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ダイガクコトハジメ - 青空文庫『学校』 - 『福翁自伝 - 雑記』福沢諭吉

参考文献・書籍

初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号

関連:慶應義塾適塾福沢諭吉緒方洪庵長与専斎箕作秋坪

雑記

暗殺の患は政治家の方に廻わる

 

 凡《およ》そ私共の暗殺を恐れたのは、前に申す通り文久二、三年から明治六、七年頃までのことでしたが、世間の風潮は妙なもので、新政府の組織が次第に整頓して、随《したがっ》て執政者の権力も重きを成して、自《おのず》から威福の行われるようになると同時に、天下の耳目《じもく》は政府の一方に集り、私の不平も公衆の苦情も何も蚊《か》もその原因を政府の当局者に帰して、之《これ》に加《くわ》うるに羨望《せんぼう》嫉妬《しっと》の念を以《もっ》てして、今度は政府の役人達が狙われるようになって来て、洋学者の方は大《おおい》に楽になりました。喰違《くいちがい》に岩倉《いわくら》公襲撃の頃からソロ/\始まって、明治十一年、大久保《おおくぼ》内務卿の暗殺以来、毎度の兇変《きょうへん》は皆政治上の意味を含んで居るから、云《い》わば学者の方は御留主《おるす》になって、政治家の為《た》めには誠に気の毒で万々推察しますが、私共は人に羨《うらや》まれる事がないから、先《ま》ず以《もっ》て今日は安心と思います。

 


剣を棄てゝ剣を揮う

 

 私が芝《しば》の源助《げんすけ》町で人を斬《き》ろうと決心した、居合《いあい》も少し心得て居るなんて云《い》えば、何か武人めいて刀剣でも大切にするように見えるけれども、その実は全く反対で、爾《そ》うではないどころか、日本武士の大小を丸で罷《や》めて仕舞《しま》いたいとは私の宿願でした。源助町のときには成程《なるほど》双刀を挟《さ》して、刀は金剛兵衛盛高《こんごうびょうえもりたか》、脇差は備前祐定《びぜんすけさだ》、先《ま》ず相応に切れそうな物であったが、その後、間もなく盛高も祐定も家にある刀剣類はみんな売《うっ》て仕舞《しまっ》て、短かい脇差のような物を刀にして御印《おしるし》に挟して居たが、是《こ》れに就《つい》ても話がある。或日《あるひ》、本郷に居る親友|高畑五郎《たかばたけごろう》を訪問していろ/\話をして居る中に、不図《ふと》気が付《つい》て見ると恐ろしい長い刀が床の間に一本|飾《かざっ》てあるから、私が高畑に向《むい》て、あれは居合刀のようだが何にするのかと問えば、主人の云うに、近来世の中に剣術が盛《さかん》になって刀剣が行われる、ナニ洋学者だからと云《いっ》て負けることはない、僕も一本求めたのだとリキンで居るから、私は之《これ》を打消し、「ソレは詰《つま》らない、君は之《これ》を以《もっ》て威《おど》すつもりだろうが、長い刀を家に置《おい》て今の浪人者を威《おど》そうと云《いっ》ても、威嚇《おどかし》の道具になりはしない。詰《つま》らぬ話だ、止《よ》しなさい。僕は家にある刀剣はみんな売《うっ》て仕舞《しまっ》て、今|挟《さ》して居るこの大小二本きりしかない。然《し》かもその大の方は長い脇差を刀にしたので、小の方は鰹節小刀《かつおぶしこがたな》を鞘《さや》に蔵《おさ》めてお飾《かざり》に挟して居るのだ。ソレに君がこんな大造《たいそう》な長い刀を弄《いじ》くると云うのは、君に不似合だ、止《よ》すが宜《よ》い、御願《おねがい》だから止《よ》して呉《く》れ。論より証拠、君にはこの刀は抜けないに極《きまっ》て居る、それとも抜くことが出来るか。「ソレは抜くことは出来ない、迚《とて》もこんな長い物を。「ソリャ見たことか、抜けもせぬものを飾《かざっ》て置くと云《い》う馬鹿者があるか。僕は一切刀を罷《や》めて居るが、憚《はばか》りながら抜くことは知《しっ》て居るぞ、抜《ぬい》て見せようと云て、四尺ばかりもある重い刀を取て庭に下《お》りて、兼《かね》て少し覚え居る居合の術で二、三本抜て見せて、「サア見|給《たま》え、この通りだ。どうだ、君には抜けなかろう。その抜ける者は疾《と》くに刀を売て仕舞《しまっ》たのに、抜けない者が飾て置くとは間違いではないか。是《こ》れは独り吾々《われわれ》洋学者ばかりでない、日本国中の刀を皆《みん》なうっちゃって仕舞《しま》うと云うことにしなければならぬ、だからこんなものは颯々《さっさ》と片付けて仕舞うが宜《よろ》しい。君も今から廃刀と決心して、いよ/\飾りに挟《さ》さなければならんと云うなら、小刀でも何でも宜《よろ》しいと云て、大きに論じた事がある。

 


扇子から懐剣が出る

 

 是《こ》れも大抵《たいてい》同時代と思う。幕府の飜訳局《ほんやくきょく》に雇れて其処《そこ》に出て居た時、或人《あるひと》が私に話すに、「近来なか/\面白い扇子《せんす》が流行《はや》る。鉄扇《てっせん》と云《い》うものは昔から行われて居たが、今はソレが大《おおい》に進歩して、唯《ただ》の扇子と見せて置《おい》て、その実はヒョイと抜くと懐剣が出て来る、なか/\面白い事を発明したと噂《うわさ》して居る。ソコで私が大にまぜかえして遣《やっ》た。「扇子の中から懐剣の出るのが何が賞《ほ》めた話だ。それよりも懐剣として置て、ヒョイト抜くと中から扇子の出るのが本当だ、倒《さかさ》まにしろ、爾《そ》うしたら賞めて遣《や》る、そんな馬鹿な殺伐な事をする奴があるものか、面白くもないと云《いっ》て、打毀《うちこわ》した事を覚えて居ます。


 幕府が倒れると私はスグ帰農して、夫《そ》れ切《ぎ》り双刀を廃して丸腰になると、塾の中でも段々廃刀者が出来る。所がこの廃刀と云う事は中々容易な事でない。実を申せば持兇器を罷《や》めるのだから、世間の人は悦《よろこ》びそうなものだが、決して爾《そ》うでない。私が始めて腰の物なしで汐留《しおどめ》の奥平屋敷に行《いっ》た所が、同藩士は大に驚き、丸腰で御屋敷に出入《しゅつにゅう》するとは殿様に不敬ではないかなどゝ議論する者もありました。又|或《あ》るとき塾の小幡仁三郎《おばたじんざぶろう》と誰か二、三人で散歩中、その廃刀を何処《どこ》かの壮士に見|咎《とが》められて怖い思いをした事もある、けれども私は断然廃刀と決心して、少しも世の中に頓着《とんじゃく》せず、「文明開国の世の中に難有《ありがた》そうに兇器《きょうき》を腰にして居る奴は馬鹿だ、その刀の長いほど大馬鹿であるから、武家の刀は之《これ》を名けて馬鹿メートルと云《い》うが好かろうなどゝ放言して居れば、塾中にも自《おのず》から同志がある。

 


和田与四郎壮士を挑む

 

 明治四年、新銭座《しんせんざ》から今の三田《みた》に移転した当分の事と思う、或日《あるひ》和田義郎《わだよしろう》(今は故人になりました)と云う人が、思切《おもいきっ》た戯《たわぶれ》をして壮士を驚かしたことがある。この人は後に慶應義塾幼椎舎の舎長として性質|極《きわ》めて温和、大勢の幼稚生を実子のように優しく取扱い、生徒も亦《また》舎長夫婦を実の父母のように思うと云う程の人物であるが、本来は和歌山藩の士族で、少年の時から武芸に志して体格も屈強、殊《こと》に柔術は最も得意で、所謂《いわゆる》怖いものなしと云う武士であるが、一夕例の丸腰で二、三人連れ、芝《しば》の松本《まつもと》町を散歩して行くと、向うから大勢の壮士が長い大小を横たえて大道狭しと遣《やっ》て来る。スルと和田が小便をしながら往来の真中を歩いて行く。サアこの小便を避《さ》けて左右に道を開くか、何か咎《とが》め立てして喰《くっ》て掛るか、爰《ここ》が喧嘩の間一髪、いよ/\掛《かかっ》て来れば五人でも十人でも投《ほう》り出して殺して仕舞《しま》うと云う意気込《いきごみ》が、先方の若武者共に分《わかっ》たか、何にも云わずに避けて通《とおっ》たと云う。大道で小便とは今から考えれば随分《ずいぶん》乱暴であるが、乱世の時代には何でもない、こんな乱暴が却《かえっ》て塾の独立を保つ為《た》めになりました。

 

百姓に乗馬を強ゆ

 

 相手は壮士ばかりでない、唯《ただ》の百姓町人に対しても色々|試《こころ》みた事がある。その頃私が子供を連れて江ノ島鎌倉に遊び、|七里ヶ浜《しちりがはま》を通るとき、向うから馬に乗《のっ》て来る百姓があって、私共を見るや否《いな》や馬から飛下りたから、私が咎《とが》めて、「是《こ》れ、貴様は何だと云《いっ》て、馬の口を押えて止めると、百姓が怖《こ》わそうな顔をして頻《しき》りに詫《わび》るから、私が、「馬鹿|云《い》え、爾《そ》うじゃない、この馬は貴様の馬だろう「ヘイ「自分の馬に自分が乗《のっ》たら何だ、馬鹿な事するな、乗て行けと云ても中々乗らない。「乗らなけりゃ打撲《ぶんなぐ》るぞ、早く乗て行け、貴様は爾う云う奴だからいけない。今政府の法律では百姓町人、乗馬勝手次第、誰が馬に乗て誰に逢うても構わぬ、早く乗て行けと云て、無理無体に乗せて遣《や》りましたが、その時私の心の中で独《ひと》り思うに、古来の習慣は恐ろしいものだ、この百姓等が教育のない計《ばか》りで物が分らずに法律のあることも知らない。下々《しもじも》の人民がこんなでは仕方《しかた》がないと余計な事を案じた事がある。

 


路傍の人の硬軟を試る

 

 夫《そ》れから又《また》斯《こ》う云《い》う面白い事がありました。明治四年の頃でした。摂州《せっしゅう》三田《さんだ》藩の九鬼《くき》と云う大名は兼《かね》て懇意《こんい》の間柄で、一度は三田に遊びに来いと云う話もあり、私もその節病後の身で有馬の温泉にも行《いっ》て見たし、かた/″\先《ま》ず大阪まで出掛けて、大阪から三田まで凡《およ》そ十五里、途中|名塩《なしお》に一泊する積りにして、ソコで大阪に行けば何時《いつ》でも緒方の家を訪問しないことはない、故先生は居ないでも未亡夫人が私を子のようにして愛して呉《く》れるから、大阪に着くと取敢《とりあ》えず緒方に行て、三田に遊び有馬《ありま》に行くことなども話しました所が、私は病後でどうも歩けそうにない、駕籠《かご》を貸して遣《や》ろうと云《い》われるので、その駕籠をつらせて大阪を出立した。頃は旧暦の三、四月、誠に好《よ》い時候で、私はパッチを穿《はい》て羽織か何か着て蝙蝠《かわほり》傘を持《もっ》て、駕籠に乗《のっ》て行くつもりであったが、少し歩いて見るとなか/\歩ける。「コリャ駕籠は要《い》らぬ、駕籠屋、先へ行け、乃公《おれ》は一人で行くからと云《いっ》て、たった一人で供もなければ連れもない、話相手がなくて面白くない所から、何でも人に逢うて言葉を交えて見たいと思い、往来の向うから来る百姓のような男に向《むかっ》て道を聞《きい》たら、そのとき私の素振りが何か横風《おうふう》で、むかしの士族の正体が現われて言葉も荒らかったと見える、するとその百姓が誠に丁寧に道を数えて呉《く》れてお辞儀《じぎ》をして行く、こりゃ面白いと思い、自分の身を見れば持《もっ》て居るものは蝙蝠《かわほり》傘一本きりで何にもない、も一度|遣《やっ》て見ようと思うて、その次《つ》ぎに来る奴に向《むかっ》て怒鳴り付け、「コリや待て、向うに見える村は何と申す村だ、シテ村の家数は凡《およ》そ何軒ある、あの瓦屋の大きな家は百姓か町人か、主人の名は何と申すなどゝ下《くだ》らぬ事をたゝみ掛けて士族丸出しの口調で尋ねると、その奴は道の側に小さくなって恐れながら御答《おこたえ》申上げますと云《い》うような様子だ。此方《こっち》はます/\面白くなって、今度は逆《さかさま》に遣て見ようと思付《おもいつ》き、又向うから来る奴に向て、「モシモシ憚《はばか》りながら一寸《ちょと》ものをお尋ね申しますと云うような口調に出掛けて、相替《あいかわ》らず下らぬ問答を始め、私は大阪生れで又大阪にも久しく寄留して居たから、その時には大抵《たいてい》大阪の言葉も知《しっ》て居たから、都《すべ》て奴の調子に合せてゴテ/\話をすると、奴は私を大阪の町人が掛取《かけとり》にでも行く者と思うたか、中々|横風《おうふう》でろくに会釈もせずに颯々《さっさつ》と別れて行く、底《そこ》で今度は又その次ぎの奴に横風をきめ込み、又その次ぎには丁寧に出掛け、一切《いっさい》先方の面色《かおいろ》に取捨なく誰でも唯《ただ》向うから来る人間一匹ずつ一つ置きと極《き》めて遣て見た所が、凡《およ》そ三里ばかり歩く間、思う通りに成たが、ソコデ私の心中は甚《はなは》だ面白くない。如何《いか》にも是《こ》れは仕様のない奴等《やつら》だ、誰も彼も小さくなるなら小さくなり、横風《おうふう》ならば横風で可《よ》し、斯《こ》う何《ど》うも先方の人を見て自分の身を伸縮《のびちぢみ》するような事では仕様《しよう》がない、推《お》して知るべし地方|小役人等《こやくにんら》の威張《いば》るのも無理はない、世間に圧制政府と云《い》う説があるが、是《こ》れは政府の圧制ではない人民の方から圧制を招くのだ、之《これ》を何《ど》うして呉《く》れようか、捨てようと云《いっ》て固《もと》より見捨てられる者でない、左《さ》ればとて之を導いて俄《にわか》に教えようもない、如何《いか》に百千年来の余弊《よへい》とは云《い》いながら、無教育の土百姓が唯《ただ》無闇《むやみ》に人に詫《あやま》るばかりなら宜《よろ》しいが、先《さ》き次第で驕傲《きょうごう》になったり柔和になったり、丸でゴムの人形見るようだ、如何《いか》にも頼母《たのも》しくないと大《おおい》に落胆したことがあるが、変れば変る世の中で、マアこの節はそのゴム人形も立派な国民と成《なっ》て学問もすれば商工業も働き、兵士にすれば一命を軽《かろ》んじて国の為《た》めに水火にも飛込む。福澤が蝙蝠《かわほり》傘一本で如何《いか》に士族の仮色《こわいろ》を使うても、之に恐るゝ者は全国一人もあるまい。是《こ》れぞ文明開化の賜《たまもの》でしょう。

 


独立敢て新事例を開く

 

 私の考《かんがえ》は塾に少年を集めて原書を読ませる計《ばか》りが目的ではない。如何様《いかよう》にもしてこの鎖国の日本を開《ひらい》て西洋流の文明に導き、富国強兵|以《もっ》て世界中に後《おく》れを取らぬようにしたい。左《さ》りとて唯《ただ》これを口に言うばかりでなく、近く自分の身より始めて、仮初《かりそ》めにも言行|齟齬《そご》しては済《す》まぬ事だと、先《ま》ず一身の私を慎《つつ》しみ、一家の生活法を謀《はか》り、他人の世話にならぬようにと心掛けて、扨《さて》一方に世の中を見て文明改進の為《た》めに施して見たいと思う事があれば、世論に頓着《とんじゃく》せず思切《おもいきっ》て試《こころ》みました。例えば前にも申した通り、学生から授業料の金を取立てる事なり、武士の魂と云う双刀を棄《す》てゝ丸腰になる事なり、演説の新法を人に説《とい》て之《これ》を実地に施す事なり、又は著訳書に古来の文章法を破《やぶっ》て平易なる通俗文を用うる事なり、凡《およ》そ是等《これら》は当時の古風家に嫌われる事であるが、幸に私の著訳は世間の人気に役じて渇する者に水を与え、大旱《たいかん》に夕立のしたようなもので、その売れたことは実に驚く程の数でした。時節の悪いときに、ドンな文章家ドンな学者が何を著述したって何を飜訳《ほんやく》したって、私の出版書のように売れよう訳《わ》けはない。畢竟《ひっきょう》私の才力がエライと云《い》うよりも、時節柄がエラかったのである。又その時代の学者達が筆不調法であったか、馬鹿に青雲熱《せいうんねつ》に浮かされて身の程を知らず時勢を見ることを知らなかったか、マアそのくらいの事だと思われる。兎《と》にも角《かく》にも著訳書が私の身を立て家を成《な》す唯一の基本になって、ソレで私塾を開《ひらい》ても、生徒から僅《わずか》ばかりの授業料を掻《かき》集めて私の身に着けるようなケチな事をせずに、全く教師|等《ら》の所得にすることが出来たその上に、折々《おりおり》私の財嚢《ざいのう》から金を出して塾用を弁ずることも出来ました。


 所で私の性質は全体放任主義と云《い》おうか、又は小慾にして大無慾とでも云おうか、塾の事に就《つい》て朝夕心を用いて一生懸命、些細《ささい》の事まで種々無量に心配しながら、又一方ではこの塾にブラサガッて居る身ではない、是非《ぜひ》とも慶應義塾を永久に遺《のこ》して置かなければならぬと云《い》う義務もなければ名誉心もないと、初めから安心決定《あんしんけつじょう》して居るから、随《したがっ》て世の中に怖いものがない。同志の後進生と相談して思う通りに事を行えば、塾中|自《おのず》から独立の気風を生じて世間の反《そ》りに合わぬことも多いのと、又一つには私が政治社会に出ることを好まずに在野の身でありながら、口もあれば筆もあるから颯々《さっさつ》と言論して、時としてはその言論が政府の癪《しゃく》に障ることもあろう。実を云《い》えば私は政府に対して不平はない、役人達の以前が、無鉄砲な攘夷家であろうとも、人を困らせた奴であろうとも、一切《いっさい》既往を云《い》わず、唯《ただ》今日の文明主義に変化して開国一偏に国事を経営して呉《く》れゝば遺憾なしと思えども、何かの気まぐれに官民とか朝野《ちょうや》とか忌《いや》に区別を立てゝ、私塾を疏外し邪魔にして、甚《はなは》だしきは之《これ》を妨げんなんとケチな事をされたのには少々困りました。今これを云えば話も長し言葉も穢《きたな》くなるから抜きにして、近年帝国議会の開設以来は官辺《かんぺん》の風《ふう》も大《おおい》に改まりて、余り酷《ひど》い事はない。何《いず》れ遠からぬ中に双方打解けるように成るでしょう。

 

 又《また》私は知る人の為《た》めに尽力したことがあります。是《こ》れは唯私の物数寄《ものずき》ばかり、決して政治上の意味を含んで居るのでも何でもない。真実一身の道楽と云《い》おうか、慈悲と云おうか、癇癪《かんしゃく》と云おうか、マアそんな所から大《おおい》に働いたことがあります。仙台藩の留守居《るすい》役を勤めて居た大童信太夫《おおわらしんだゆう》と云《い》う人があって、旧幕府時代から私はその人と極《ごく》、懇意《こんい》にして居ました、と云《いっ》てその人が蘭学者でもなければ英学者でもない、けれども兎《と》に角《かく》に西洋文明の風《ふう》を好み洋学書生を愛して楽しみにして居る所は、気品の高い名士と申して宜《よろ》しい。当事諸藩の留守居役でも勤めて居れば、芸者を上げて騒ぐとか、茶屋に集まるとか、相撲を贔屓《ひいき》にするとか云うのが江戸普通の風俗で、大童も大藩の留守居だから随分《ずいぶん》金廻わりも宜《よ》かったろうと思われるに、絶えてそんな馬鹿な遊びをせず、唯《ただ》何でも書生を養《やしなっ》て遣ると云うことが面白くて、書生の世話ばかりして、凡《およ》そ当時仙台の書生で大童の家の飯を喰《く》わない者はなかろう。今の富田鉄之助《とみたてつのすけ》を始め一人として世話にならない者はない。所が幕末の時勢段々切迫して、王政維新の際に仙台は佐幕論に加担して忽《たちま》ち失敗して、その謀主は但木土佐《ただきとさ》と云《い》う家老であると定まって、その人は腹を切《きっ》て仕舞《しま》ったその後で、但木土佐が謀主だと云《い》うけれども、その実は謀主の謀主がある、ソレは誰だと云うに大童信太夫《おおわらしんだゆう》、松倉良助《まつくらしょうすけ》の両人だと斯《こ》う云う訳《わ》けで、維新後その両人は仙台に帰《かえっ》て居た所が、サアその仙台の同藩中の者から妙な事を饒舌《しゃべ》り出した、既《すで》に政府は朝敵の処分をして事済《ことずみ》になっては居るが、内からそんなことを云出《いいだ》して、マダ罪人が幾人もあると訴えたからには、マサか捨てゝも置かれぬと云う所から、久我大納言《こがだいなごん》を勅使として下向を命じた、と云う政府の趣意《しゅい》は甚《はなは》だ旨い、この時に政府は既《すで》に処分済の後だから、成《な》る丈《た》け平穏を主として事を好まぬ。ソコで久我と仙台家とは親類であるから、久我が行けば定めて大目に見るであろう、左《さ》すれば怪我人も少ないだろうと云《い》う為《た》めに、態《わざ》と久我を択《えら》んだと云うことは、その時私も窃《ひそか》に聞きました。政府の略は中々行届いて居る、所が仙台の藩士が有ろうことか有るまいことか、御上使の御下向と聞《きい》て景気を催《もよお》し、生首を七ツとやら持《もっ》て出たので久我も驚いたと云う、そんな事まで仙台藩士が遣《やっ》た。その時に松倉も大童も、居れば危ないから脊戸口《せどぐち》から駈出《かけだ》して、東京まで逃げて来た、と云うのは両人ともモウちゃんと首を斬《き》られる中に数えられて居たその次第を、誰か告げて呉《く》れる者があって、その儘《まま》家を飛出して東京へ来て潜《ひそ》んで居るその中にも、仙台藩の人が在京の同藩人に対して様々残酷な事をして、既《すで》に熱海貞爾《あつみていじ》と云《い》う男は或夜今|其処《そこ》で同藩士に追駈けられたと申して、私方に飛込んで助かった事さえありましたが、この物騒な危ない中にも、大童《おおわら》と松倉《まつくら》はどうやら斯《こ》うやら久しく免《まぬ》かれて居て、私は素《もと》より懇意《こんい》だからその居処《いどころ》も知《しっ》て居れば私の家にも来る。政府の人から見られるのは苦しくない、政府はそんな野暮はしない、そんな者を見ようともしないが、何分にも同藩の者が遣《や》るので誠に危ない。引捕《ひきとら》えて、是《こ》れが罪人でございと云《い》えば、如何《いか》に優しい大目《おおめ》な政府でも唯《ただ》見ては居られない。実に困《こまっ》た身の有様《ありさま》だと、毎度両人と話す中に、私は両人の為《た》めに同情を表すると云《い》うよりも、寧《むし》ろこの仙台藩士の無情残酷と云うことに酷《ひど》く腹が立ちました。弱武者の意気地のない癖に酷《ひど》い事をする奴だ、ドウかして呉《く》れたいものだと斯う考えた所で、夫《そ》れから私が大童に面会して、ドウか青天白日の身になる工夫がありそうなものだ、私が一つ試《こころ》みて見よう、何でも是《こ》れは一番、藩主を引捕《ひっとら》えて談ずるが上策だろうと相談して、私は大きに御苦労な訳《わ》けだけれども、日比谷内にある仙台の屋敷に行《いっ》て、藩主に御目《おめ》に懸《かか》りたいと触込《ふれこ》んで、藩主に面会した。ソコで私がこの藩主に向《むかっ》て大に談じられる由縁《ゆかり》のあると云《い》うのは、その藩主と云う者は伊達《だて》家の分家|宇和島《うわじま》藩から養子に来た人で、前年養子になると云うその時に、私が与《あずかっ》て大《おおい》に力がある、と云うのは当時|大童《おおわら》が江戸屋敷の留守居《るすい》で世間の交際が広いと云うので、養子選択の事を一人で担任して居て、或時《あるとき》私に談じて、「お前さんの処(奥平《おくだいら》家)の殿様は宇和島から来て居る、その兄さんが国(宇和島)に居る、その人の強弱智愚|如何《いかん》を聞《きい》て貰《もら》いたいと云うから、早速取調べて返事をして、先《ま》ず大童の胸に落ちて、今度は宇和島家の方に相談をして貰いたいと云うので、夫《そ》れから又私は麻布《あざぶ》竜土《りゅうど》の宇和島の屋敷に行《いっ》て、家老の桜田大炊《さくらだおおい》と云う人に面会してその話をすると、一も二もなく、本家の養子になろうと云うのだから唯《ただ》難有《ありがた》いとの即答、一切《いっさい》大童と私と二人で周旋して、夫《そ》れから表向きになって貰《もらっ》たその人が、その時の藩主になって居るので、ソコで私がその藩主に遇《あ》うて、時に尊藩の大童、松倉《まつくら》の両人が、この間仙台から逃げて参《まいっ》たのは、彼方《あっち》に居れば殺されるから此方《こっち》に飛出して来たのであるが、彼《あ》の両人は今でも見付け出せば藩主に於《おい》て本当に殺す気があるのか、但《ただ》し殺したくないのか、ソレを承《うけたまわ》りたい。「イヤ決して殺したいなどゝ云《い》う意味はない。「然《しか》らばモウ一歩進めて、お前さんはソレを助けると云う工夫をして、ドウかして、命の繋《つな》がるようにして遣《やっ》ては如何《いかが》で御座《ござ》る。実はお前さんは大童《おおわら》に向《むかっ》て大《おおい》に報いなければならぬことがある。知るや知らずや、お前さんが仙台の御家《おいえ》に養子に来たのは斯《こ》う云《い》う由来、是《こ》れ/\の次第であったが、夫《そ》れを思うても殺すことは出来まい。屹度《きっと》御決答《ごけっとう》を伺いたいと、顔色《がんしょく》を正しくして談じた処が、「決して殺す気はないが、是《こ》れは大参事に任《ま》かしてあるから、大参事さえ助けると云う気になれば、私には勿論《もちろん》異論はないと云う。マダ若い小供でしたから何事も大参事に任かしてあったのでしょう。「然《しか》らばお前さんは確かだな。「確かだ。「ソレならば宜《よろ》しい、大参事に遇《あ》おうと云《いっ》て、直《す》ぐ側《そば》の長屋に居たから其処《そこ》へ捻込《ねじこ》んだ。サア今藩主に話をして来たがドウだ。藩主は大参事次第だと確かに申された。然《しか》らば則《すなわ》ち生殺はお前さんの手中にある、殺す気か、殺さぬ気か。仮《よ》しや殺す積りで捜し出そうと云ても決して出る気遣いはない。私はちゃんと居処を知《しっ》て居る、捜せるなら試《こころ》みに捜して見るが宜《い》い、捕縛すると云うなら私の力の有らん限り隠蔽《いんぺい》して見せよう、出来るだけ摘発して見なさい、何時《いつ》まで経《たっ》ても無益だ。そんな事をして人を苦しめないでも宜《い》いだろうと、裏表から色々話すと、大参事にも言葉がない。いよ/\助ける、助けるけれども薩州|辺《あた》りから何とか口を添えて呉《く》れると都合が宜いなんて又《また》弱い事を云うから、宜《よろ》しいと云《い》い棄《す》てゝ、夫《そ》れから私は薩州の屋敷に行《いっ》て、斯《こ》う/\云う次第柄だから助けて遣《やっ》て呉れぬかと云うと、大藩とか強藩とか云うので口を出すのは実は迷惑な話だが、何も六《むず》かしい事はない、宮内省に弁事と云うものがあるから、その者に就《つい》て政府の内意を聞《きい》て上げるからと云《いっ》て、薩摩の公用人が政府の内意を聞て、私の処に報知して呉《く》れたには、兎《と》も角《かく》も自訴させるが宜しい、自訴すれば八十日の禁錮ですっかり罪は滅びて仕舞《しま》うと云うことが分《わかっ》た。夫《そ》れから念の為《た》め私は又仙台の屋敷に行て大参事に面会して、政府の方は自訴すれば八十日と極て居るが、之《これ》にお負けが付きはしないか、自訴と云えばこの屋敷に自訴するのであるが、この屋敷で本藩の私《わたくし》を以《もっ》て八十日を八年にして遣《や》ろうなんと云うお負けを遣《や》りはしないか、ソレを確かに約束しなければ玉は出されないと、念に念を入れて問答を重ね、最後には若《も》し違約すれば復讐するとまで脅迫して、いよ/\大丈夫と安心して、ソレからその翌日両人を連れて日比谷の屋敷に行た、所が屋敷の役所見たような処には罪人、大童《おおわら》、松倉《まつくら》の旧時《むかし》の属官ばかりが列《なら》んで居るだろう、罪人の方が余程エライ、オイ貴様はドウして居るのだと云うような調子で、私は側から見て可笑《おか》しかった。夫れから宇田川町の仙台屋敷の長屋の二階に八十日居て、ソレで事が済《す》んで、ソレから二人は晴天白日、外を歩くようになって、その後は今日に至るまでも旧《もと》の通りに交際して互《たがい》に文通して居ます。生涯変らぬ事でしょう。只《ただ》この事たるや仙台藩の無気力残酷を憤《いきどお》ると同時に、藩中|稀有《けう》の名士が不幸に陥りたるを気の毒に感じたからのことで、随分《ずいぶん》彼方此方《あちこち》と歩き廻《まわ》りましたが、口で云《い》えば何でもないけれども、人力車のある時節ではなし、一切《いっさい》歩いて行かなければならぬから中々骨が折れました。


 夫《そ》れから榎本《えのもと》(当年の釜次郎《かまじろう》、今の武揚《たけあき》)の話をしましょう。前に申す通りに古川節蔵《ふるかわせつぞう》は私の家から脱走したようなもので、後で聞《きい》て見れば榎本よりか先《さ》きに脱走したそうで、房州《ぼうしゅう》鋸山《のこぎりやま》とか何処《どこ》とかに居た佐幕党の人を長崎丸に乗せて、ソレを箱根山に上げて、ソレで箱根の騒動が起《おこっ》たので、あれは古川節蔵が遣《やっ》たのだと申します。節蔵が脱走した後で以《もっ》て、脱走艦は追々|函館《はこだて》に行《いっ》て、夫《そ》れから古川《ふるかわ》の長崎丸と一処《いっしょ》に又《また》此方《こっち》へ侵しに来た、と云《い》うのは官軍方の東《あずま》艦、即《すなわ》ち私などが亜米利加《アメリカ》から持《もっ》て来た東艦が官軍の船になって居る、ソレを分捕《ぶんど》りしようと云うことを企てゝ、そうして奥州《おうしゅう》宮古《みやこ》と云う港で散々|戦《たたかっ》た所が、負けて仕舞《しまっ》て到頭《とうとう》降参して、夫れから東京へ護送せられて、その時は法律も裁判所も何もないときで、糺問所《きゅうもんじょ》と云う牢屋《ろうや》のようなものがあって、その糺問所の手に掛って古川|節蔵《せつぞう》と、前年、私が米国に同行した小笠原賢蔵《おがさわらけんぞう》と云う海軍士官と、二人《ふたり》連れで霞ヶ関の芸州《げいしゅう》の屋敷に監禁されて居る。ソコで私は前には馬鹿をするなと云《いっ》て止《と》めたのであるけれども、監禁されて居ると云《い》えば可哀想《かわいそう》だ。幸い芸州の屋敷に懇意《こんい》な医者が居るから、その医者の処に行《いっ》て、ドウかして古川に遇《あ》いたいものだが遇《あ》わして呉《く》れぬかと云《いっ》たらば、番人も何も居ないようであったが、その医者の取計いで、遇わして呉れました。夫れから長屋の暗いような処に行て見ると二人がチャンと這入《はいっ》て居るから、私が先《ま》ず言葉を掛けて、「ザマア見ろ、何だ、仕様《しよう》がないじゃないか。止めまいことか、あれ程|乃公《おれ》が止めたじゃないか。今|更《さ》ら云たって仕方《しかた》はないが、何しろ喰物《くいもの》が不自由だろう、着物が足りなかろうと云て、夫《そ》れから宅に帰《かえっ》て毛布《ケット》を持《もっ》て行て遣《やっ》たり、牛肉の煮たのを持て行て遣たり、戦争中の様子や監禁の苦しさ加減を聞《きい》たりした事があるので、私は〔能《よ》く〕糺問所の有様《ありさま》を知《しっ》て居ます。


 所が榎本釜次郎《えのもとかまじろう》だ。釜次郎は節蔵《せつぞう》よりか少し遅れて此方《こっち》に帰《かえっ》て来て同じく糺問所《きゅうもんじょ》の手に掛《かかっ》て居る。所が頓《とん》と音《おと》づれが分らない、と云うのは私は榎本と云《い》う男は知《しっ》て居ることは知て居る、途中で遇《あっ》て一寸《ちょと》挨拶したぐらいな事はあるが、一緒に相対《あいたい》して共に語り共に論ずると云うような深い交際はない。だから余り気に止《と》めて居なかった。所がこの榎本と云う一体の大本《おおもと》を云うと、あの阿母《おっか》さんと云う人は素《も》と一橋家の御馬方《おんまかた》で林代次郎《はやしだいじろう》と云う日本第一乗馬の名人と云われた大家の娘で、この婦人が幕府の御徒士《おかち》の榎本|円兵衛《えんべえ》と云う人に嫁して設けた次男が榎本釜次郎です。ソコでその林の家と私の妻の里の家とは回縁《かいえん》の遠い続合《つづきあ》いになって居るから、ソレで前年中は榎本の家内の者も此方に来たことがある。又私の妻も小娘のときには祖母《おばあ》さんに連れられて榎本の家に行《いっ》たことがあると云うので、少し往来の道筋が通《とおっ》て居て全く知らぬ人でない。所が榎本《えのもと》が今度|糺問所《きゅうもんじょ》の手に掛《かかっ》て居て、その節《せつ》、榎本の阿母《おっか》さんも姉《あね》さんもお内儀《かみ》さんも静岡に居るが、一向|釜次郎《かまじろう》の処から便りがないので大《おおい》に案じて居ると、丁度《ちょうど》その時に榎本の妹の良人《おっと》に江連《えづれ》加賀守《かがのかみ》と云《い》う人があって、この人は素《も》と幕府の外国奉行を勤めて居て私は外国方《がいこくがた》の飜訳方であったから能《よ》く知《しっ》て居る。ソコで江連が静岡から私の処に手紙を寄越《よこ》して、榎本はこの節どうして居るだろうか、頓《とん》と便りがないので母も姉も家内も日夜案じて居る、何でも江戸に来て居ると云う噂《うわさ》は風の便りに聞《きい》たけれども、ソレも確めることが出来ない、其《そ》れに就《つい》て江戸に親戚|身寄《みより》の者に問合《といあわ》せたけれども、嫌疑《けんぎ》を恐れてか只《ただ》の一度も返辞《へんじ》を寄越した者がない、ソコで君の処に聞きに遣《やっ》たら何か様子が分るだろうと思うが、ドウぞ知らして呉《く》れぬかと云うことを縷々《こまごま》と書《かい》て来ました。所で私はその手紙を見て先《ま》ず立腹したと申すは、榎本は兎《と》も角《かく》も、その親戚身寄の者が江戸に居ながら嫌疑を恐れて便りをしないとは卑劣な奴だ、薄情な奴だ、実に幕府の人間は皆こんな者だ、好《よ》し乃公《おれ》が一人で引受けて遣《や》ると云う心が頭に浮んで来て、加うるに私は古川節蔵《ふるかわせつぞう》の一件で糺問所の様子を知て居るから、スグ江連の方へ返辞を出し、榎本は今糺問所に這入《はいっ》て居る、殺されるか助かるかソリャどうも分らない、分らないけれども何しろ煩《わずら》いもしなければ何もせずに無事に居るので御座《ござ》る、その事を阿母さん始め皆さんへ伝えて呉《く》れよと云て遣《や》ると、又重ねて手紙を寄越して、老母と姉が東京に出たいと云うが上京しても宜《よろ》しかろうかと云《いっ》て来たから、颯々《さっさつ》と御出《おいで》なさい、私方に嫌疑《けんぎ》もなんにもない、公然と出て御出《おい》でなさいと返辞《へんじ》をすると、間もなく老人と姉さんと母子二人出京して、ソレから糺問所《きゅうもんじょ》の様子も分《わか》り差入物《さしいれもの》などして居る中に、阿母《おっか》さんが是非《ぜひ》釜次郎《かまじろう》に逢いたいと云出《いいだ》した。所が法律も何もない世の中で、何処《どこ》に訴えて如何《どう》しようと云《い》う方角が分らない。ソコで私が一案を工風《くふう》して、老母から哀願書を差出すことにして、私が認《したた》めた案文のその次第は、云々《うんぬん》今般《こんぱん》倅《せがれ》釜次郎犯罪の儀、誠に以《もっ》て恐れ入ります、同人事は実父|円兵衛《えんべえ》存命中|斯様《かよう》々々、至極《しごく》孝心深き者で、父に事《つか》えて平生は云々、又その病中の看病は云々、私は現在ソレを見て居ます、この孝行者にこの不忠を犯す筈《はず》はない、彼《あ》れに限《かぎっ》て悪い根性の者では御在《ござ》ません、ドウゾ御慈悲に御助けを願います、私はモウ余命もない者で御座《ござ》るから、いよ/\釜次郎を刑罰とならばこの母を身代りとして殺して下さいと云う趣意《しゅい》で、分らない理窟を片言交りにゴテ/\厚かましく書《かい》て、姉さんのお楽さんに清書をさせて、ソレからお婆《ばあ》さんが杖《つえ》をついて哀願書を持《もっ》て糺問所に出掛けた処が、コレは余程《よほど》監守の人を感動さしたと見え、固《もと》よりこんな事で罪人の助かる訳《わ》けはないが、とう/\仕舞《しまい》に獄窓《ごくそう》を隔てゝ母子《ぼし》面会だけは叶いました。夫《そ》れ是《こ》れする中に爰《ここ》に妙な都合の宜《よ》い事が出来ましたその次第は、榎本《えのもと》が箱館《はこだて》で降参のとき、自分が嘗《かつ》て和蘭《オランダ》在留中学び得たる航海術の講義筆記を秘蔵して居るその筆記の蘭文の書を、国の為《た》めにとて官軍に贈《おくっ》て、その書が官軍の将官|黒田良助《くろだりょうすけ》(黒田|清降《きよたか》)の手にあると云《い》うことを聞きました。所で人は誰か忘れたが、或日《あるひ》その書を私方に持参して、何の書だか分らぬがこの蘭文を飜訳《ほんやく》して貰《もら》いたいと云うから、之《これ》を見れば兼《かね》て噂《うわさ》に聞《きい》た榎本の講義筆記に違いない。是《こ》れは面白いと思い、蘭文飜訳は易《やす》いことであるのを、私は先方に気を揉《も》ませる積りで態《わざ》と手を着けない。初めの方《ほう》四、五枚だけ丁寧に分るように飜訳して、原本に添えて返して遣《やっ》て、是《こ》れは如何《いか》にも航海にはなくてはならぬ有益な書に違いない、巻初の四、五枚を見ても分る、所が版本の原書なれば飜訳も出来るが、講義筆記であるからその講義を聴聞した本人でなければ何分にも分り兼ねる、誠に可惜《おし》い宝書で御座《ござ》ると云《いっ》て、私は榎本の筆記と知りながら知らぬ風をして唯《ただ》飜訳の云々で気を揉まして、自然に榎本の命の助かるように、云《い》わば伏線の計略を運《めぐ》らした積りである。又その時代には黒田も私方に来れば、私も黒田の家に行《いっ》たこともある。何時《いつ》か何処《どこ》か時も処も忘れましたが、払が黒田に写真を贈《おくっ》たことがあるその写真は、亜米利加《アメリカ》の南北戦争、南部敗北のとき、南部の大統領か大将か何でも有名の人が婦人の着物を着て逃げ掛けて居る写真で、私がその前年、亜米利加から持て帰《かえっ》て一枚あったから黒田《くろだ》に贈《おくっ》て、是《こ》れは亜米利加《アメリカ》の南部の何と云《い》う人で、逃げる時に斯《こ》う云う姿で逃げたと云う、敢《あえ》て命を惜むでもなかろうけれども、又一方から云えば命は大切な者だ、何としても助かろうと思えば斯《か》く見苦しい姿をしても逃げるのが当然《あたりまえ》の道である。人間と云うものは一度《ひとた》び命を取れば後で幾ら後悔しても取返しが付かない。ドウも榎本《えのもと》は大変な騒ぎをした男であるが、命だけは取らぬようにした方が得じゃないか、何しろこの写真を進上するから御覧《ごらん》なさいと云て、濃《こまやか》に話したこともある。爾《そ》うした所で、ドウやら斯うやらする間にいよ/\助かることになった、けれどもその助かると云うのは固《もと》より私の周旋したばかりで助かったと云う訳《わ》けではない、その時の真実内情の噂《うわさ》を聞けば長州勢はドウも榎本等を殺すような勢《いきおい》があった、ソコで薩州の藩士がソレを助けようと云う意味があったと云うから、長州勢に任かせたら或《あるい》は殺されたかも知れぬ。何《いず》れ大|西郷《さいごう》などがリキンでとう/\助かるようになったのでしょう。是《こ》れは私の為《た》めには大童信太夫《おおわらしんだゆう》よりか余程《よほど》骨の折れた仕事でした。彼《か》れ此《こ》れする中に私が煩《わずら》い付《つい》て、その事は病後まで引張《ひっぱっ》て居て、病気全快に及ぶと云《い》うときだから、明治三年にいよ/\放免になりましたが、唯《ただ》残念で気の毒なのは、阿母《おっか》さんは愛子《あいし》の出獄前に病死しました。


 所が前申す通り榎本釜次郎《えのもとかまじろう》と私とは刎頸《ふんけい》の交《まじわり》と云う訳《わ》けではなし、何もそんなに力を入れる程の親切のあろう訳けもない、只《ただ》仙台藩士の腰抜けを憤《いきどお》ったと同じ事で、幕府の奴の如何《いか》にも無気力不人情と云うことが癪《しゃく》に障《さわっ》たので、ソコでどうでも斯《こ》うでも助けて遣《や》ろうと思《おもっ》て駈廻《かけま》わりましたが、その節《せつ》、毎度妻と話をして今でも覚えて居ます、私の申すに、扨《さて》榎本の為《た》めに今日はこの通りに骨を折《おっ》て居るが、是《こ》れは唯《ただ》人間一人の命を助けるばかりの志で外《ほか》になんにも趣意《しゅい》はない、元来《がんらい》榎本と云う男は深く知らないが随分《ずいぶん》何かの役に立つ人物に違いはない、少し気色《けいろ》の変《かわっ》た男ではあるが、何分にも出身《で》が幕府の御家人《ごけにん》だから殿様好きだ、今こそ牢《ろう》に這入《はいっ》て居るけれども、是《こ》れが助かって出るようになれば、後日|或《あるい》は役人になるかも知れぬ、その時は例の通りの殿様風でぴん/\するような事があるかも知れない、その時になって殿様のぴん/\を見たり聞《きい》たりして、ヤレ昔を忘れて厚かましいだの可笑《おか》しいだのと云う念が兎《う》の毛ほども腹の底にあっては、是れは榎本の悪いのでなく此方《こっち》の卑劣と云うものだから、そんな事なら私は今日|唯《ただ》今から一切《いっさい》の周旋を止《や》めるがドウだと妻に語れば、妻も私と同説で、左様《そん》な浅ましい卑しい了簡は決してないと申して、夫妻固く約束したことがあるが、後日《ごにち》に至《いたっ》て私の云《いっ》た通りになったのが面白い。榎本《えのもと》が段々立身して公使になったり大臣になったりして立派な殿様になったのは、私が占八卦《うらないはっけ》の名人のようだけれども、私の処にはチャント説が極《き》まって居て、一切《いっさい》の事情を知る者は私と妻と両人より外《ほか》にないから、榎本がドウなろうと私の家で噂《うわさ》をする者もない、子供などは今度のこの速記録を見て始めて合点《がてん》するでしょう。


底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
   2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
   1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
   1898(明治31)年7月1日号~1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんヶ原はら」
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちヶ原はら」
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「免まぬかれ」と「免まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「積つもり」と「積つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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