初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
関連:慶應義塾・適塾・福沢諭吉・緒方洪庵・長与専斎・箕作秋坪
王政維新
その歳《とし》も段々|迫《せまっ》て、とう/\慶応三年の暮《くれ》になって、世の中が物騒《ぶっそう》になって来たから、生徒も自然にその影響を蒙《こうむ》らなければならぬ。国に帰るもあれば方々《ほうぼう》に行くもあると云《い》うような訳《わ》けで、学生は次第々々に少《すくな》くなると同時に、今まで私の住《すん》で居た鉄砲洲《てっぽうず》の奥平《おくだいら》の邸《やしき》は、外国人の居留地になるので幕府から上地《じょうち》を命ぜられ、既《すで》に居留地になれば私も其処《そこ》に居られなくなる。ソコで慶応三年十二月の押詰めに、新銭座《しんせんざ》の有馬《ありま》と云う大名の中屋敷を買受《かいう》けて、引移《ひきうつ》るや否《いな》や鉄砲洲は居留地になり、明《あ》くれば慶応四年、即《すなわ》ち明治元年の正月早々、伏見《ふしみ》の戦争が始まって、将軍|慶喜《よしのぶ》公は江戸へ逃げて帰り、サアそこで又大きな騒ぎになって仕舞《しまっ》た。即ち是《こ》れが王政維新の始まり、その時に私は少しも政治上に関係しない。抑《そもそ》も王政維新が政治の始まりであるから、話が少し前に戻って長くなりますけれども、一通り私が少年のときからの話をして、政治に関係しない顛末《てんまつ》を明《あきらか》にしなければならぬ。
維新の際に一身の進退
素《も》と私は小士族の家に生《うま》れ、その頃は封建時代の事で日本国中|何《いず》れも同様、藩の制度は守旧《しゅきゅう》一偏《いっぺん》の有様で、藩士|銘々《めいめい》の分限がチャント定《き》まって、上士《じょうし》は上士、下士《かし》は下士と、箱に入れたようにして、その間《あいだ》に少しも融通《ゆうづう》があられない。ソコで上士族の家に生れた物は親も上士族であれば子も上士族、百年|経《たっ》てもその分限は変らない。従《したがっ》て小士族の家に生れた者は、自《おのず》から上流士族の者から常に軽蔑《けいべつ》を受ける。人々の智愚《ちぐ》賢不肖《けんふしょう》に拘《かか》わらず、上士は下士を目下に見|下《くだ》すと云《い》う風《ふう》が専《もっぱ》ら行われて、私は少年の時からソレに就《つい》て如何《いか》にも不平で堪《たま》らない。
門閥の人を悪まずしてその悪習を悪む
所がその不平の極《きょく》は、人から侮辱されるその侮辱の事柄を悪《にく》み、遂《つい》には人を忘れて唯《ただ》その事柄を見苦しきことゝ思い、門閥の故《ゆえ》を以《もっ》て漫《みだり》に威張るは男子の愧《は》ずべき事である、見苦しきことであると云う観念を生じ、例えば上士下士|相対《あいたい》して上士が横風《おうふう》である、私は之《これ》を見てその上士の傲慢無礼《ごうまんぶれい》を憤《いきどお》ると同時に、心の中では思直《おもいなお》して、この馬鹿者めが、何も知らずに夢中に威張《いばっ》て居る、見苦しい奴だと却《かえっ》て気の毒に思うて、心中却て此方《こっち》から軽蔑《けいべつ》して居ました。私がその時|老成人《ろうせいじん》であるか又《また》は仏者《ぶっしゃ》であったら、人道|世教《せきょう》の為《た》めに如何《どう》とか、又は平等を愛して差別を排するとか何とか云《い》う説もあろうが、十歳以上十九か二十歳《はたち》の少年にそんな六《むず》かしい奥ゆかしい考《かんがえ》のあるべき筈《はず》はない。唯《ただ》人間の殻威張《からいばり》は見苦しいものだ、威張る奴は恥知らずの馬鹿だとばかり思《おもっ》て居たから、夫《そ》れゆえ藩中に居て人に軽蔑されても侮辱されても、その立腹を他に移して他人を辱《はず》かしめると云うことはドウしても出来ない。例えば私が小士族の身分で上流に対しては小さくなって居なければならぬけれども、順を云えば又私より以下の者が幾らもあるから、その以下の者に向《むかっ》て自分が軽蔑された丈《だ》けソレ丈け軽蔑して遣《や》れば、所謂《いわゆる》江戸の敵《かたき》を長崎で討《うっ》て、勘定の立つようなものだが、ソレが出来ない。出来ない所ではない、その反対に私は下《しも》の方に向て大変丁寧にして居ました。
父母の遺伝
是《こ》れは私独りの発明でない、私の父母共に爾《そ》う云う風があったと推察が出来ます。前にも云《いっ》た通り、私の父は勿論《もちろん》漢学者で、身分は私と同じ事であるから、定《さだ》めて上流士族から蔑視《べっし》されて居たでしょう。所が私の父は決して他人を軽蔑しない。例えば江州《ごうしゅう》水口《みなくち》の碩学《せきがく》中村栗園《なかむらりつえん》は父の実弟のように親しくして居ましたが、元来《がんらい》栗園の身分は豊前《ぶぜん》中津《なかつ》の染物屋《そめものや》の息子で、所謂素町人の子だから、藩中士族は誰も相手になるものがない、けれども私の父はその人物を愛して、身分の相違を問《と》わず大層《たいそう》丁寧に取扱うて、大阪の倉屋敷の家に寄寓《きぐう》させて尚《な》お種々《しゅじゅ》に周旋して、とう/\水口《みなくち》の儒者になるように取持ち、その間柄と云《い》うものは真《まこと》に骨肉の兄弟にも劣《おと》らず、父の死後私の代になって、栗園《りつえん》先生は福澤の家を第二の実家のような塩梅《あんばい》にして、死ぬまで交際して居ました。シテ見ると是《こ》れは決して私の発明でない、父母から譲《ゆず》られた性質であると思う。ソレで私は中津《なかつ》に居て上流士族から蔑視《べっし》されて居ながら、私の身分以下の藩士は勿論《もちろん》、町人百姓に向《むかっ》ても、仮初《かりそめ》にも横風《おうふう》に構えてその人々を目下に見下《みくだ》して、威張るなどゝ云うことは一寸《ちょい》ともしたことがない。勿論上の者に向て威張りたくも威張ることが出来ない、出来ないから唯《ただ》モウ触《さわ》らぬように相手にならぬようと、独り自《みず》から安心決定《あんじんけつじょう》して居る。
本藩に対して功名心なし
既《すで》に心に決定して居れば、藩に居て功名心《こうめいしん》と云うものは更《さ》らにない、立身出世して高い身分になって錦を故郷に着て人を驚かすと云うような野心は少しもないのみか、私にはその錦が却《かえっ》て恥かしくて着ることが出来ない。グヅ/″\云えば唯この藩を出て仕舞《しま》う丈《だ》けの事だと云うのが若い時からの考えで、人にこそ云わね、私の心では眼中藩なしと斯《こ》う安心を極《き》めて居ましたので、夫《そ》れから長崎に行き大阪に出て修業して居るその中に、藩の御用で江戸に呼ばれて藩中の子弟を教うると云《い》うことをして居ながらも、藩の政庁に対しては誠に淡泊《たんぱく》で、長い歳月の間《あいだ》只《ただ》の一度も建白なんと云うことをしたことはない。能《よ》く世間にある事で、イヤどうも藩政を改革して洋学を盛《さかん》にするが宜《よ》いとか、兵制を改革するが宜《よ》いとか云うことは書生の能《よ》く遣《や》ることだ、けれども私に限り只の一度も云出《いいだ》したことがない。ソレと同時に自分の立身出世を藩に向《むかっ》て求めたことがない。ドウ云うように身分を取立てゝ貰《もら》いたい、ドウ云うようにして禄を増して貰いたいと云うような事は、陰《いん》にも陽《よう》にもどんな事があっても藩の長老に内願などしたことがない。ソコで江戸に参《まいっ》てからも、本藩の様子を見れば種々《しゅじゅ》な事を試《こころ》みて居る。兵制で申せば西洋流の操練を採用したことがある。けれども私はソレを宜《よ》いと云《いっ》て誉《ほ》めもしなければ悪いと云て止《と》めたこともなし、又|或《あるい》は大に漢学を盛《さかん》にすると云て頻《しき》りに学校の改革などを企てたこともある。或《あるい》は兵制は甲州流が宜《い》いと云て法螺《ほら》の貝を吹《ふい》て藩中で調練をしたこともある。ソレも私は只《ただ》目前《もくぜん》に見て居るばかりで、善《よ》いとも悪いとも一寸《ちい》とも云たことがない。或時《あるとき》に家老の隠居があって、大層政治論の好きな人で、私が家老の家に行《いっ》たらば、その隠居が、ドウも公武《こうぶ》の間《あいだ》が甚《はなは》だ穏かでない、全体どうも近衛様《このえさま》が爾《そ》うも有りそうもない事だとか、或は江戸の御老中が詰《つま》らないとか云うような慷慨《こうがい》談を頻りに云て居る。爾う云われると私も何か云いそうな事だ、所が私は決して云わない。如何《いか》にも爾うでしょう、ソリャ成程近衛様も爾うだろう、御老中も爾うだろうが、扨《さて》ソレが実地になると傍観者の思うようにはならぬもので、近くはこの奥平様の屋敷でも、マダして宜《い》いこともあるだろう、為《し》なくて宜《い》いこともあるだろう、傍観者から之《これ》を見たらば嘸《さぞ》堪《た》え難《がた》いことに思うでありましょうけれども、当局の御家老の身になって見れば又《また》爾《そ》う思う通りに行かないもので、矢張り今の通りより外《ほか》に仕様《しよう》がない。余り人の事を批評しても詰《つま》らぬ事です。私は一体そんな事に就《つい》ては何を議論しようとも思わぬと云《いっ》て、少しも相手にならなかった。
拝領の紋服をその日に売る
爾う云う風に構えて、一切《いっさい》政治の事に就《つい》て口を出そうと思わない。思わないから奥平の邸《やしき》で立身出世しようとも思わない。立身出世の野心がなければ人に依頼する必要もない。眼中人もなければ藩もなし、左《さ》ればとて藩の邪魔をしようとも思わず、唯《ただ》屋敷の長屋を借りて安気に住居するばかり、誠に淡泊なもので、或時《あるとき》私が何かの事に就て御用があるから出て来いと云うから、上屋敷の御小納戸《おこなんど》の処へ参《まいっ》た所が、之を貴様に下さると云て、奥平家の御紋の付《つい》て居る縮緬《ちりめん》の羽織を呉《く》れた。即ち御紋服《ごもんぷく》拝領《はいりょう》だ。左《さ》まで喜びもしなければ、品物が粗末だと云《いっ》て苦情も云《い》わず、只《ただ》難有《ありがと》うございますと云て拝領《はいりょう》して、その帰りに屋敷内に国から来て居る亡兄《ぼうけい》の朋友|菅沼孫右衛門《すがぬままごえもん》と云う人の勤番《きんばん》長屋に何か用があって寄《よっ》た所が、其処《そこ》に出入りの呉服屋か知らん古着屋か知らん呉服商人が来て何か話をして居る。ソレを聞《きい》て居ると羽織を拵《こしら》えると云うような様子。夫《そ》れから私が、アヽ孫右衛門さん、羽織をお拵えか。「左様《さよう》さ。「爾《そ》うか、羽織には宜《い》い縮緬《ちりめん》の売物があるが買いなさらんか。「爾うかソリャ幸いだが、紋所は。「紋所は御紋付《ごもんつき》だから誰にでも着られる羽織だがドウだ。「ソリャ宜《い》い、爾う云う売物があるなら兎《と》も角《かく》も見たいものだ。「買うと云いなされば此処《ここ》に持て居るこの羽織だがドウだ。「成程御紋付だから差支《さしつかえ》ない、買おう。就《つい》ては此処《ここ》に呉服屋が来て居るが、価《あたい》はドウだ。「値《ね》は呉服屋に付けて貰えば宜《い》いと云て、夫れからどの位の価《あたい》かと云たら、単《ひとえ》羽織の事だから一両三分だと云《い》う。スグ相談が出来て、その羽織を売《うっ》て一両三分の金を持て、私は鉄砲洲《てっぽうず》の中屋敷に帰《かえっ》たことがあると云うような次第で、全体藩の一般の習慣にすれば、拝領の御紋服と云うものはその拝領した年月を系図にまで認《したた》めて家の名誉にすると云う位のものなれども、私はその御紋服の羽織を着ても着なくても何ともない。夫《そ》れよりか金の方が宜い。一両三分あれば昨日《きのう》見た彼《か》の原書も買われる、原書を買わなければ酒を飲むと云うような、至極《しごく》無邪気な事であった。
主従の間も売言葉に買言葉
爾《そ》う云《い》う風であるから藩に対して甚《はなは》だ淡白、淡白と云えば言葉が宜《い》いけれども、同藩士族の眼から見れば不親切な薄情な奴と見えるも道理で、藩中の若い者等が酒席などで毎度議論を吹掛《ふっかけ》ることがあるその時に、私は答えて「不親切薄情と云うけれども、私は何も奥平様に向《むかっ》て悪い事をしたことはない、一寸《ちょい》とでも藩政の邪魔をしたことはない、只《ただ》命令の儘《まま》に堅く守《まもっ》て居るのだ。この上に親切と云《いっ》てドウ云うことをするのか。私は厚かましい事は出来ない、之《これ》を不親切と云えば仕方がない。今も申す通り私は藩に向て悪い事をしないのみか、一寸《ちょい》とでも求めたことがなかろう、或《あるい》は身分を取立て呉《く》れろ、禄を増して呉れろと云うような事は、蔭《かげ》にも日向《ひなた》にも一言《いちごん》でも云たことがあるか。その言葉を聞《きい》た人がこの藩中に在るかドウか、御家老以下の役人に聞て見るが宜《い》い。厚かましく親切を尽《つく》して、厚かましく泣付《なきつ》くと云うことは、自分の性質に於《おい》て出来ない。是《こ》れで悪いと云うならば追出すより外《ほか》に仕方はあるまい。追出せば謹《つつし》んで命《めい》を奉じて出て行く丈《だ》けの話だ。凡《およ》そ人間の交際は売言葉に買言葉で、藩の方から数代《すだい》御奉公を仰付《おおせつ》けられて難有《ありがた》い仕合《しあわ》せであろうと酷《ひど》く恩に被《き》せれば、失敬ながら此方《こっち》にも言葉がある、数代《すだい》家来になって正直に勤めたぞ、そんなに恩に被せなくても宜《よ》かろうと云《い》わねばならぬ。之《これ》に反して藩の方から手前達のような家来が数代《すだい》神妙に奉公して呉《く》れたからこの藩も行立《ゆきた》つと斯《こ》う云えば、此方《こっち》も亦《また》言葉を改め、数代《すだい》御恩を蒙《こうむっ》て難有《ありがた》い仕合《しあわ》せに存じ奉ります、累代の間には役に立たぬ小供もありました、病人もありました、ソレにも拘《かか》わらず下さる丈《だ》けの家禄はチャンと下さって家族一同安楽に生活しました、主恩海より深し山より高しと、此方《こっち》も小さくなってお礼を申上げる。是《これ》れが[#「是《これ》れが」はママ]即《すなわ》ち売言葉に買言葉だ。ソレ丈《だ》けの事は私《わたくし》も能《よ》く知《しっ》て居る。爾《そ》う無闇《むやみ》に恩に被せる事ばかり云《いっ》て、只《ただ》漠然と不親切と云うような事を云て貰いたくないと云うような調子で、始終《しじゅう》問答をして居ました。
長州征伐に学生の帰藩を留める
夫《そ》れから長州藩が穏かでない。朝敵と銘《めい》が付《つい》て、ソコで将軍|御親発《ごしんぱつ》となり、又幕府から九州の諸大名にも長州に向《むかっ》て兵を出せと云う命令が下《くだっ》て、豊前《ぶぜん》中津《なかつ》藩からも兵を出す。就《つい》ては江戸に留学して居る学生、小幡篤次郎《おばたとくじろう》を始め十人も居ました、ソレを出兵の御用だから帰れと云て呼還《よびかえ》しに来たその時にも、私は不承知だ。この若い者が戦争《いくさ》に出るとは誠に危ない話で、流丸《りゅうがん》に中《あたっ》ても死んで仕舞《しま》わなければならぬ、こんな分らない戦争に鉄砲を担《かつ》がせると云うならば、領分中の百姓に担がせても同じ事だ、この大事な留学生に帰《かえっ》て鉄砲を担《かつ》げなんて、ソンな不似合な事をするには及ばぬ、仮令《たと》い弾丸に中《あた》らないでも、足に踏抜《ふみぬ》きしても損だ、構うことはない病気と云《いっ》て断《ことわっ》て仕舞《しま》え、一人も還《かえ》さない、ソレが罷《まか》り間違えば藩から放逐《ほうちく》丈《だ》けの話だ、長州征伐と云う事の理非曲直はどうでも宜《よろ》しい、兎《と》に角《かく》に学者書生の関係すべき事でないから決して帰らせないと頑張《がんばっ》た所が、藩の方でも因循《いんじゅん》であったのか、強《し》いて呼返すと云《い》うこともせずに、その罪は中津《なかつ》に居る父兄の身に降り来《きたっ》て、その方共の子弟が命《めい》に背《そむ》いて帰藩せぬのは平生《へいぜい》の教訓|宜《よろ》しからざるに由《よ》る云々《うんぬん》の文句で、何でも五十日か六十日の閉門を申付《もうしつ》けられたことがある。凡《およ》そ私の心事はこんな風で、藩に仕えて藩政を如何《どう》しようとも思わず、立身出世して威張《いば》ろうとも思わず、世間で云う功名《こうみょう》心は腹の底から洗《あらっ》たように何にもなかった。
幕府にも感服せず
藩に対しての身の成行《なりゆき》、心の置《おき》どころは右の通りで、扨《さて》江戸に来て居る中に幕府に雇《やと》われて、後にはいよ/\幕府の家来になって仕舞《しま》えと云《い》うので、高百五十俵、正味百俵ばかりの米を貰《もらっ》て一寸《ちょい》と旗本《はたもと》のような者になって居たことがある。けれども是《こ》れ亦《また》、藩に居るときと同様、幕臣になって功名手柄をしようと云うような野心はないから、随《したがっ》て自分の身分が何であろうとも気に留《と》めたことがない。一寸《ちょい》とした事だが可笑《おか》しい話があるその次第は、江戸で御家人《ごけにん》の事を旦那《だんな》と云《い》い、旗本《はたもと》の事を殿様《とのさま》と云うのが一般の慣例である、所が私が旗本になったけれども、固《もと》より自分で殿様なんて馬鹿気《ばかげ》たことを考える訳《わ》けもなければ、家内の者もその通りで、平生《へいぜい》と少しも変《かわっ》た事はない。爾《そ》うすると或日《あるひ》知己の幕人[#割り注]たしか福地源一郎であったかと覚ゆ[#割り注終わり]が玄関に来て殿様はお内か。「イーエそんな者は居ません。「お内においでなさらぬか、殿様は御不在か。「そんな人は居ませんと、取次の下女と頻《しきり》に問答して居る様子、狭い家だからスグ私が聞付《ききつ》けて、玄関に出てその客を座敷に通したことがあるが、成るほど殿様と云《いっ》て下女に分る訳けはない、私の家の中で云う者もなければ聞《きい》た者もない言葉だから。
洋行船中の談話
夫《そ》れでも私に全く政治思想のないではない。例えば文久二年欧行の船中で松木弘安《まつきこうあん》と箕作秋坪《みつくりしゅうへい》と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が「ドウだ迚《とて》も幕府の一手持《いってもち》は六《むず》かしい、先《ま》ず諸大名を集めて独逸《ドイツ》聯邦《れんぽう》のようにしては如何《いかん》と云うに、松木《まつき》も箕作《みつくり》も、マアそんな事が穏かだろうと云《い》う。夫《そ》れから段々身の上話に及んで、今日|吾々《われわれ》共の思う通りを云《い》えば、正米《しょうまい》を年に二百俵|貰《もら》うて親玉《おやだま》([#割り注]将軍の事[#割り注終わり])の御師匠番になって、思う様《よう》に文明開国の説を吹込《ふきこ》んで大変革をさして見たいと云うと、松木が手を拍《うっ》て、左様《そう》だ/\、是《こ》れは遣《やっ》て見たいと云《いっ》たのは、松木の功名《こうめい》心もその時には二百俵の米を貰うて将軍に文明説を吹込むぐらいの事で、当時の洋学者の考《かんがえ》は大抵皆大同小異、一身の為《た》めに大きな事は考えない。後にその松木が寺島宗則《てらしまむねのり》となって、参議《さんぎ》とか外務卿《がいむきょう》とか云《い》う実際の国事に当たのは、実は本人の柄《がら》に於《おい》て商売|違《ちが》いであったと思います。
夫《そ》れは扨《さて》置き世の中の形勢を見れば、天下の浮浪|即《すなわ》ち有志者は京都に集《あつまっ》て居る。夫れから江戸の方では又幕府と云うものが勿論《もちろん》時の政府でリキンで居ると云う訳《わ》けで、日本の政治が東西二派に相分れて、勤王佐幕と云う二派の名が出来た。出来た所で、サア其処《そこ》に至《いたっ》て私が如何《どう》するかと云うに、
第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いで之《これ》に力を尽《つく》す気はない。
第二、左《さ》ればとて彼《か》の勤王家と云《い》う一類を見れば、幕府より尚《な》お一層|甚《はなは》だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気は固《もと》よりない。
第三、東西二派の理非曲直は姑《しばら》く扨置《さてお》き、男子が所謂《いわゆる》宿昔青雲《しゅくせきせいうん》の志《こころざし》を達するは乱世に在《あ》り、勤王でも佐幕でも試《こころ》みに当《あたっ》て砕けると云うが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。
今その次第を語りましょう。抑《そ》も私が始めて江戸に来た時からして幕府の人には感服しない。一寸《ちょい》と旗本《はたもと》御家人《ごけにん》に出遇《であ》う所が、応接振りは上品で、田舎者と違い弁舌も好《よ》く行儀も立派であるが、何分にも外辺《うわべ》ばかりで、物事を微密《ちみつ》に考える脳力《のうりょく》もなければ又《また》腕力も弱そうに見える、けれども先方は幕府の御直参、此方《こちら》は又る影もない陪臣だから手の着《つ》けようもなく、旗本などに対してはその人の居ない処でも何様々々と尊敬して居るその塩梅《あんばい》式は、京都の御公卿様《おくげさま》を取扱うように、唯《ただ》見た所ばかりを丁寧にして心の中では見|縊《くび》り抜《ぬい》て居た。
葵の紋の御威光
所がその無脳力、無腕力と思う幕府人の剣幕は中々|大造《たいそう》のものである。些細《ささい》な事のようだが、当時最も癪《しゃく》に障るのは旅行の道中で、幕人の威張《いば》り方と云うものは迚《とて》も今時の人に想像は出来ない。私などは譜代大名の家来だから丸で人種違いの蛆虫《うじむし》同様、幕府の役人は勿論、凡《およ》そ葵の紋所の付《つい》て居る御三家と云い、夫《そ》れから徳川親藩の越前家と云うような大名か又はその家来が道中をして居る処に打付《ぶっつ》かろうものならソリャ堪《たま》らない。寒中朝寒い時に宿屋を出て、河を渡ろうと思《おもっ》て寒風の吹く処に立て一時間も船の来るのを待《まっ》て居る、ヤッと船が着《つい》て、やれ嬉しやこの船に乗ろうと云《い》う時に、不意と後ろから葵の紋の侍《さむらい》が来るとその者が先《さ》きへその船に乗《のっ》て仕舞《しま》う、又アト一時間も待たなければならぬ。駕籠《かご》を舁《かつ》ぐ人足でも無人のときには吾々《われわれ》は問屋場《といやば》に行《いっ》て頼んでヤッと出来た処に、アトから例の葵の紋が来ると、出来たその人足を横合から取られて仕舞う。如何《どん》なお心善《こころよし》でも腹を立てずには居られない。凡《およ》そ幕府の圧制|殻威張《からいば》りは際限のない事ながら、私共が若い時に直接に侮辱《ぶじょく》軽蔑《けいべつ》を受けたのは、道中の一事でも血気の熱心は自《おのず》から禁ずることが出来ず、前後左右に深い考えもなく、唯《ただ》癇癪《かんしゃく》の余りに、こんな悪政府は世界中にあるまいと腹の底から観念して居た。
幕府の攘夷主義
幕政の殻威張りが癇癪に障ると云うのは、是《こ》れは此方《こっち》の血気の熱心であるとして姑《しばら》く差置《さしお》き、扨《さて》この日本を開いて外国交際をドウするかと云うことになっては、如何《どう》も見て居られない、と云うのは私は若い時から洋書を読《よん》で、夫《そ》れから亜米利加《アメリカ》に行き、その次には欧羅巴《ヨーロッパ》に行き、又亜米利加に行て、只《ただ》学問ばかりでなく実地を見聞《けんもん》して見れば、如何《どう》しても対外|国是《こくぜ》は斯《こ》う云《い》うように仕向《しむ》けなければならぬと、ボンヤリした処でも外国交際法と云《い》うことに気の付くは当然《あたりまえ》の話であろう。ソコでその私の考《かんがえ》から割出《わりだ》して、この徳川政府を見ると殆《ほと》んど取所《とりどころ》のない有様で、当時日本国中の輿論《よろん》は都《すべ》て攘夷で、諸藩残らず攘夷藩で徳川幕府ばかりが開国論のように見えもすれば聞えもするようでありますけれども、正味の精神を吟味すれば天下随一の攘夷藩、西洋嫌いは徳川であると云《いっ》て間違いはあるまい。或《あるい》は後年に至《いたっ》て大老|井伊掃部頭《いいかもんのかみ》は開国論を唱えた人であるとか開国主義であったとか云うような事を、世間で吹聴《ふいちょう》する人もあれば書《ほん》に著《あら》わした者もあるが、開国主義なんて大嘘《だいうそ》の皮《かわ》、何が開国論なものか、存じ掛《が》けもない話だ。井伊掃部頭と云う人は純粋無雑、申分《もうしぶん》のない参河武士《みかわぶし》だ。江戸の大城《たいじょう》炎上のとき幼君を守護して紅葉山《もみじやま》に立退《たちの》き、周囲に枯草の繁りたるを見て非常の最中|不用心《ぶようじん》なりとて、親《みず》から腰の一刀を抜《ぬい》てその草を切払《きりはら》い、手に幼君を擁《よう》して終夜家外に立詰めなりしと云う話がある。又この人が京都辺の攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあれども、是《こ》れは攘夷論を悪《にく》む為《た》めではない、浮浪の処士が横議《おうぎ》して徳川政府の政権を犯すが故にその罪人を殺したのである。是等の事実を見ても、井伊大老は真実間違いもない徳川家の譜代、豪勇無二の忠臣ではあるが、開鎖の議論に至《いたっ》ては、真闇《まっくら》な攘実家と云《い》うより外《ほか》に評論はない。唯《ただ》その徳川が開国であると云うのは、外国交際の衝《しょう》に当《あたっ》て居るから余儀なく渋々《しぶしぶ》開国論に従《したがっ》て居た丈《だ》けの話で、一幕|捲《まくっ》て正味《しょうみ》の楽屋《がくや》を見たらば大変な攘夷藩だ。こんな政府に私が同情を表することが出来ないと云《い》うのも無理はなかろう。先《ま》ずその時の徳川政府の頑固な一例を申せば斯《こ》う云《い》うことがある。私がチエーンバーの経済論を一冊|持《もっ》て居て、何か話の序《ついで》に御勘定方の有力な人、即《すなわ》ち今で申せば大蔵省中の重要の職に居る人にその経済書の事を語ると、大造《たいそう》悦《よろこ》んで、ドウか目録だけでも宜《い》いから是非見たいと所望するから、早速|飜訳《ほんやく》する中に、コンペチションと云う原語に出遭《であ》い、色々考えた末、競争と云う訳字を造り出して之《これ》に当箝《あては》め、前後二十条ばかりの目録を飜訳して之を見せた所が、その人が之を見て頻《しき》りに感心して居たようだが、「イヤ茲《ここ》に争《あらそい》と云う字がある、ドウも是《こ》れが穏かでない、どんな事であるか。「どんな事ッて是れは何も珍らしいことはない、日本の商人のして居る通り、隣で物を安く売ると云えば此方《こっち》の店ではソレよりも安くしよう、又《また》甲の商人が品物を宜《よ》くすると云《い》えば、乙はソレよりも一層|宜《よ》くして客を呼ぼうと斯《こ》う云《い》うので、又|或《あ》る金貸が利息を下げれば、隣の金貸も割合を安くして店の繁昌を謀《はか》ると云うような事で、互《たがい》に競い争うて、ソレで以《もっ》てちゃんと物価も定《き》まれば金利も極《き》まる、之《これ》を名《なづ》けて競争と云うので御座《ござ》る。「成程、爾《そ》うか、西洋の流儀はキツイものだね。「何もキツイ事はない、ソレで都《すべ》て商売世界の大本《おおもと》が定《き》まるのである。「成程《なるほど》、爾う云えば分らないことはないが、何分ドウも争《あらそい》と云う文字が穏かならぬ。是れではドウモ御老中方へ御覧に入れることが出来ないと、妙な事を云うその様子を見るに、経済書中に人間|互《たがい》に相譲《あいゆず》るとか云うような文字が見たいのであろう。例えば商売をしながらも忠君愛国、国家の為《た》めには無代価でも売るとか云うような意味が記してあったらば気に入るであろうが、夫《そ》れは出来ないから、「ドウも争と云う字が御差支《おさしつかえ》ならば、外に飜訳《ほんやく》の致しようもないから、丸で是《こ》れは削りましょうと云《いっ》て、競争の文字を真黒に消して目録書を渡したことがある。この一事でも幕府全体の気風は推察が出来ましょう。夫れから又長州征伐のとき外国人は中々注意して居て、或時《あるとき》英人であったか米人であったか幕府に書翰を出《いだ》し、長州の大名にドウ云う罪があって征伐するのだろうか、ソレを承《うけたまわ》りたいと云て来た。爾《そ》うするとその時の閣老役人達がいろ/\評議をしたと見え、長々と返辞《へんじ》を遣《やっ》たその返辞の中に、開鎖論と云うことを頓《とん》と云わない。当りまえならば国を開いた今日、長州の大名は政府の命令を奉ぜずに外国人を敵視するとか、下ノ関で外国の船艦に発砲したからとか云《い》いそうなものであるに、ソンな事は一言《いちごん》半句も云《い》わないで、イヤどうも京都に暴れ込んだとか、或《あるい》は勅命に戻《もと》り台命《たいめい》に背《そむ》き、その罪|南山《なんざん》の竹を尽《つく》すも数えがたしと云うような、漢学者流の文句をゴテ/″\書て遣《やっ》た。私はその返辞《へんじ》を見て、コリャどうも仕様《しよう》がない、表面《うわべ》には開国を装うて居るも、幕府は真実自分も攘夷が為《し》たくて堪《たま》らないのだ、迚《とて》もモウ手の着《つ》けようのない政府だと、実に愛想が尽きて同情を表する気がない。
然《しか》らば則《すなわ》ち之《これ》に取《とっ》て代ろうと云う上方《かみがた》の勤王家はドウだと云うに、彼等が代《かわっ》たら却《かえっ》てお釣《つり》の出るような攘夷家だ。コリャ又幕府よりか一層悪い。勤王攘夷と佐幕攘夷と名こそ変れ、その実は双方共に純粋無雑な攘夷家でその攘夷に深浅厚薄の別はあるも、詰《つま》る所は双方共に尊攘の仕振りが善いとか悪いとか云うのが争論の点で、その争論喧嘩が遂《つい》に上方の攘夷家と関東の攘夷家と鉄砲を打合うような事になるであろう。ドチラも頼むに足らず、その中にも上方の勤王家は、事実に於《おい》て人殺しもすれば放火《つけび》もして居る、その目的を尋ねて見ると、仮令《たと》いこの国を焦土にしても飽《あ》くまで攘夷をしなければならぬと云《い》う触込《ふれこ》みで、一切《いっさい》万事一挙一動|悉《ことごと》く攘夷ならざるはなし。然《しか》るに日本国中の人がワッとソレに応じて騒ぎ立て居るのであるから、何としても之《これ》に同情を表して仲間になるような事は出来られない。是《こ》れこそ実に国を滅す奴等《やつら》だ、こんな不文不明な分らぬ乱暴人に国を渡せば亡国は限前に見える、情けない事だと云《い》う考《かんがえ》[#ルビの「かんがえ」は底本では「かんが」]が始終《しじゅう》胸に染込んで居たから、何としても上方《かみがた》の者に左袒《さたん》する気にならぬ。その前後に緒方の隠居は江戸に居る。是《こ》れは故緒方洪庵先生の夫人で、私は阿母《おっか》さんのようにして居る恩人である。或《ある》時に隠居が私と箕作《みつくり》を呼んで、ドウじゃい、お前さん方は幕府に雇われて勤めて居るけれども、馬鹿々々《ばかばか》しい止《よ》しなさい、ソレよりか上方に行《いっ》て御覧。ソリャどうもいろ/\な面白いことかあるぜ、と云う。段々|聞《きい》て見ると村田《むらた》造[#「造」に「〔蔵〕」の注記]六|即《すなわ》ち大村益次郎《おおむらますじろう》とか佐野栄寿《さのえいじゅ》(常民《つねたみ》)とか云うような有志者が、皆緒方の家に出入をして居る。ソレを隠居さんが知《しっ》て居て、私と箕作の事は自分の子のようにして居たものだから、江戸に居るな、上方に行けと勧めたのも無理はない。その時に私は、誠に難有《ありがと》うございます、大阪に行けば必ず面白い仕事がありましょうけれども、私はドウも首をもがれたッて攘夷のお供は出来ません、爾《そ》うじゃないかと、箕作と云《いっ》て断わったことがありましたが、その位の訳《わ》けで、ドウしてもその上方勢に与《く》みすることは出来なかった。
夫《それ》からモウ一つ私の身に就《つい》て云えば、少年の時から中津の藩を出て仕舞《しまっ》たので、所謂《いわゆる》藩の役人らしい公用を勤めたことがない。夫《そ》れから前にも云《い》う通り、江戸に来て徳川の政府に雇われたからと云《いっ》た所が、是《こ》れは云《い》わば筆執る飜訳《ほんやく》の職人で、政治に与《あず》かろう訳《わ》けもない。只《ただ》職人の積りで居るのだから、政治の考《かんがえ》と云うものは少しもない。自分でも仕《し》ようとも思わなければ、又《また》私は出来ようとも思わない。仮令《たと》い又私が奮発して、幕府なり上方《かみがた》なり何でも都合の宜《い》い方に飛出すとした処が、人の下流に就《つい》て仕事をすることは固《もと》より出来ず、中津藩の小士族で他人に侮辱《ぶじょく》軽蔑《けいべつ》されたその不平不愉快は骨に徹《てっ》して忘れられないから、今|更《さ》ら他人に屈してお辞儀をするのは禁物である。左《さ》れば大《おおい》に立身して所謂《いわゆる》政治界の大人《たいじん》とならんか、是れも甚《はなは》だ面白くない。前にも申した通り私は儀式の箱に入れられて小さくなるのを嫌う通りに、その通りに儀式|張《ばっ》て横風《おうふう》な顔をして人を目下《もくか》に見下だすことも亦《また》甚だ嫌いである。例えば私は少年の時から人を呼棄《よびすて》にしたことがない。車夫、馬丁《ばてい》、人足《にんそく》、小商人《こあきんど》の如《ごと》き下等社会の者は別にして、苟《いやしく》も話の出来る人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことはない。青年書生は勿論《もちろん》、家内の子供を取扱うにもその名を呼棄《よびすて》にすることは出来ない。左《さ》る代《かわ》りに政治社会の歴々とか何とか云《い》う人を見ても何ともない。夫《そ》れも白髪の老人とでも云《い》えば老人相応に待遇はすれども、その人の官爵が高いなんて高慢な風をすれば唯《ただ》可笑《おか》しいばかりで、話をするのも面白くない。是《こ》れは私が持《もっ》て生れた性質か、又は書生流儀の習慣か、老年の今日に至るまでも同じ事で、之《これ》を要するに如何《どう》しても青雲の雲の上には向きの悪い男であるから、維新前後にも独《ひと》り別物になって居たことゝ、自分で自分の事を推察して居ます。ソレはソレとして、
扨《さて》慶喜《けいき》さんが京都から江戸に帰《かえっ》て来たと云《い》うその時には、サア大変。朝野《ちょうや》共に物論沸騰して、武家は勿論《もちろん》、長袖の学者も医者も坊主も皆政治論に忙《いそがわ》しく、酔えるが如《ごと》く狂するが如く、人が人の顔を見れば唯《ただ》その話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。平生《ふだん》なれば大広間、溜《たまり》の間、雁の間、柳の間なんて、大小名の居る処で中々|喧《やか》ましいのが、丸で無住のお寺を見たようになって、ゴロ/″\箕坐《あぐら》を掻《かい》て、怒鳴る者もあれば、ソット袂《たもと》から小さいビンを出してブランデーを飲んでる者もあると云うような乱脈になり果てたけれども、私は時勢を見る必要がある、城中の外国方《がいこくがた》に飜訳《ほんやく》抔《など》の用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出て居ましたが、その政論流行の一例を云て見ると、或日|加藤弘之《かとうひろゆき》と今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人が※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《かみしも》を着て出て来て外国方の役所に休息して居るから、私が其処《そこ》へ行《いっ》て、「イヤ加藤《かとう》君、今日はお※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《かみしも》で何事に出て来たのかと云《い》うと、「何事だッて、お逢いを願うと云うのは、此《こ》の時に慶喜《けいき》さんが帰《かえっ》て来て城中に居るでしょう、ソコで色々な策士論客忠臣義士が躍気《やっき》となって、上方《かみがた》の賊軍が出発したから何でも是《こ》れは富士川《ふじがわ》で防がなければならぬとか、イヤ爾《そ》うでない、箱根の嶮阻《けんそ》に拠《よっ》て二子山《ふたこやま》の処で賊を鏖殺《みなごろ》しにするが宜《い》い、東照神君《とうしょうしんくん》三百年の洪業は一朝にして棄《す》つべからず、吾々臣子の分として義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに若《し》かずなんて、種々《しゅじゅ》様々の奇策妙案を献じ、悲憤|慷慨《こうがい》の気焔《きえん》を吐く者が多いから、云《い》わずと知れた加藤等もその連中《れんじゅう》で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。ソコデ私が、「今度の一件はドウなるだろう、いよ/\戦争になるか、ならないか、君達には大抵《たいてい》分るだろうから、ドウぞ夫《そ》れを僕に知らして呉《く》れ給《たま》え、是非《ぜひ》聞きたいものだ。「ソレを聞いて何にするか。「何にするッて分《わかっ》てるではないか、是れがいよ/\戦争に極《き》まれば僕は荷物を拵《こしら》えて逸げなくてはならぬ、戦争にならぬと云えば落付《おちつい》て居る。その和戦|如何《いかん》はなか/\容易ならぬ大切な事であるから、ドウぞ知らして貰いたいと云うと、加藤は眼を丸くして、「ソンな気楽な事を云《いっ》て居る時勢ではないぞ、馬鹿々々《ばかばか》しい。「イヤ/\気楽な所ではない、僕は命掛けだ。君達は戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻《そっこく》迯《に》げて行くのだからと云《いっ》たら、加藤がプリ/\怒《おこっ》て居たことがあります。
夫《そ》れから又《また》或日《あるひ》に外国方《がいこくがた》の小役人が出て来て、時に福澤さんは家来は何人お召連《めしつ》れになるかと問《と》うから、「家来とは何だと云《い》うと、「イヤ事急なれば皆この城中に詰《つ》める方々にお賄《まかない》を下さるので人数《にんず》を調べて居る処です。「爾《そ》うかソレは誠に難有《ありがた》い、難有《ありがた》いが私は勿論《もちろん》家来もなければ主人もない。ドウぞ福澤のお賄だけはお止《や》めにして下さい。弥々《いよいよ》戦争が始まると云うのに、この城の中に来て悠々と弁当など喰《くっ》て居られるものか、始まろうと云う気振《けぶ》りが見えれば何処《どこ》かへ直《す》ぐに逃出して行きます。先《ま》ず私のお賄は要《い》らないものとして下さいと、笑《わらっ》て茶を呑《の》んで居た。全体を云うと真実徳川の人に戦う気があれば、私がそんな放語漫言したのを許す訳《わ》けはない、直《す》ぐ一刀の下に首が夫くなる筈《はず》だけれども、是《こ》れが所謂《いわゆる》幕末の形勢で、迚《とて》も本式に戦争などの出来る人気《にんき》でなかった。
その前に慶喜《けいき》さんが東帰して来たときに、政治上の改革とでも云うか種々《しゅじゅ》様々な役人が出来た。可笑《おか》しくて堪《たま》らない。新潟奉行に誰が命ぜられて、何処《どこ》の代官に誰がなる。甚《はなは》だしきに至《いたっ》ては逃去て来た後《あと》の兵庫奉行になった人さえあって、名義上の奉行だけは此方《こっち》に出来て居る。夫《そ》れから又|御目附《おめつけ》になるもあれば、御使番《おつかいばん》になるものもある。何でも加藤弘之《かとうひろゆき》、津田真一《つだしんいち》(真道《まみち》)なども御目附か御使番《おつかいばん》かになって居たと思う。私にも御使番になれと云《い》う。奉書到来と云う儀式で、夜中《やちゅう》差紙《さしがみ》が来たが、真平《まっぴら》御免だ、私は病気で御座《ござ》ると云《いっ》て取合わない。夫れから段々切迫して官軍(上方《かみがた》勢)が這入《はい》り込んで、ソロ/\鎮将府《ちんじょうふ》と云《い》うようなものが江戸に出来て、慶喜《けいき》さんは水戸の方に行くと斯《こ》うなったので、是《こ》れは慶応四年|即《すなわ》ち明治元年春からの騒ぎで、その時に私は芝《しば》の新銭座《しんせんざ》に屋敷が買ってあったから引越《ひっこ》さなければならぬ。その屋敷の地坪は四百坪、長屋が一棟に土蔵が一つある切りだから、生徒の為《た》めに塾舎も拵《こしら》えなければならず、又私の住居《すまい》も拵えなければならぬ。扨《さて》その普請《ふしん》の一段になった所で、江戸市中|大《おお》騒動の最中、却《かえっ》て都合が宜《い》い。八百八町|只《ただ》の一軒でも普請をする家はない。ソレどころではない、荷物を搦《から》げて田舎に引越《ひっこ》すと云《い》うような者ばかり、手|廻《まわ》しの宜《い》い家では竈《かまど》の銅壺《どうこ》まで外《はず》して仕舞《しまっ》て、自分は土竈《どべっつい》を拵《こしら》えて飯を焚《たい》て居る者もある。この最中に私が普請《ふしん》を始めた処が、大工や左官の悦《よろこ》びと云うものは一方《ひとかた》ならぬ。安いにも/\、何でも飯が喰《く》われさえすれば宜《よ》い、米の代さえあれば働くと云《い》う訳《わ》けで、安い手間料で人手は幾らでもあるから、普請は颯々《さっさつ》と出来る。その建物も新たに拵えるのではない。奥平屋敷の古長屋を貰《もらっ》て来て、凡《およ》そ百五十坪も普請したが、入費《にゅうひ》は僅《わず》か四百両ばかりで一切《いっさい》仕上げました。いよ/\普請の出来たのはその年(明治元年)四月頃と覚ゆ。その時私の朋友などは態《わざ》々|止《と》めに来て、「今頃普請をするものがあるか、何処《どこ》でも家を毀《こ》わして立退くと云う時節に、君独り普請をしてドウする積《つも》りだと云《い》うから、私は答えて、「ソリャ爾《そ》うでない、今僕が新《あらた》に普請するから可笑《おか》しいように見えるけれども、去年普請をして置《おい》たらドウする。いよ/\戦争になって迯《に》げる時にその家を担《かつ》いで行かれるものでない。成程《なるほど》今戦争になれば焼けるかも知れない、又焼けないかも知れない、仮令《たと》い焼けても去年の家が焼けたと思えば後悔も何もしない、少しも惜しくないと云《いっ》て颯々と普請をして、果して何の災《わざわい》もなかったのは投機商売の中《あたっ》たようなものです。何でも私の処で普請をした為《た》めに、新銭座《しんせんざ》辺は余程立退きが寡《すくな》かった。彼処《あすこ》の内で普請をする位だから戦争にならぬであろう、マア引越《ひきこし》を見合せようと云《いっ》て思止《おもいと》まった者も大分《だいぶ》あったようだ。けれども実は私も心の中では怖いさ。何処《どこ》から焼け始まってドンな事になるか知れぬと思うから、何処《どこ》かに迯《に》げる用意はして置かなければならぬ。屋敷の中に穴を掘《ほっ》て隠れて居ようか、ソレでは雨の降るときに困る。土蔵の椽《えん》の下に這入《はいっ》て居ようか、若《も》し大砲で撃れると困る。ドウしようかと思う中に、近所に紀州《きしゅう》の屋敷(今の芝離宮《しばりきゅう》)があって、その紀州藩から幾人も生徒が来て居るを幸い、その人達に頼んで屋敷を見に行《いっ》た所が、広い庭で土手が二重に喰違《くいちが》いになって居る処がある。此処《ここ》が宜《よ》かろう、罷《まか》り違《ちがっ》ていよ/\ドン/″\遣《や》るようにならば、此処《ここ》へ逃げて来よう、けれども表から行かれない、行かれないから海岸から行くより外《ほか》ないと云《い》うので、いよ/\セッパ詰《つまっ》たその時に、私は伝馬船《てんまぶね》を五、六日の間|雇《やとっ》て、新銭座《しんせんざ》の浜辺に繋《つな》いで置《おい》たことがある。サアいよ/\と云うときに、家内の者をその船に乗せて海の方からその紀州の屋敷へ行《いっ》て、土手の間に隠れて居ようと云う覚悟。その時に私の処の子供が二人、一《いち》(総領の一太郎《いちたろう》氏なり)と捨《すて》(次男の捨次郎《すてじろう》氏なり)、家内と子供を連れて其処《そこ》へ行こうと云う覚悟をして居た所が、ソレ程心配にも及ばず、追々官軍が入込《いりこ》んで来た所が存外優しい、決して乱暴な事をしない。既《すで》に奥平の屋敷が汐留《しおどめ》にあって、彼処《あすこ》に居る(別室に居る年寄を指して)一太郎《いちたろう》のお祖母《ばば》さんがその屋敷に居るので、五歳《いつつ》ばかりの一太郎が前夜からお祖母さんの処に泊《とまっ》て居た所が、奥平《おくだいら》屋敷のツヒ近所に[#「ツヒ近所に」はママ]増山《ますやま》と云う大名屋敷があって、その屋敷へ不逞《ふてい》の徒が何人とか籠《こもっ》て居ると云《い》うので、長州の兵が取囲んで、サア戦争だ、ドン/″\遣《やっ》て居る。夫《そ》れから捕《つか》まえられたとか斬られたとか、或《あるい》は奥平屋敷の溝の中に人が斬倒《きりたお》されて、ソレを又《また》上から鎗《やり》で突《つい》たと云うような大《おお》騒動。所で私の倅《せがれ》はお祖母さんの処に居る、奥平の屋敷も焼かれて仕舞《しま》うだろう、あの子とお祖母さんはドウなろうかと大変な心配で、迎いに遣《や》ろうと云《いっ》ても遣ることも出来ない。夫《そ》れ是《こ》れする中に夕方になった所で事は鎮《しず》まって仕舞《しまっ》たが、その時でも大変に優しくて、ジッとして居ればドウもしない、何もこの内に居る者に怪我をさせようともしなければ乱暴もしない、チャンと軍令と云うものがあって締《しま》りが付《つい》て居るから安心しなさいと頻《しき》りに和《なだ》めて一寸《ちょい》とも手を触れないと云う一例でも、官軍の存外優しかったことが分る。前に思《おもっ》たとは大違い、何ともない。
義塾次第に繁昌
扨《さて》四月になった所で普請も出来上り、塾生は丁度慶応三年と四年の境が一番諸方に散じて仕舞《しまっ》て、残《のこっ》た者は僅《わずか》に十八人、夫れから四月になった所が段々|帰《かえっ》て来て、追々塾の姿を成して次第に盛《さかん》になる。又盛になる訳《わ》けもある、と云《い》うのは今度私が亜米利加《アメリカ》に行た時には、其《それ》以前、亜米利加に行た時よりも多く金を貰《もら》いました。所《ところ》で旅行中の費用は都《すべ》て官費であるから、政府から請取《うけとっ》た金は皆手元に残る故《ゆえ》、その金を以《もっ》て今度こそは有らん限りの原書を買《かっ》て来ました。大中小の辞書、地理書、歴史等は勿論、その外《ほか》法律書、経済書、数学書などもその時殆めて日本に輸入して、塾の何十人と云《い》う生徒に銘々《めいめい》その版本を持たして立派に修業の出来るようにしたのは、実に無上の便利でした。ソコデその当分十年余も亜米利加《アメリカ》出版の学校読本が日本国中に行われて居たのも、畢竟《ひっきょう》私が始めて持《もっ》て帰《かえっ》たのが因縁《いんえん》になったことです。その次第は生徒が始めて塾で学ぶ、その学んで卒業した者が方々《ほうぼう》に出て教師になる、教師になれば自分が今まで学んだものをその学校に用るのも自然の順序であるから、日本国中に慶應義塾に用いた原書が流布《るふ》して広く行われたと云うのも、事の順序はよく分《わかっ》て居ます。
官賊の間に偏せず党せず
それで先《ま》ず官軍は存外柔かなものであって、何も心配はない。併《しか》し政治上の事は極めて鋭敏なもので、嫌疑《けんぎ》と云うことがあっては是《こ》れは容易ならぬ訳《わ》けであるから、ソレを明《あきらか》にする為《た》めに、私は一切《いっさい》万事何も斯《か》も打明けて、一口に云《い》えば塾も住居《すまい》も殻明《からあ》きにして仕舞《しま》い、何処《どこ》を捜した所で鉄砲は勿論《もちろん》一挺《いっちょう》もなし、刃物《はもの》もなければ飛道具《とびどうぐ》もない、一目明白、直《すぐ》に分るようにしました。始終《しじゅう》爾《そ》う云《い》う身構えにして居るから、私の処には官軍方の人も颯々《さっさ》と来れば、賊軍の人も颯々と出入りして居て、私は官でも賊でも一切《いっさい》構わぬ、何方《どちら》に向ても依怙贔屓《えこひいき》なしに扱《あつかっ》て居るから、双方共に朋友でした。その時に斯《こ》う云う面白い事がありました。官軍が江戸に乗込んでマダ賊軍が上野に籠《こも》らぬ前に、市川辺に小競合《こぜりあい》がありました。爾うすると賊軍方の者が夜は其処《そこ》に行《いっ》て戦《たたかっ》て、昼は睡《ねむ》いからと云《いっ》て塾に来て寝て居た者があったが、根《ねっ》から構わない。私はその人の話を聞て、「君はソンナ事をして居るのか、危ない事だ、マア止《よし》にした方が宜《よ》かろうと云たくらいのことである。
古川節蔵脱走
夫《そ》れから古川節蔵《ふるかわせつぞう》は長崎丸と云う船の艦長であったが、榎本釜次郎《えのもとかまじろう》よりも先駈けして脱走すると云うので、私にその事を話した。所が節蔵は先年私が大阪から連れて来た男で、弟のようにして居たから、私はその話を聞て親切に止《と》めました。「ソリャ止《よ》すが宜《い》い、迚《とて》も叶わない、戦争すれば必ず負けるに違いない。東西ドチラが正しいとか正しくないとか云うような理非曲直は云わないが、何しろ斯う云う勢《いきおい》になったからは、モウ船に乗《のっ》て脱走したからとて勝てそうにもしないから、ソレは思い止《と》まるが宜《い》いと云た所が、節蔵はマダなか/\強気《つよき》で、「ナアに屹度《きっと》勝つ、是《こ》れから出掛けて行《いっ》て、諸方に出没して居る同志者をこの船に乗せて便利の地に挙《あ》げて、官軍が江戸の方に遣《やっ》て来るその裏を衡《つい》て、夫《そ》れから大阪湾に行《いっ》て掻廻《かきまわ》せば官軍が狼狽すると云《い》うような事になって、屹度《きっと》勝算はありますと云《いっ》て、中々私の云うことを聞かないから、「爾《そ》うか、ソレならば勝手にするが宜《い》い、乃公《おれ》はモウ負けても勝《かっ》ても知らないぞ。だが乃公《おれ》は足下《そくか》を助けようとは思わぬ。唯《ただ》可哀《かあい》そうなのはお政《まさ》さんだ(節蔵《せつぞう》氏の内君)、ソレ丈《だ》けは生きて居られるように世話をして遣《や》る、足下は何としても云《い》う事を聞かないから仕方がない、ドウでもしなさいと云て別れたことがあります。
発狂病人一条米国より帰来
もう一ヶ条。この時に仙台の書生で、以前この塾に居て夫《そ》れから亜米利加《アメリカ》に留学して居た一条《いちじょう》某と云うものがあって、ソレが亜米利加から帰《かえっ》て来た。所がこの男が発狂して居ると云う。ソレを船中で親切に看病して呉《く》れたと云うのは、矢張り一条と同時に塾に居た柳本直太郎《やぎもとなおたろう》、是《こ》れはこの間まで愛知県の書記官をして居たが、今では市長か何かになって居るそうだ。この柳本直太郎《やぎもとなおたろう》が親切に看病して、横浜に着船した。その時は丁度《ちょうど》仙台藩がいよ/\朝敵になったときで、江戸中で仙台人と見れば見付《みつけ》次第|捕縛《ほばく》と云《い》うことになって居る。ソコで横浜に来た所が、正《まさ》しく仙台人だ、捕縛しようかと云うに、紛《まが》う方なき発狂人だ、ドウにも手の着けようがない。その時に寺島(宗則)が横浜の奉行をして居て、発狂人は仕方がないから打遣《うちやっ》て置けと云うような事でその儘《まま》にしてあるその中に、病人は人を疑う病症を発して、飲食物に毒があると云《いっ》て一切《いっさい》受付けず、凡《およ》そ一週間余り何も飲食しない。飲食しないからその儘《まま》棄《す》てゝ置けば餓死する。ソコでいろ/\と和《なだ》めて勧めたけれども何としても喰わない。爾《そ》うすると、不意としたことで、その病人が福澤先生に遇《あ》いたいと云うことを云《いい》出した。福澤は江戸に居ましょう、ソコで横浜に置くなら宜いが江戸に連れて行くのはドウかと思て、御奉行(寺島)に伺た所が、御奉行様も福澤に行くと云うなら颯々《さっさ》と連れて行けと云うので、ソレから新銭座《しんせんざ》に連れて来た。ソレが面白い、来た所で先《ま》ず取敢《とりあ》えず久振りと云《いっ》て茶を出して、茶も飲め、序《ついで》に飯も喰えと勧めて、夫《そ》れから握飯を出して、私も喫《た》べるから君も一つ喫べなさい、ソレが喫べられなければ私の喫べ掛けを半分喫べなさい、毒はないじゃないかと云うようなことで試《こころ》みた所が、ソコで喰《くい》出した。喰《くっ》て見れば気狂いの事だから、今まで思《おもっ》て居たことは忘れて仕舞《しま》い、新銭座に来て安心したと見え、食気は回復して、ソレは宜いが、マダ/″\病人が何を遣《や》り出すか知れない、昼夜番が要《い》る。所が可笑《おか》しい。その時に薩州の者も居れば土州の者も居る、その官軍一味の者が居て、朝敵だから捕縛しようと云《い》う位な病人を扶《たす》けて看柄して居る。爾《そ》うすると仙台の者が忍んで来る。大槻《おおつき》の倅《せがれ》なども内々見舞に来て、官軍と賊軍と塾の中で混り合《あっ》て、朝敵藩の病人を看病して居ながら、何も風波《ふうは》もなければ苦味《にがみ》もない。ソンナ事が塾の安全であった訳《わ》けでしょう。真実平等区別なし、疑わんとするも疑うべき種《たね》がない。一方には脱走して賊軍に投ずるがあるかと思えば、一方にはチャンと塾に這入《はいっ》て居る官軍もあると云うような不思議な次第柄で、斯《こ》う云う事は造《つくっ》たのじゃ出来ぬ、装うても出来ぬ、私は腹の底から偏頗《へんぱ》な考がない、少しも幕府の事を感服しなければ、官軍の事をも感服しない、戦争するなら銘々《めいめい》勝手にしろと、裏も表もなくその趣意《しゅい》で貫いて居たから、私の身も塾も危《あやう》い所を無難《ぶなん》に過したことゝ思う。
新政府の御用召
夫《そ》れからいよ/\王政維新と定《き》まって、大阪に明治政府の仮政府が出来て、その仮政府から命令が下《くだっ》た。御用があるから出て来いと一番始めに沙汰《さた》のあったのが、神田孝平《かんだたかひら》と柳川春三《やながわしゅんさん》と私と三人。所が柳川春三はドウも大阪に行くのは嫌《いや》だ、だから命は奉ずるけれども御用があればドウゾ江戸に居て勤めたいと云《い》う注文。神田孝平は命に応じて行くと云う。私は一も二もなく病気で出られませぬと断り。その後大阪の仮政府は江戸に遷《うつっ》て来て、江戸の新政府から又|御用召《ごようめし》で度々《たびたび》呼びに来ましたけれども、始終《しじゅう》断る計《ばか》り。或時《あるとき》神田孝平が私の処へ是非《ぜひ》出ろと云《いっ》て勧めに来たから、私は之《これ》に答えて、「一体君は何《ど》う思うか、男子の出処進退は銘々《めいめい》の好む通りにするが宜《い》いではないか、世間一般そうありたいものではないか、之に異論はなかろう。ソコデ僕の目から見ると、君が新政府に出たのは君の平生《へいぜい》好む所を実行して居るのだから僕は甚《はなは》だ賛成するけれども、僕の身には夫れが嫌いだ、嫌いであるから出ないと云うものも是亦《これまた》自分の好む所を実行するのだから、君の出て居るのと同じ趣意《しゅい》ではないか。左《さ》れば今僕は君の進退を賛成して居るから、君も亦《また》僕の進退を賛成して、福澤は能《よ》く引込《ひっこ》んで居る、旨《うま》いと云《いっ》て誉めてこそ呉《く》れそうなものだ。夫れを誉めもせずに呼出しに来るとは友達|甲斐《がい》がないじゃないかと大《おおい》に論じて、親友の間であるから遠慮会釈もなく刎付《はねつ》けたことがある。
学者を誉めるなら豆腐屋も誉めろ
夫れから幾ら呼びに来ても政府へはモウ一切《いっさい》出ないと説を極《き》めて居た所が、或日《あるひ》細川潤次郎《ほそかわじゅんじろう》が私の処へ来たことがある。その時はマダ文部省と云《い》うものゝない時で、何でもこの政府の学校の世話をしろと云う。イヤそれは往《い》けない、自分は何もそんな事はしないと答え、夫《そ》れからいろ/\の話もあったが、細川の云うに、ドウしても政府に於《おい》て只《ただ》棄《す》てゝ置くと云う理屈はないのだから、政府から君が国家に尽《つく》した功労を誉めるようにしなければならぬと云うから、私は自分の説を主張して、誉めるの誉められぬのと全体ソリャ何の事だ、人間が人間|当前《あたりまえ》の仕事をして居るに何も不思議はない、車屋は車を挽《ひ》き豆腐屋は豆腐を拵《こしら》えて書生は書を読むと云うのは人間|当前《あたりまえ》の仕事として居るのだ、その仕事をして居るのを政府が誉めると云うなら、先《ま》ず隣の豆腐屋から誉めて貰《もら》わなければならぬ、ソンな事は一切《いっさい》止《よ》しなさいと云《いっ》て断《ことわっ》たことがある。是《こ》れも随分《ずいぶん》暴論である。
マア斯《こ》う云《い》うような調子で、私は酷《ひど》く政府を嫌うようにあるけれども、その真実の大本《たいほん》を云《い》えば、前に申した通りドウしても今度の明治政府は古風一天[#「天」に「〔点〕」の注記]張りの攘夷政府と思込《おもいこ》んで仕舞《しまっ》たからである。攘夷は私の何より嫌いな事で、コンな始末では仮令《たと》い政府は替《かわっ》ても迚《とて》も国は持てない、大切な日本国を滅茶苦茶にして仕舞《しま》うだろう本当に爾《そ》う思《おもっ》た所が、後に至《いたっ》てその政府が段々文明開化の道に進んで今日に及んだと云うのは、実に難有《ありがた》い目出《めで》たい次第であるが、その目出たかろうと云うことが私には始めから測量が出来ずに、唯《ただ》その時に現れた実の有様に値《ね》を付けて、コンな古臭い攘夷政府を造《つくっ》て馬鹿な事を働いて居る諸藩の分らず屋は、国を亡ぼし兼《か》ねぬ奴等《やつら》じゃと思《おもっ》て、身は政府に近づかずに、唯《ただ》日本に居て何か勉《つと》めて見ようと安心|決定《けつじょう》したことである。
英国王子に潔身の祓
私が明治政府を攘夷政府と思たのは、決して空《くう》に信じたのではない、自《おのず》から憂《うれ》うべき証拠がある。先《ま》ず爰《ここ》に一《いっ》奇談を申せば、王政維新となって明治元年であったか二年であったか歳《とし》は覚えませぬが、英吉利《イギリス》の王子が日本に来遊、東京城に参内《さんだい》することになり、表面は外国の貴賓を接待することであるから固《もと》より故障はなけれども、何分にも穢《けが》れた外国人を皇城に入れると云うのはドウも不本意だと云うような説が政府部内に行われたものと見えて、王子入城の時に二重橋の上で潔身《みそぎ》の祓《はらい》をして内に入れたことがある、と云うのは夷狄《いてき》の奴は不浄の者であるからお祓《はらい》をして体《たい》を清めて入れると云《い》う意味でしょう。所がソレが宜《い》い物笑いの種サ。その時に亜米利加《アメリカ》の代理公使にポルトメンと云う人が居まして、毎度ワシントン政府に自分の任所《にんしょ》の模様を報知して遣《や》る、けれども余り必要でない事は大統領がその報告書を見ない、此方《こっち》では又ソレを見て貰《もら》うのが公使の名誉としてある。ソコで公使が今度英の王子入城に付き潔身《みそぎ》の祓|云々《うんぬん》の事を探り出して大《おおい》に悦《よろこ》び、是《こ》れは締《し》めた、この大奇談を報告すれば大統領が見て呉《く》れるに違《ちが》いないと云うので、その表書《うわがき》に即《すなわ》ちエッヂンボルフ王子の清《きよ》めと云う可笑しな不思議な文字を書《かい》て、中の文句はドウかと云うに、この日本は真実、自尊自大の一小鎖国にして、外国人をば畜生同様に取扱うの常なり、既《すで》にこの程|英吉利《イギリス》の王子入城謁見のとき、城門外に於《おい》て潔身の祓を王子の身辺に施したり、抑《そ》も潔身の祓とは上古|穢《けが》れたる者を清めるに灌水法を行いしが、中世、紙の発明以来紙を以《もっ》て御幣なるものを作り、その御幣を以て人の身体を撫《な》で、水の代用として一切《いっさい》の不浄不潔を払うの故実あり、故に今度英の王子に施したるはその例に由《よ》ることにして、日本人の眼《まなこ》を以て見れば王子も亦《また》唯《ただ》不浄の畜生たるに過ぎず云々《うんぬん》とて、筆を巧《たくみ》に事細かに書《かい》て遣《やっ》たことがある。ソレは私が尺振八《せきしんぱち》から詳《つまびらか》に聞きました。この尺振八と云《い》う人はその時、亜米利加《アメリカ》公使館の通弁をして居たので、尺が私の処に来てこの間《あいだ》是《こ》れ/\の話、大笑いではないかと云《いっ》て、その事実もその書面の文句も私に親しく話して聞かせましたが、実に苦々しい事で、私は之《これ》を聞《きい》て笑い所ではない泣きたく思いました。
米国前の国務卿又日本を評す
又その頃、亜米利加の前国務卿シーワルトと云う人が、令嬢と同伴して日本に来遊したことがある。この人は米国有名の政治家で、彼《か》の南北戦争のとき専《もっぱ》ら事に当《あたっ》て、リンコルンの遭難と同時に兇徒に傷《きずつ》けられたこともある。元来《がんらい》英国人とは反りが合わずに、云《い》わば日本|贔屓《びいき》の人でありながら、今度来遊、その日本の実際を見て何分にも贔屓が出来ぬ、こんな根性の人民では気の毒ながら自立は六《むず》かしいと断言したこともある。ソコデ私の見る所で、新政府人の挙動は都《すべ》て儒教の糟粕《そうはく》を嘗《な》め、古学の固陋《ころう》主義より割出して空威張《からいば》りするのみ。顧《かえり》みて外国人の評論を聞けば右の通り。迚《とて》も是《こ》れは仕方がないと真実落胆したれども、左《さ》りとて自分は日本人なり、無為にしては居られず、政治は兎《と》も角《かく》も之《これ》を成行に任せて、自分は自分にて聊《いささ》か身に覚えたる洋学を後進生に教え、又根気のあらん限り著書|飜訳《ほんやく》の事を勉《つと》めて、万が一にも斯《この》民《たみ》を文明に導くの僥倖《ぎょうこう》もあらんかと、便り少なくも独り身構えした事である。
子供の行末を思う
その時の私の心事は実に淋しい有様《ありさま》で、人に話したことはないが今打明けて懺悔《ざんげ》しましょう。維新前後、無茶苦茶の形勢を見て、迚《とて》もこの有様では国の独立は六《むず》かしい、他年一日外国人から如何《いか》なる侮辱《ぶじょく》を被《こうむ》るかも知れぬ、左ればとて今日全国中の東西南北|何《いず》れを見ても共に語るべき人はない、自分一人では勿論《もちろん》何事も出来ず亦《また》その勇気もない、実に情ない事であるが、いよ/\外人が手を出して跋扈《ばっこ》乱暴と云うときには、自分は何とかしてその禍《わざわい》を避けるとするも、行《ゆ》く先《さ》きの永い子供は可愛《かあい》そうだ、一命に掛けても外国人の奴隷にはしたくない、或《あるい》は耶蘇宗《やそしゅう》の坊主にして政事人事の外に独立させては如何《いかん》、自力自食して他人の厄介にならず、その身は宗教の坊主と云えば自《おのず》から辱《はずか》しめを免《まぬ》かるゝこともあらんかと、自分に宗教の信心《しんじん》はなくして、子を思うの心より坊主にしようなどゝ種々《しゅじゅ》無量に考えたことがあるが、三十年の今日より回想すれば恍として夢の如《ごと》し、唯《ただ》今日は世運の文明開化を難有《ありがた》く拝するばかりです。
授業料の濫觴
扨《さて》鉄砲洲《てっぽうず》の塾を芝《しば》の新銭座《しんせんざ》に移したのは明治元年|即《すなわ》ち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取《とっ》て慶應義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第に盛《さかん》になる。塾が盛になって生徒が多くなれば塾舎の取締も必要になるからして、塾則のようなものを書《かい》て、是《こ》れも写本は手間が取れると云《い》うので版本にして、一冊ずつ生徒に渡し、ソレには色々箇条のある中に、生徒から毎月金を取ると云うことも慶應義塾が創《はじ》めた新案である。従前、日本の私塾では支那風を真似たのか、生徒入学の時には束脩《そくしゅう》を納めて、教授する人を先生と仰《あお》ぎ奉《たてまつ》り、入学の後も盆暮《ぼんくれ》両度ぐらいに生徒|銘々《めいめい》の分に応じて金子《きんす》なり品物なり熨斗《のし》を附けて先生|家《か》に進上する習わしでありしが、私共の考えに、迚《とて》もこんな事では活溌《かっぱつ》に働く者はない、教授も矢張《やは》り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構うことはないから公然|価《あたい》を極《き》めて取るが宜《よ》いと云うので、授業料と云う名を作《つくっ》て、生徒一人から毎月|金《きん》二分《にぶ》ずつ取立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。その時塾に眠食する先進長者は、月に金四両あれば喰うことが出来たので、ソコで毎月生徒の持《もっ》て来た授業料を掻《か》き集めて、教師の頭に四両ずつ行《いき》渡れば死《しに》はせぬと大本《だいほん》を定《さだ》めて、その上に尚《な》お余りがあれば塾舎の入用にすることにして居ました。今では授業料なんぞは普通|当然《とうぜん》のようにあるが、ソレを始めて行うた時は実に天下の耳目を驚かしました。生徒に向《むかっ》て金二分持て来い、水引《みずひき》も要らなければ熨斗《のし》も要らない、一両|持《もっ》て来れば釣《つり》を遣《や》るぞと云《い》うように触込《ふれこ》んでも、ソレでもちゃんと水引を掛けて持て来るものもある。スルとこんな物があると札《さつ》を検《あらた》める邪魔になると云《いっ》て、態《わざ》と上包を還《かえ》して遣るなどは随分《ずいぶん》殺風景なことで、世間の人の驚いたのも無理はないが、今日それが日本国中の風俗習慣になって、何ともなくなったのは面白い。何事に由《よ》らず新工風《しんくふう》を運《めぐ》らして之《これ》を実地に行うと云うのは、その事の大小を問わず余程の無鉄砲でなければ出来たことではない。左《さ》る代りに夫《そ》れが首尾|能《よ》く参《まいっ》て、何時《いつ》の間にか世間一般の風《ふう》になれば、私の為《た》めには恰《あたか》も心願成就で、こんな愉快なことはありません。
上野の戦争
新銭座《しんせんざ》の塾は幸に兵火の為《た》めに焼けもせず、教場もどうやらこうやら整理したが、世間は中々|喧《やかま》しい。明治元年の五月、上野に大《おお》戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席《よせ》も見世物も料理茶屋も皆休んで仕舞《しまっ》て、八百八町は真の闇、何が何やら分らない程の混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業を罷《や》めない。上野ではどん/″\鉄砲を打《うっ》て居る、けれども上野と新銭座とは二里も離れて居て、鉄砲玉の飛《とん》で来る気遣《きづかい》はないと云うので、丁度あの時私は英書で経済《エコノミー》の講釈をして居ました。大分|騒々敷《そうぞうし》い容子《ようす》だが烟《けぶり》でも見えるかと云うので、生徒|等《ら》は面白がって梯子《はしご》に登《のぼっ》て屋根の上から見物する。何でも昼から暮《くれ》過ぎまでの戦争でしたが、此方《こちら》に関係がなければ怖い事もない。
日本国中唯慶應義塾のみ
此方《こっち》がこの通りに落付払《おちつきはらっ》て居れば、世の中は広いもので又妙なもので、兵馬騒乱の中にも西洋の事を知りたいと云《い》う気風は何処《どこ》かに流行して、上野の騒動が済《す》むと奥州の戦争と為《な》り、その最中にも生徒は続々入学して来て、塾はます/\盛《さかん》になりました。顧《かえり》みて世間を見れば、徳川の学校は勿論潰れて仕舞い、その教師さえも行衛《ゆくえ》が分らぬ位、況《ま》して維新政府は学校どころの場合でない、日本国中|苟《いやしく》も書を読《よん》で居る処は唯《ただ》慶應義塾ばかりと云う有様《ありさま》で、その時に私が塾の者に語《かたっ》たことがある。昔し/\拿破翁《ナポレオン》の乱に和蘭《オランダ》国の運命は断絶して、本国は申すに及ばず印度《インド》地方まで悉《ことごと》く取られて仕舞《しまっ》て、国旗を挙《あ》げる場所がなくなった。所が、世界中|纔《わずか》に一箇処を遺《のこ》した。ソレは即《すなわ》ち日本長崎の出島である。出島は年来和蘭人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭《ひゃくしゃくかんとう》に飜々《へんぺん》して和蘭王国は曾《かつ》て滅亡したることなしと、今でも和蘭人が誇《ほこっ》て居る。シテ見るとこの慶應義塾は日本の洋学の為《た》めには和蘭の出島と同様、世の中に如何《いか》なる騒動があっても変乱があっても未《いま》だ曾《かつ》て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶應義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着《とんじゃく》するなと申して、大勢の少年を励ましたことがあります。
塾の始末に困る、楽書無用
夫《そ》れはそれとして又《また》一方から見れば、塾生の始末には誠に骨が折れました。戦争後意外に人の数は増したが、その人はどんな種類の者かと云《い》うに、去年から出陣してさん/″\奥州地方で戦《たたかっ》て漸《ようや》く除隊になって、国には帰らずに鉄砲を棄《す》てゝその儘《まま》塾に来たと云《い》うような少年生が中々多い。中にも土佐の若武者などは長い朱鞘《しゅざや》の大小を挟《さ》して、鉄砲こそ持たないが今にも斬《きっ》て掛《かか》ろうと云うような恐ろしい顔色《がんしょく》をして居る。爾《そ》うかと思うとその若武者が紅《あか》い女の着物を着て居る。是《こ》れはドウしたのかと云うと、会津《あいづ》で分捕りした着物だと云《いっ》て威張《いばっ》て居る。実に血腥《ちなまぐさ》い怖い人物で、一見|先《ま》ず手の着けようがない。ソコデ私は前申す通り新銭座の塾を立てると同時に極《きわ》めて簡単な塾則を拵《こしら》えて、塾中金の貸借《かしかり》は一切《いっさい》相成らぬ、寝るときは寝て、起るときは起き、喰《く》うときには定《さだ》めの時間に食堂に出る、夫《そ》れから楽書《らくがき》一切《いっさい》相成らぬ、壁や障子に楽書を禁ずるは勿論《もちろん》、自分所有の行灯《あんどう》にも机にも一切の品物に楽書は相成《あいな》らぬと云《い》うくらいの箇条で、既《すで》に規則を極《き》めた以上はソレを実行しなくてはならぬ。ソコで障子に楽書してあれば私は小刀を以《もっ》て其処《そこ》だけ切破《きりやぶっ》て、この部屋に居る者が元の通りに張れと申付《もうしつ》ける。夫れから行灯に書《かい》てあれば、誰の行灯でも構わぬ、その持主を咎《とが》めると、時としてはその者が、「是《こ》れは自分でない、人の書《かい》たのですと云《いっ》ても私は許さぬ。人が書たと云うのは云訳《いいわ》けにならぬ、自分の行灯に楽書されてソレを見て居ると云うのは馬鹿だ、馬鹿の罰に早々張替えるが宜《よろ》しい、楽書した行灯は塾に置かぬ、破るからアトを張《はっ》て置きなさいと云うようにして、寸毫《すんごう》も仮《か》さない。如何《いか》に血腥《ちなまぐさ》い若武者が何と云《い》おうとも、そんな事を恐れて居られない。ミシ/\遣付《やっつ》けて遣《や》る。名は忘れたが、不図《ふと》見た所が桐の枕に如何《いかが》な楽書がしてある。「コリャ何だ。銘々《めいめい》の私有品でも楽書は一切相成らぬと云《いっ》たではないか、ドウ云う訳けだ、一句の返答も出来なかろう。この枕は私は削りたいけれども削ることが出来ない、打毀《ぶちこ》わすから代りを取《とっ》て来なさいと云て、その枕を取上げて足で踏潰《ふみつぶ》して、サアどうでもしろ、攫《つか》み掛《かかっ》て来るなら相手になろうと云《い》わぬばかりの思惑を示した所で、決して掛らぬ。全体私は骨格《からだ》は少し大きいが、本当は柔術も何も知らない、生れてから人を打《うっ》たこともない男だけれども、その権幕はドウも撃ちそうな攫《つか》み掛りそうな気色《けしき》で、口の法螺《ほら》でなくして身体《からだ》の法螺で吹《ふき》倒した。所が皆小さくなって言うことを聞くようになって来て、ソレでマア戦争帰りの血|腥《なまぐさ》い奴も自《おのず》から静になって塾の治まりが付き、その中には真成《ほんとう》な大人《おとな》しい学者風の少年も多く、至極《しごく》勉強してます/\塾風を高尚にして、明治四年まで新銭座《しんせんざ》に居ました。
始めて文部省
維新の騒乱も程なく治まって天下太平に向《むい》て来たが、新政府はマダマダ跡の片付《かたづけ》が容易な事でなくして、明治五、六年までは教育に手を着けることが出来ないで、専《もっぱ》ら洋学を教えるは矢張り慶應義塾ばかりであった。何でも廃藩置県の後に至るまでは、慶應義塾ばかりが洋学を専らにして、ソレから文部省と云《い》うものが出来て、政府も大層《たいそう》教育に力を用うることになって来た。義塾は相変らず元の通りに生徒を教えて居て、生徒の数も段々|殖《ふ》えて、塾生の数は常に二百から三百ばかり、教うる所の事は一切《いっさい》英学と定《さだ》め、英書を読み英語を解するようにとばかり教導して、古来日本に行われる漢学には重きを置かぬと云う風《ふう》にしたから、その時の生徒の中には漢書を読むことの出来ぬ者が随分《ずいぶん》あります。漢書を読まずに英語ばかりを勉強するから、英書は何でも読めるが日本の手紙が読めないと云うような少年が出来て来た。物事がアベコベになって、世間では漢書を読《よん》でから英書を学ぶと云《い》うのを、此方《こちら》には英書を学んでから漢書を学ぶと云う者もあった。波多野承五郎《はたのしょうごろう》などは小供の時から英書ばかり勉強して居たので、日本の手紙が読めなかったが、生れ付き文才があり気力のある少年だから、英学の跡《あと》で漢書を学べば造作もなく漢学が出来て、今では彼《あ》の通り何でも不自由なく立派な学者に成《なっ》て居ます。
教育の方針は数理と独立
畢竟《ひっきょう》私がこの日本に洋学を盛《さかん》にして、如何《どう》でもして西洋流の文明富強国にしたいと云う熱心で、その趣は慶應義塾を西洋文明の案内者にして、恰《あたか》も東道の主人と為《な》り、西洋流の一手販売、特別エゼントとでも云うような役を勤めて、外国人に頼まれもせぬ事を遣《やっ》て居たから、古風な頑固な日本人に嫌われたのも無理はない。元来《がんらい》私の教育主義は自然の原則に重きを置《おい》て、数と理とこの二つのものを本《もと》にして、人間万事有形の経営は都《すべ》てソレから割出して行きたい。又一方の道徳論に於《おい》ては、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊|自重《じちょう》苟《いやしく》も卑劣な事は出来ない、不品行な事は出来ない、不仁不義、不忠不孝ソンな浅ましい事は誰《たれ》に頼まれても、何事に切迫しても出来ないと、一身を高尚|至極《しごく》にし所謂《いわゆる》独立の点に安心するようにしたいものだと、先《ま》ず土台を定めて、一心不乱に唯《ただ》この主義にのみ心を用いたと云うその訳《わ》けは、古来東洋西洋|相対《あいたい》してその進歩の前後遅速を見れば、実に大造《たいそう》な相違である。双方共々に道徳の教《おしえ》もあり、経済の議論もあり、文に武におの/\長所短所ありながら、扨《さて》国勢の大体より見れば富国強兵、最大多数、最大幸福の一段《いつだん》に至れば、東洋国は西洋国の下に居らればならぬ。国勢の如何《いかん》は果して国民の教育より来《く》るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコで東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形に於《おい》て数理学と、無形に於て独立心と、この二点である。彼《か》の政治家が国事を料理するも、実業家が商売工業を働くも、国民が報国の念に富み、家族が団欒《だんらん》の情に濃《こまやか》なるも、その大本《たいほん》を尋《たずね》れば自《おのず》から由来する所が分る。近く論ずれば今の所謂《いわゆる》立国の有らん限り、遠く思えば人類のあらん限り、人間万事、数理の外《ほか》に逸《いっ》することは叶わず、独立の外に依《よ》る所なしと云《い》うべきこの大切なる一義を、我日本国に於ては軽《かろ》く視《み》て居る。是《こ》れでは差向き国を開《ひらい》て西洋諸強国と肩を並べることは出来そうにもしない。全く漢学教育の罪であると深く自《みず》から信じて、資本もない不完全な私塾に専門科を設けるなどは迚《とて》も及ばぬ事ながら、出来る限りは数理を本《もと》にして教育の方針を定め、一方には独立論の主義を唱えて、朝夕《ちょうせき》一寸《ちょっと》した話の端《はし》にもその必要を語り、或《あるい》は演説に説《と》き或《あるい》は筆記に記しなどしてその方針に導き、又自分にも様々|工風《くふう》して躬行実践《きゅうこうじっせん》を勉《つと》め、ます/\漢学が不信仰になりました。今日にても本塾の旧生徒が社会の実地に乗出して、その身分職業の如何《いかん》に拘《かかわ》らず物の数理に迂闊《うかつ》ならず、気品高尚にして能《よ》く独立の趣意《しゅい》を全うする者ありと聞けば、是《こ》れが老余の一大楽事です。
右の通り私は唯《ただ》漢学が不信仰で、漢学に重きを置かぬ計《ばか》りでない、一歩を進めて所謂《いわゆる》腐儒の腐説を一掃して遣《や》ろうと若い時から心掛けました。ソコで尋常一様の洋学者や通詞《つうじ》など云《い》うような者が漢学者の事を悪く云うのは普通の話で、余り毒にもならぬ。所が私は随分《ずいぶん》漢書を読《よん》で居る。読で居ながら知らない風《ふう》をして毒々|敷《し》い事を言うから憎まれずには居られない。他人に対しては真実素人のような風をして居るけれども、漢学者の使う故事などは大抵|知《しっ》て居る、と云うのは前にも申した通り、少年の時から六《むず》かしい経史をやかましい先生に授けられて本当に勉強しました。左国史漢は勿論《もちろん》、詩経、書経のような経義《けいぎ》でも、又は老子荘子のような妙な面白いものでも、先生の講義を聞き又自分に研究しました。是れは豊前《ぶぜん》中津《なかつ》の大儒|白石《しらいし》先生の賜《たまもの》である。どの経史の義を知《しっ》て、知らぬ風《ふう》をして折々漢学の急処のような所を押えて、話にも書《かい》たものにも無遠慮に攻撃するから、是《こ》れぞ所謂《いわゆる》獅子|身中《しんちゅう》の虫で、漢学の為《た》めには私は実に悪い外道《げどう》である。斯《か》くまでに私が漢学を敵にしたのは、今の開国の時節に、陳《ふる》く腐れた漢説が後進少年生の脳中に蟠《わだか》まっては、迚《とて》も西洋の文明は国に入ることが出来ないと飽《あ》くまでも信じて疑わず、如何《いか》にもして彼等を救出《すくいだ》して我が信ずる所に導かんと、有らん限りの力を尽《つく》し、私の真面目《しんめんもく》を申せば、日本国中の漢学者は皆来い、乃公《おれ》が一人で相手になろうと云うような決心であった。ソコで政府を始め世間一般の有様を見れば、文明の教育|稍々《やや》普《あま》ねしと雖《いえど》も、中年以上の重《おも》なる人は迚も洋学の佳境に這入《はい》ることは出来ず、何《なん》か事を謀《はか》り事を断ずる時には余儀《よぎ》なく漢書を便《たより》にして、万事ソレから割出すと云う風潮の中に居て、その大切な霊妙不思議な漢学の大主義を頭から見下して敵にして居るから、私の身の為めには随分《ずいぶん》危ない事である。
著書飜訳一切独立
又《また》維新前後は私が著書|飜訳《ほんやく》を勉《つと》めた時代で、その著訳書の由来は福澤全集の緒言《ちょげん》に記してあるから之《これ》を略しますが、元来《がんらい》私の著訳は真実私一人の発意《ほつい》で、他人の差図も受けねば他人に相談もせず、自分の思う通りに執筆して、時の漢学者は無論、朋友たる洋学者へ草稿を見せたこともなければ、況《ま》して序文題字など頼んだこともない。是《こ》れも余り殺風景で、実は当時の故老先生とか云《い》う人に序文でも書かせた方が宜《よ》かったか知れないが、私は夫《そ》れが嫌いだ。ソンな事かた/″\で、私の著訳書は事実の如何《いかん》に拘《かか》わらず古風な人の気に入る筈《はず》はない。ソレでもその書が殊更《ことさ》らに大《おおい》に流行したのは、文明開国の勢《いきおい》に乗じたことでありましょう。
義塾三田に移る
慶應義塾が芝《しば》の新銭座《しんせんざ》を去て三田の只《ただ》今の処に移《うつっ》たのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月私が酷《ひど》い熱病に罹《かか》り、病後神経が過敏になった所為《せい》か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。又《また》事実湿地でもあるから何処《どこ》かに引移りたいと思い、飯倉《いいくら》の方に相当の売家《うりや》を捜出《さがしだ》して略《ほぼ》相談を極《き》めようとするときに、塾の人の申すに、福澤が塾を棄《す》てゝ他に移るなら塾も一緒に移ろうと云う説が起《おこっ》て、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように方々《ほうぼう》の明屋敷《あきやしき》を捜して廻《ま》わり、彼処《そこ》でもない此処《ここ》でもないと勝手次第に宜《よ》さそうな地所《じしょ》を見立てゝ、いよ/\芝の三田《みた》にある島原《しまばら》藩の中屋敷が高燥《こうそう》の地で海浜《かいひん》の眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、此方《こっち》の説が決した計《ばか》りで、その屋敷は他人の屋敷であるから、之《これ》を手に入れるには東京府に頼み、政府から島原《しまばら》藩に上地《じょうち》を命じて、改めて福澤に貸渡すと云《い》う趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るように拵《こしら》えねばならぬと云うので、時の東京府知事に頼込《たのみこ》むは勿論《もちろん》、私の平生《へいぜい》知《しっ》て居る佐野常民《さのつねたみ》その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生|※[#「特のへん+怱」、U+3E45、263-4]掛《そうがか》りにて運動する中に、或日《あるひ》私は岩倉《いわくら》公の家に参り、初めて推参なれども御目《おめ》に掛りたいと申込んで公に面会、色々塾の事情を話して、詰《つま》り島原藩の屋敷を拝借したいと云《い》う事を内願して、是《こ》れも快く引受けて呉《く》れる。何処《どこ》も此処《ここ》も至極《しごく》都合の好《よ》い折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たと云うは、当時東京の取締には邏卒《らそつ》とか何とか云う名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲を担《かつ》いで市中を巡廻《じゅんかい》して居るその有様《ありさま》の殺風景とも何とも、丸で戦地のように見える。政府も之《これ》を宜《よ》くないことゝ思い、西洋風にポリスの仕組《しくみ》に改革しようと心付きはしたが、扨《さて》そのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でも宜《よろ》しい、取調べて呉《く》れぬかと、役人が私方に来て懇々内談するその様子は、この取調《とりしらべ》さえ出来れば何か礼をすると云《い》うように見えるから、此方《こっち》は得たり賢し、お易《やす》い御用で御座《ござ》る、早速《さっそく》取調べて上げましょうが、私の方からも願《ねがい》の筋《すじ》がある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田《みた》の島原《しまばら》の屋敷地を拝借いたしたい、是《こ》れ丈《だ》けは厚く御含《おふくみ》を願うと云うは、巡査法の取調と屋敷地の拝借と交易にしようと云うような塩梅《あんばい》に持掛《もちか》けて、役人も否《いな》と云わずに黙諾《もくだく》して帰る。ソレから私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を飜訳《ほんやく》し、綴《つづ》り合せて一冊に認《したた》め早々清書して差出した所が、東京府ではこの飜訳を種《たね》にして尚《な》お市中の実際を斟酌《しんしゃく》し様々に工風《くふう》して、断然|彼《か》の兵士の巡廻《じゅんかい》を廃し、改めて巡邏《じゅんら》と云《い》うものを組織し、後に之《これ》を巡査と改名して東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。ソコで東京府も私に対して自《おのず》から義理が出来たような訳《わ》けで、屋敷地の一条もスラ/\行われて、島原の屋敷を上地させて福澤に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にて所謂《いわゆる》大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよ/\塾を移したのが明治四年の春でした。
敬礼を止める
引越《ひきこ》して見れば誠に広々とした屋敷で申分《もうしぶん》なし。御殿を教場にし、長局《ながつぼね》を書生部屋にして、尚《な》お足らぬ処は諸方諸屋敷の古長屋を安く買取《かいとっ》て寄宿舎を作りなどして、俄《にわか》に大きな学塾に為ると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙を以《もっ》て慶應義塾の面目を新《あらた》にしました。序《ついで》ながら一《いっ》奇談を語りましょう。新銭座《しんせんざ》入塾から三田《みた》に引越《ひっこ》し、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大な事も新旧|較《くら》べものにならぬ。新塾の教場|即《すなわ》ち御殿の廊下などは九尺巾《きゅうしゃくはば》もある。私は毎日塾中を見廻り、日曜は殊《こと》に掃除日と定めて書生部屋の隅まで一々|検《あらた》め、大小便所の内まで私が自分で戸を明《あ》けて細《こまか》に見ると云《い》うようにして居たから、一日に幾度《いくた》び廊下を通《とおっ》て幾人の書生に逢うか知れない。所がその行逢《ゆきあ》う毎《ごと》に、新入生などは勝手を知らずに、私の顔を見ると丁寧に辞儀《じぎ》をする。先方《さき》から丁寧に遣《や》れば、此方《こっち》も之《これ》に応じて辞儀をしなければならぬ。忙しい中にウルサクて堪《た》まらぬ。ソレから先進の教師連に尋ねて、「廊下で書生のお辞儀《じぎ》に困りはせぬか、双方の手間潰《てまつぶし》だがと云《い》うと、何《いず》れも同様、塾が広くなって家の内の御辞儀には閉口と云うから、「よし来た、乃公《おれ》が広告を掲示して遣《や》ると云《いっ》て、
塾中の生徒は長者に対するのみならず相互《あいたがい》の間にも粗暴無礼は固《もと》より禁ずる所なれども、講堂の廊下その他塾舎の内外往来|頻繁《ひんぱん》の場所にては、仮令《たと》い教師先進者に行逢《ゆきあ》うとも丁寧に辞儀するは無用の沙汰《さた》なり、互《たがい》に相見て互に目礼を以《もっ》て足るべし。益《えき》もなき虚飾に時を費すは学生の本色に非《あら》ず。この段心得の為《た》めに掲示す。
と張紙《はりがみ》して、生徒のお辞儀を止《と》めた事がある。長者に対して辞儀をするなと云えば、横風《おうふう》になれ、礼儀を忘れよと云うように聞えて、奇なように思われるが、その時の事情は決して爾《そ》うでない。百千年来圧制の下に養われて官民共に一般の習慣を成したるこの国民の気風を活溌《かっぱつ》に導かんとするには、お辞儀の廃止も自《おのず》から一時の方便で、その功能は慥《たしか》に見えました。今でも塾にはコンな風が遺《のこっ》て、生徒取扱いの法は塾の規則に従い、不法の者があれば会釈なくミシ/\遣付《やりつ》けて寸毫《すんごう》も仮《か》さず、生徒に不平があれば皆出て行け、此方《こっち》は何ともないと、チャンと説を極《き》めて思う様に制御して居《お》れども、教師その他に対して入らざる事に敬礼なんかんと云うような田舎らしい事は塾の習慣に於《おい》て許さない。左《さ》ればとて本塾の生徒に限《かぎっ》て粗暴な者が多いでもなし、一方から見て幾分かその気品の高尚にして男らしいのは、虚礼虚飾を脱したその功徳《くどく》であろうと思われる。
地所払下
三田《みた》の屋敷は福澤諭吉の拝借地になって、地租もなければ借地料もなし恰《あたか》も私有地のようではあるが、何分にも拝借と云《い》えば何時《いつ》立退《たちのき》を命じられるかも知れず、東京市中を見れば私同様官地を拝借して居る者は甚《はなは》だ多い、孰《いず》れも不安心に違《ちが》いないと推察が出来る。如何《どう》かして之《これ》を御払下《おはらいさげ》にして貰いたいと様々思案の折柄、当時政府に左院と称して議政局のようなものが立《たっ》て居て、その左院の議員中に懇意《こんい》の人があるからその人に面会、何か話の序《ついで》には拝借地の有名無実なるを説《と》き、等しく官地を使用せしむるならば之を私有地にして銘々《めいめい》に地所保存の謀《はかりごと》を為《な》さしむるに若《し》かずと、頻《しき》りに利害を論じてその人の建言を促したるは毎度の事で、その他政府の筋の人にさえ逢えば同様の事を語るの常なりしが、明治四年の頃、それかあらぬか、政府は市中の拝借地をその借地人|又《また》は縁故ある者に払下げるとの風聞《ふうぶん》が聞える。是《こ》れは妙なりと大《おおい》に喜び、その時東京府の課長に福田と云う人が専《もっぱ》ら地所の事を取扱うと云う事を聞伝《ききつた》え、早速福田の私宅を尋ねて委細の事実を確かめ、いよ/\発令の時には知らして呉《く》れることに約束して、帰宅して日々便りを待《まっ》て居ると、数日の後に至り、今日発令したと報知が来たから、暫時《しばし》も猶予《ゆうよ》は出来ず、翌朝東京府に代理の者を差出し御払下《おはらいさげ》を願うて、代金を上納せんと金を出した処が、府庁にも昨日発令した計《ばか》りで出願者は一人もなし、マダ帳簿も出来ず、上納金請取の書式も出来ずと云《い》うから、その正式の請取は後日の事として今日は唯《ただ》金子《きんす》丈《だ》けの御収納を願うと云《いっ》て、強《し》いて金を渡して仮《か》り御払下の姿を成し、その後、地所代価収領の本証書も下《くだ》りて、いよ/\私の私有地と為《な》り、地券面《ちけんめん》本邸の外に附属の町地面を合して一万三千何百坪、本邸の方は千坪に付き価《あたい》十五円、町地《まちぢ》の方は割合に高く、両様共算して五百何十円とは、殆《ほと》んど無代価と申して宜《よろ》しい。その代価の事は兎《と》も角《かく》もとして、斯《か》く私が事を性急にしたのは、この屋敷に久しく住居《じゅうきょ》すればするほどいよ/\ます/\宜《い》い屋敷になって来て、実に東京第一、他に匹敵するものはないと自《みず》から感心して、塾員と共に満足すると同時に、之《これ》を私有地にすると云《い》えば何か故障の起りそうな事だと、俗に云う虫が知らせるような塩梅《あんばい》で、何だか気になるから無暗に急いで埓《らち》を明けた所が、果して然《しか》り、東京の諸屋敷地を払下げると云う風聞が段々世間に知れ渡《わたっ》たその時に、島原藩士何某が私方に遣《やっ》て来て、当屋敷は由緒ある拝領屋敷なるゆえ、主人島原藩主より御払下を願う、此方《こっち》へ御譲渡《ごじょうと》し下されいと捩込《ねじこ》んで来たから、私は一切《いっさい》知らず、この地所のむかしが誰《たれ》のものでありしや夫《そ》れさえ心得て居ない、兎《と》に角《かく》に私は東京府から御払の地所を買請《かいう》けたまでの事なれば、府の命に服従するのみ、何か思召《おぼしめし》もあらば府庁へ御談《おだん》じ然《しか》るべしと刎《はね》付ける。スルと先方も中々|渋《しぶ》とい。再三再四|遣《やっ》て来て、とう/\仕舞《しまい》には屋敷を半折して半分ずつ持とうと云《い》うから、是《こ》れも不承知。地所の事は島原《しまばら》藩と福澤と直談《じきだん》すべき性質のものでないから御返答は致さぬ、一切《いっさい》万事君|夫《そ》れ之《こ》[#ルビの「こ」はママ]を東京府に聞けと云《い》う調子に構えて居て、六《むず》かしい談判も立消になったのは難有《ありがた》い。今日になって見れば、東京中を尋ね廻《まわっ》ても慶應義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一箇所もない。正味一万四千坪、土地は高燥《こうそう》にして平面、海に面して前に遮《さえぎ》るものなし、空気清く眺望|佳《か》なり、義塾唯一の資産にして、今これを売ろうとしたらば、むかし御払下《おはらいさげ》の原価五百何十円は、百倍でない千倍になりましょう。義塾の慾張《よくば》り、時節を待《まっ》て千倍にも二千倍にもして遣《や》ろうと、若い塾員達はリキンで居ます。
教員金の多少を争う
右の通り三田《みた》の新塾は万事都合|能《よ》く行われて、塾の資本金こそ皆無なれ、生徒から毎月の授業料を取集めて之《これ》を教師に分配して、如何《どう》やら斯《こ》うやら立行くその中にも、教師は皆本塾の先進生であるから、この塾に居て余計な金を取ろうと云う考《かんがえ》はない。第一私が一銭でも塾の金を取らぬのみか、普請《ふしん》の時などには毎度|此方《こっち》から金を出して遣《や》る。教師達もその通りで、外に出れば随分《ずいぶん》給料の取れるのを取らずに塾の事を勤めるから、是《こ》れも私金を出すと同じ事である。凡《およ》そコンナ風で無資金の塾も維持が出来たが、その時の真面目《しんめんもく》を申せば、月末などに金を分配するとき、動《やや》もすれば教師の間に議論が起るその議論は即《すなわ》ち金の多少を争う議論で、僕はコンなに多く取る訳《わ》けはない、君の方が少ないと云《い》うと、「イヤ爾《そ》うでない、僕は是《こ》れで沢山だ、イヤ多い、少ないと、喧嘩のように云《いっ》てるから、私は側《そば》から見て、「ソリゃ又始まった、大概にして置きなさい、ドウせ足りない金だから宜《い》い加減にして分けて仕舞《しま》え、争う程の事でもないと毎度|笑《わらっ》て居ました。この通りで慶應義塾の成立《なりたち》は、教師の人々がこの塾を自分のものと思うて勉強したからの事です。決して私一人の力に叶う事ではない。人間万事余り世話をせずに放任主義の方が宜いかと思われます。その後時勢も次第に進歩するに従い、塾の維持金を集め、又《また》大学部の為《た》めにも募《つの》り、近来は又重ねて募集金を始めましたが、是れも私は余り深く関係せず、一切《いっさい》の事を塾出身の若い人に任せて居ます。
底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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