ダイガクコトハジメ - 緒方惟準
出身校
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ユトレヒト大学
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参考情報
参考文献・書籍
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緒方惟準
おがたこれよし
1843(天保14)年8月25日(旧暦・8月1日) - 1909(明治42)年7月20日
医学所(現・東京大学医学部)教授、医学校・大病院取締、大阪医学校(現・大阪大学医学部)校長、陸軍軍医学会長兼近衛軍医長
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1844(天保15/弘化元)年 緒方洪庵(35歳)、適塾(適々斎塾)入門者署名帳『姓名録』に記載されただけで636人、このほかに通いの塾生や1843年以前の門人等を含めると、資料で判明している限りでも、子弟は1,000名を超えるものと推定される。
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緒方惟準(12歳)、緒方洪庵の命により、弟・緒方平三(後に惟孝)と共に大聖寺の渡辺卯三郎に学ぶ。漢学が主、蘭学が従の教育を受けるも、蘭学専念の想い強く。洋学館長・伊藤慎蔵の下に走る。弟と共に勘当される。3年後、「勘気免ぜられて帰坂の恩命を蒙る」。
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。
1853(嘉永6)年 安政の改革
黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所を設置。
1855(安政2)年 長崎海軍伝習所設立
ペリー来航後間もなく、海防強化を急務とする江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を決定。オランダ商館長の勧めにより、海軍士官養成のための教育機関設立を決める。長崎奉行を通じ、オランダから練習艦として帆船(後の観光丸)の寄贈を受ける。併せて、オランダ人教官隊を招聰。長崎奉行所西屋敷(現・長崎市江戸町)に長崎海軍伝習所設立。総監理に永井尚志。
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長崎海軍伝習所、オランダ人教官よりオランダ語学をはじめ、航海術・造船学・砲術・測量術・機関学などが教授される。またその基礎として、西洋数学・天文学・地理学なども授けられる。幕府関係者のほか、諸藩からも多数の者が伝習に参加。これらの人々の中から、勝海舟(勝麟太郎)・榎本武揚ら幕臣、五代友厚・佐野常民ら諸藩士など、幕末維新期の指導的人材を数多輩出する。
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1857(安政4)年11月12日、長崎海軍伝習所にて、第二次海軍伝習隊と共に、オランダ軍医・ポンペ(Pompe Van Meerdervoot)が来日。医学伝習所(後に長崎医学校、現・長崎大学)創立。幕府医官・松本良順ら11名に医学講義を行う。西洋医学の伝習が始められ、江戸とならび長崎が幕末における西洋医学の中心に。西洋医学のほか、化学・物理学・生理学等も授けられ、物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学の始まりとなる。
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1858(安政5)年 緒方惟準(16歳)、長崎遊学。医学伝習所(後に長崎医学所、現・長崎大学)でポンペ、ボードウィン、クーンラート・ハラタマに師事、オランダ医学を学ぶ。
1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立
江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎・伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫・林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所(東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎。
1858(安政5)年7月 蘭方医解禁令
幕府医師の和蘭兼学を認める。蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に登用される。
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1858(安政5)年7月3日 伊東玄朴(58歳)、江戸幕府13代将軍・徳川家定が脚気により重態に。漢方医の青木春岱、遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海と共に幕府奥医師に挙用される。蘭方内科医が幕医に登用される始まりとなる。
1861(万延2/文久元)年1月 西洋医学所発足
種痘所が幕府直轄に。西洋医学所(現・東京大学医学部)に改称。教授・解剖・種痘の三科に分かれ、西洋医学を教授・実践する場となる。初代頭取に、大槻俊斎。
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1862(文久2)年 緒方洪庵(53歳)、幕府より西洋医学所頭取として出仕要請。健康上の理由から一度は固辞するも、度重なる要請を受けて江戸出仕。奥医師兼西洋医学所第2代頭取に。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙、島村鼎甫ら7名を推薦。
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1862(文久2)年12月16日 伊東玄朴(62歳)、蘭方医として初めて法印に進み、長春院と号す。名実共に、蘭方医の頂点に立つ。
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1862(文久2)年12月 緒方洪庵(53歳)、法眼に叙せられる。富と名声を得るも、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しむ。さらに、蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じてピストルを購入。
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1863(文久3)年7月 松本良順(32歳)、緒方洪庵の後任として、医学所(現・東京大学医学部)第3代頭取就任。適塾(適々斎塾)式を廃止、ポンぺ式に刷新。教育内容、教育方法の大改革を断行。「専ら究理、舎密、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」。適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。
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1865(元治2/慶応元)年 緒方惟準(23歳)、幕府の命により、オランダ留学。ユトレヒト大学で学ぶ。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
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1868(慶応4/明治元)年7月 緒方惟準(26歳)、幕府崩壊の報を受け帰国。京都朝廷の命により、典薬寮医師、玄蕃少允に。
1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都
江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される
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1868(慶応4/明治元)年9月 緒方惟準(26歳)、中典医に。
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1868(慶応4/明治元)年10月 緒方惟準(26歳)、医学校・大病院の取締に。
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1868(慶応4/明治元)年、適塾(適々斎塾)閉鎖。
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1869(明治2)年1月 相良知安(34歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。強引なドイツ医学の採用の進言の経緯より、ウィリスを推していた西郷隆盛、山内容堂の体面をつぶし、薩摩閥、土佐閥の恨みを受ける。
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明治維新後、それまでの医学校では日本人教師によりオランダ医学を教えていたが、イギリス人教師によるイギリス医学が取り入れられる。しかし、ドイツ医学が優秀であることを認め、ドイツ医学を中心とすることに方針転換。
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1869(明治2)年2月、大阪府知事・後藤象二郎、参与・小松清廉の尽力により、東成郡東高津村八丁目寺町(現・大阪市天王寺区上本町四丁目)の大福寺に浪華仮病院、および適塾(適々斎塾)元塾生らを中心とする仮医学校(後に大阪医学校、現・大阪大学医学部)設立。院長に緒方洪庵の次男・緒方惟準。主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招く。一般の病気治療と医師に対する新治術伝習を行う。
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1869(明治2)年2月 緒方惟準(27歳)、医学校・大病院の取締を辞し、大阪の医学伝習御用掛に。浪華仮病院(現・大阪大学医学部)院長就任。オランダ軍医・ボードインと共に病院運営にあたる。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1869(明治2)年6月 相良知安(34歳)、ドイツより教師を招くことを建議。2名を招請することに。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年 緒方惟準(28歳)、大阪医学校校長に。
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1871(明治4)年8月、大学東校にドイツ人教師ミュルレルとホフマンの招聘が実現、来任。ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる。日本の医学教育制度構築の全権を託す。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年10月2日、「医学教育を第一大学区医学校に一元化・集中させる」という文部省および第一大学区医学校の方針により、第四大学区医学校が突然の廃校に。日本の医学教育について、ドイツ医学への統一が図られる。
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1873(明治6)年 緒方惟準(31歳)、文部省および第一大学区医学校の方針により、第四大学区医学校が廃校に。現場を離れ、陸軍軍医に。大阪鎮台病院長、軍医学校長、軍医本部次長を歴任。陸軍軍医部創設に尽力。
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1885(明治18)年 緒方惟準(43歳)、陸軍軍医学会長兼近衛軍医長に。
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1887(明治20)年4月 緒方惟準(45歳)、陸軍を退役。大阪に戻り、緒方病院開院。院長に。
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1888(明治21)年2月 緒方惟準(46歳)、大阪市内に生活困窮者のための病院施設がないことを憂いた高橋正純ら同志と共に、大阪慈恵病院(現・大阪市立弘済院附属病院)開院。社会福祉に努める。
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1909(明治42)年 緒方惟準(67歳)、死去。享年67歳。
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