帰《かえっ》た所が、前にも云《い》う通り私は幕府の外務省に出て飜訳《ほんやく》をして居たのであるが、外国奉行から咎《とが》められた。ドウも貴様は亜米利加《アメリカ》行《こう》の御用中不都合があるから引込《ひっこ》んで謹慎せよと云う。勿論《もちろん》幕府の引込めと云うのは誠に楽なもので、外に出るのは一向構わぬ。只《ただ》役所に出さえしなければ宜《よろ》しいのであるから、一身の為《た》めには何ともない。却《かえっ》て暇になって難有《ありがた》い位のことだから、命令の通り直《す》ぐ引込んで、その時に西洋旅案内と云う本を書《かい》て居ました。
福澤の実兄薩州に在り
亜米利加から帰《かえっ》て日本に着《つい》たのはその歳《とし》の六月下旬、天下の形勢は次第に切迫してなか/\喧《やかま》しい。私は唯《ただ》家《うち》に引籠《ひきこもっ》て生徒に教えたり著書飜訳したりして何も騒ぎはしないが、世間ではいろ/\な評判をして居る。段々聞くと、福澤の実兄は鹿児島に行《いっ》て居るとか何とか云《い》う途方もない評判をして居る。兄が薩藩に与《く》みして居るから弟も変だと云うのは、私が動《やや》もすれば幕府の攘夷論を冷評して、こんな政府は潰《つぶ》すが宜《い》い杯《など》云うから、自《おのず》からそんな評判も立つのであろうが、何は扨《さて》置き十余年前にこの世を去《さっ》た兄が鹿児島に居る訳《わ》けもなし、俗世界の流言として聊《いささ》か弁解もせず、又幕府に対しても所謂《いわゆる》有志者中には種々《しゅじゅ》様々の奇策妙案を建言する者が多い様子なれども、私は一切《いっさい》関係せず、唯《ただ》独《ひと》り世の中を眺めて居る中《うち》に、段々時勢が切迫して来て、或日《あるひ》中嶋[#「嶋」に「〔島〕」の注記]|三郎助《さぶろうすけ》と云《い》う人が私の処に来て、ドウして引込《ひっこ》んで居るか。「斯《こ》う/\云う次第で引込で居る。「ソリャァどうも飛んだ事だ、この忙しい世の中にお前達が引込で居ると云うことがあるか、直《す》ぐ出ろ。「出ろッたって出さぬものを出られないじゃないか。「宜《よろ》しい、拙者がすぐに出して遣《や》ると云て、夫《そ》れからその時に稲葉美濃守《いなばみののかみ》と云う老中があって、ソコへ中嶋が行《いっ》て、福澤を引込《ひっこ》まして置かないで出すようにしたら宜《よ》かろうと云うような事になって、夫れから再び出ることになった。その美濃守と云うのは旧淀藩士で、今日は箱根|塔沢《とうのさわ》に隠居して居るあの老爺《おじい》さんのことで、中嶋三郎助は旧浦賀の与力《よりき》、箱館の戦争に父子共に討死した立派な武士で、その碑は今浦賀の公園に立《たっ》てある。
長官に対して不従順
全体今度の亜米利加《アメリカ》行《こう》に就《つい》て斯《か》く私が擯斥《ひんせき》されたと云うのは、何か私が独り宜《い》いようにあるけれども、実を申せば左様《そう》でない、と云うのは元《も》と私は亜米利加に行きたい/\と云て小野友五郎《おのともごろう》に頼み、同人の信用を得て随行員となった一人であれば、一切万事長者の命令に従いその思う通りの事をしなければ済《す》まない訳《わ》けだ。所が実際は爾《そ》うでなく、始終《しじゅう》逆らうような事をするのみか、明《あきらか》に命令に背《そむ》いたこともある。例えば彼の在留中、小野《おの》も立腹したと見え、私に向《むかっ》て、最早《もは》や御用も済みたればお前は今から先《さ》きに帰国するが宜《よろ》しいと云《い》うと、私が不服だ。「此処《ここ》まで連れて来て散々御用を勤めさせて、用が少なくなったからと云《いっ》て途中で帰れと云う権力は長官にもなかろう。私は日本を出るとき閣老にお暇乞《いとまごい》をして出て来た者である、早く云えば御老中から云付《いいつ》けられて来たのだ。お前さんが帰れと云ても私は帰らないとリキンダのは、私の方が無法であろう。又《また》或日《あるひ》食事の時に私が何か話の序《ついで》に、全体今の幕府の気が知れない、攘夷鎖港とは何の趣意《しゅい》だ、之《これ》が為《た》めに品川の台場の増築とは何の戯《たわぶ》れだ、その台場を築いた者はこのテーブルの中にも居るではないか、こんな事で日本国が保《も》てると思うか、日本は大切な国だぞなどゝ、公衆の前で公言したような事は、私の方こそ気違いの沙汰《さた》である。成程小野は頑固な人に違《ちが》いない、けれども私の不従順と云うことも十分であるから、始終《しじゅう》嫌われたのは尤《もっと》も至極《しごく》、少しも怨《うら》む所はない。
底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
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