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ダイガクコトハジメ - 足利学校

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学校略歴

  • 「日本最古の学校」・「日本最古の総合大学」とされる、平安時代初期・832(天長9)年に小野篁が創立した説、鎌倉時代初期・建久年間(1190年-1199年)に足利義兼が創立した説など年代・創立者には諸説あり、「坂東の大学」と呼ばれる

  • 奈良時代、国学が発足?

  • 平安時代初期・832(天長9)年、小野篁、足利学校創立?

  • 鎌倉時代初期・建久年間(1190年 - 1199年)、足利義兼、足利学校創立?

  • 室町時代中期・1432(永享4)年、上杉憲実、室町前期に衰退した足利学校を再興

  • 享禄年間(1530年頃)、火災で一時的に衰退、第7代庠主・九華、北条氏政の保護を受けて再興、学徒3,000人と全盛期を迎える

  • 1549(天文18)年、キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエル、「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」、海外まで名が伝わる

  • 1587(天正15)年、ルイス・フロイス『日本史』、「坂東随一の大学」

  • 江戸時代前期 - 中期、第9代庠主・三要が徳川家康の信任を受け、2度目の反映

  • 江戸時代中期 - 後期、京都より関東に伝えられた朱子学の官学化により、易学中心となっていた足利学校は衰退

  • 明治維新後、足利藩の管理に、藩校とすることで復活を図るも、廃藩置県により管理が足利県(現・栃木県)に、1872(明治5)明治年に廃校

創立者

学校年表

「日本最古の学校」・「日本最古の総合大学」とされる足利学校創立

平安時代初期・832(天長9)年に小野篁が創立した説、鎌倉時代初期・建久年間(1190年-1199年)に足利義兼が創立した説など年代・創立者には諸説あり。「坂東の大学」と呼ばれ、室町時代の全盛期には学徒3,000人と言われ、事実上日本の最高学府となる。儒学を中心に史学易学・医学・兵学など教える。

  • 832(天長9)年 小野篁(31歳)足利学校創立が『鎌倉大草紙』・『下毛埜州学校来由記』に記される(足利学校創立の諸説の一つ)。

 

  • 建久年間(1190年 - 1199年) 足利義兼(37-46歳)、足利学校創立が『鑁阿寺文書』に記される(足利学校創立の諸説の一つ)。

日本における近世学校の発端は、室町時代より認められる。

 

  • 1432(永享4)年 上杉憲実(23歳)、足利領主に。室町前期に衰退した足利学校の再興に尽力。鎌倉円覚寺の僧快元を初代庠主に招く。蔵書寄贈。

  • 1438(永享10)年10月 上杉憲実(29歳)、武蔵分倍河原に着陣、先鋒の一色軍を破る。旧主を攻めることをよしとせず、家宰・長尾忠政が代わりに兵を進める。鎌倉軍は幕府軍に敗れ、足利持氏は出家して永安寺に。幕府に旧主・足利持氏の助命と足利義久の関東公方就任を再三再四嘆願するも、足利義教はこれを許さず。足利持氏を殺すよう命じられる。足利持氏・義久父子の成敗を固辞する姿勢から嫌疑がかけられたため、このままでは自らも攻め滅ぼされるか自害に追い込まれると覚悟。足利学校に五経疏本・孔子図など書籍や絵画を寄進、身辺整理を行う。

  • 1447(文安4)年 上杉憲実(38歳)、足利荘及び足利学校に対し、3か条の規定を定める。足利学校で教えるべき学問を『三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選』のみと限定。「仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべき」とし、仏教色を排す。教育の中心は儒学であったが、初代庠主・僧快元が『易経』のみならず易学にも精通、易学を学ぶために訪れる者も多く、また兵学、医学なども教える。

 

  • 享禄年間(1530年頃)、火災で一時的に衰退。第7代庠主・九華、北条氏政の保護を受けて再興。学徒3,000人と全盛期を迎える。

  • 1549(天文18)年、足利学校の隆盛について、キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記す。海外まで名が伝わる。

  • 1587(天正15)年、足利学校の隆盛について、ルイス・フロイスが『日本史』に「坂東随一の大学」と記す。

  • 1590(天正18)年、豊臣秀吉、小田原征伐。後北条氏と足利長尾氏が滅び、庇護者を失うことに。財源であった所領が奪われ、古典籍を愛した豊臣秀次によって蔵書の一部が京都に持ち出されそうになる。第9代庠主三要、関東の新領主である徳川家康に近侍、信任を受け、保護を得て足利学校を守り通す。

  • 江戸時代前期 - 中期、第9代庠主・三要が徳川家康の信任を受け、京都伏見・瑞巖山圓光寺の開山となる。徳川家康の下で詩経の講義、漢籍の出版、近畿地方の寺院の統制、外交文書の作成等に活躍。幕府より100石の朱印地を賜る。毎年初めにその年の吉凶を占った年筮を幕府に提出。足利領主たちによっても保護を受け、足利近郊の人々が学ぶ郷学として、2度目の繁栄を迎える。

1790(寛政2)年7月6日(旧暦・5月24日) 寛政異学の禁

江戸幕府老中・松平定信による教学政策。8代将軍・徳川吉宗が理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、古学や折衷学派などが流行したこともあり、朱子学は不振。湯島聖堂の廃止も検討される状況にあった。天明の大飢饉で低下した幕府の維新を取り戻すため、松平定信は儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させるべく学問統制。当時流行していた古文辞学や古学について、風俗を乱すものとして規制。学問所(後に昌平坂学問所)をはじめ、幕府教育機関における朱子学以外の異学の講義を禁じた。

林家の私塾であった学問所を林家から切り離し、聖堂学規や職制を制定、幕府直轄の教育機関とする。1792(寛政4)年9月、湯島聖堂仰高門内に講舎落成。旗本・家人を問わず、幕臣とその子弟の学問吟味を行う。

朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系(新儒教)である。万物は宇宙の理想的なあり方を示す善や真の概念「理」と現実世界の諸現象「気」から成るとし(理気二元論)、「理」である理性・道徳により、「気」としての現実を支配することを理想とした。江戸幕府が朱子学を正学(官学)と定めた背景には、政権の安定と支配層の再生産について、「理」を四民の身分秩序にあると定義(上下定分の理)し、身分制度を知的・理念的側面から支えたい思惑があった。武士が学ぶべき学問として、思想体系・教育環境の整備を図る。一方で現実の「気」に重きを置き、実践を重視(知行合一)した陽明学は反体制的な行動を誘引する恐れがある学問とされ、日本だけでなく東アジアの多くの体制下で異端・異教として扱われた。

  • 江戸時代中期 - 後期、京都より関東に伝えられた朱子学の官学化により、易学中心となっていた足利学校は衰退。貴重な古典籍を所蔵する図書館としての役割となる。

1797(寛政9)年 昌平坂学問所(昌平黌)設立

学舎の敷地拡張、昌平坂学問所(昌平黌)設立。外部より尾藤二洲古賀精里を教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可される。柴野栗山尾藤二洲古賀精里の3名は寛政の三博士」と呼ばれる。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

  • 明治維新後、足利藩の管理に。藩校とすることで復興を図るも、1871(明治4)年廃藩置県により管理が足利県(現・栃木県)に。1872(明治5)年、廃校。

足利学校年表

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