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ダイガクコトハジメ - 諸葛信澄

諸葛信澄

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諸葛信澄

もろくずのぶずみ

1849(嘉永2)年10月21日(旧暦・9月6日) - 1880(明治13)年12月21日

文部省官僚、師範学校学長、大阪師範学校校長、華族学校学監

「諸葛信澄」に関する書籍 [外部]

  • 1849(嘉永2)年10月21日(旧暦・9月6日)、長門国長府に長府藩に仕える絵師・諸葛力斎の子として生まれる。

  • 1862(文久2)年 諸葛信澄(14歳)、長府藩・福田扇馬の私塾・桜柳亭にて、乃木無人(希典)、桂弥一らと共に学ぶ。

  • 1864(文久4/元治元)年3月 諸葛信澄(16歳)、私塾・桜柳亭が母体となり長府藩校・集童場設立、入学。

  • 1865(元治2/慶応元)年11月 諸葛信澄(17歳)、長府藩報国隊の総督・泉十郎の処刑事件が起こる。報国隊幹部で長府藩校・集童場の指導者でもあった福原和勝、熊野直介が事件に抗し、長州藩領厚狭郡吉田村の奇兵隊陣屋に脱走。集童場生の乃木無人(希典)、桂弥一らと共に、二人を追って脱走。藩主特使として派遣された乃木の父・乃木十郎の説得により、二人と共に帰藩。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年4月-11月 諸葛信澄(20歳)、報国隊、北越戦争に出兵。長岡城陥落後、会津戦争参戦。会津城陥落後、京都に凱旋、長府に戻る。報国隊器械方として従軍、論功行賞で金25両の25年分与を受ける。

  • 1868(慶応4/明治元)年 諸葛信澄(20歳)、開成学校入学。英語を学ぶ。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1870(明治3)年11月 諸葛信澄(22歳)、大学少舎長に。

  • 諸葛信澄、中得業生を兼任。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年 諸葛信澄(23歳)、文部少助教に。後に、文部省九等出仕。

  • 1872(明治5)年4月 諸葛信澄(24歳)、文部省八等出仕に。

  • 1872(明治5)年5月 諸葛信澄(24歳)、文部省中小学掛に。

  • 1872(昭和5)年5月、文部省、学制公布に先立ち、近代教育の担い手となるべき教員の育成を重視。「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」を提出。認可を受け、東京府下に師範学校設立が決定。生徒募集を広く布達。

  • 1872(明治5)年8月 諸葛信澄(24歳)、官立師範学校設立のため、文部省師範学校掛に。

1872(明治5)年9月 師範学校設立

学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に日本初の官立教員養成機関・師範学校(後に東京師範学校、筑波大学の源流)設立。湯島聖堂内の昌平坂学問所(昌平黌)跡地に置かれる。将来全国に設立されるべき小学校教員養成機関のモデルケースとしての役割を果たす。校内編輯局にて、全国小学校で使用される新たな教科書の編纂、全国小学校の教則の範例となるべき『小学教則』の編成などが行われる。

  • 1873(明治6)年6月 諸葛信澄(25歳)、師範学校学長に。お雇い外国人教師マリオン・スコットの指導の下、米国式の一斉教授法を実施。その内容を『小学教師必携』刊行。

1873(明治6)年8月 6大学区で官立師範学校設立

名古屋・大阪・広島・長崎・新潟・仙台で官立師範学校設立。東京の師範学校は、東京師範学校に改称。師範学校は卒業後教職に就くことを前提に授業料が無料、生活も保障された。このため、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たす。

  • 1873(明治6)年8月 諸葛信澄(25歳)、官立大阪師範学校設立のため、文部省設立御用掛に。

  • 1873(明治6)年11月 諸葛信澄(25歳)、文部省七等出仕に。

  • 1875(明治8)年4月 諸葛信澄(27歳)、官立大阪師範学校校長に。

  • 1875(明治8)年10月 諸葛信澄(27歳)、文部省を退官。西ヶ原に茶園を購入、移住。

  • 1876(明治9)年6月 諸葛信澄(28歳)、学習院開校に先立ち、華族会館より華族学校学監心得を命じられる。11月、学監に。翌1877(明治10)年5月、開校を前に解任。

  • 1880(明治13)年9月 諸葛信澄(32歳)、東京株式取引所肝煎に選出。

  • 1880(明治13)年12月21日 諸葛信澄(32歳)、死去。享年、32歳。

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