ダイガクコトハジメ - 長與專齋
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大村藩校・五教館
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長與專齋
ながよせんさい
1838(天保9)年10月16日(旧暦・8月28日) - 1902(明治35)年9月8日
適塾(適々斎塾)第11代塾頭、長崎府医学校(現・長崎大学)初代学頭、東京医学校(現・東京大学医学部)校長、東京大学医学部綜理心得、内務省衛生局初代局長、大日本私立衛生会(現・日本公衆衛生協会)創立・副会頭、貴族院勅選議員、岩倉遣欧使節団
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1838(天保9)年10月16日(旧暦・8月28日) 長與專齋(1歳)、肥前国大村藩(現・長崎県大村市)に代々仕える漢方医・長与中庵の子として生まれる。
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長與專齋、大村藩校・五教館に学ぶ。
1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令
漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。
翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。
1853(嘉永6)年 安政の改革
黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所を設置。
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1855(安政2)年 福澤諭吉(21歳)、学問の上達を妬む奥平壱岐の姦計により、中津へ呼び戻されそうになるも、帰藩の意なし。長崎から大坂を経て、江戸へ出る計画を強行。大坂堂島浜の豊前国中津藩蔵屋敷に務める兄・福澤三之助を訪ねる。「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶことに。中津藩蔵屋敷に居候しながら、蘭学者・緒方洪庵の下で学ぶことに。3月9日、適塾(適々斎塾)入門。
1855(安政2)年 長崎海軍伝習所設立
ペリー来航後間もなく、海防強化を急務とする江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を決定。オランダ商館長の勧めにより、海軍士官養成のための教育機関設立を決める。長崎奉行を通じ、オランダから練習艦として帆船(後の観光丸)の寄贈を受ける。併せて、オランダ人教官隊を招聰。長崎奉行所西屋敷(現・長崎市江戸町)に長崎海軍伝習所設立。総監理に永井尚志。
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長崎海軍伝習所、オランダ人教官よりオランダ語学をはじめ、航海術・造船学・砲術・測量術・機関学などが教授される。またその基礎として、西洋数学・天文学・地理学なども授けられる。幕府関係者のほか、諸藩からも多数の者が伝習に参加。これらの人々の中から、勝海舟(勝麟太郎)・榎本武揚ら幕臣、五代友厚・佐野常民ら諸藩士など、幕末維新期の指導的人材を数多輩出する。
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1857(安政4)年11月12日、長崎海軍伝習所にて、第二次海軍伝習隊と共にオランダ軍医・ポンペ(Pompe Van Meerdervoot)が来日。医学伝習所(後に長崎医学校、現・長崎大学医学部)創立。幕府医官・松本良順ら12名に医学講義を行う。西洋医学の伝習が始められ、江戸とならび長崎が幕末における西洋医学の中心に。西洋医学のほか、化学・物理学・生理学等も授けられ、物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学の始まりとなる。
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1857(安政4)年 福澤諭吉(23歳)、最年少で適塾(適々斎塾)第10代塾頭に。オランダ語の原書を読み、あるいは筆写、その記述に従って化学実験、簡易な理科実験などを行う。生来血を見るのが苦手であり、瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さず。
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岡見清熙、江戸中津藩邸内にて蘭学塾(慶應義塾大学の源流)設立。蘭学教師について、投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を杉亨二、松木弘安(寺島宗則)に依頼。一方、幕府において勝海舟が台頭。大砲も判り、勝海舟とも通じる適塾塾頭・福澤諭吉に白羽の矢を立てる。
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1858(安政5)年 福澤諭吉(24歳)、中津藩江戸藩邸に設立された蘭学塾(慶應義塾大学の源流)の講師を任されることに。適塾(適々斎塾)を去る。塾頭後任に、長與專齋を指名。古川正雄(古川節蔵)・原田磊蔵を伴う。築地鉄砲洲の奥平家中屋敷に住み込み、蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の鳩居堂から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。
1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立
江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎・伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫・林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所(東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎。
1858(安政5)年7月 蘭方医解禁令
幕府医師の和蘭兼学を認める。蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に登用される。
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長與專齋、大村藩侍医となる。
1861(万延2/文久元)年1月 西洋医学所発足
種痘所が幕府直轄に。西洋医学所(現・東京大学医学部)に改称。教授・解剖・種痘の三科に分かれ、西洋医学を教授・実践する場となる。初代頭取に、大槻俊斎。
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1861(万延2/文久元)年9月 松本良順(30歳)、コレラ流行を踏まえ、長崎奉行所に衛生行政の重要性を訴える。病院設立の必要を説き、幕府がこれに応じる。長崎に124床のベッドを持つ日本初の近代西洋医学病院・小島養生所開院。ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらない、極めて民主的なものであった。あわせて医学伝習所をここに移転、医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)として併設。初代頭取に。
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1861(万延2/文久元)年 長與專齋(24歳)、長崎の医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)にて、オランダ人医師ポンペより西洋医学を学ぶ。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事、医学教育近代化の必要性を諭される。
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1862(文久2)年 緒方洪庵(53歳)、幕府より西洋医学所頭取として出仕要請。健康上の理由から一度は固辞するも、度重なる要請を受けて江戸出仕。奥医師兼西洋医学所第2代頭取に。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙、島村鼎甫ら7名を推薦。
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1862(文久2)年12月16日 伊東玄朴(62歳)、蘭方医として初めて法印に進み、長春院と号す。名実共に、蘭方医の頂点に立つ。
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1862(文久2)年12月 緒方洪庵(53歳)、法眼に叙せられる。富と名声を得るも、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しむ。さらに、蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じてピストルを購入。
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1862(文久2)年、医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)、ポンぺがオランダ帰国。後任として、同じくオランダ軍医・ボードウィン(A.F Baudin)が教頭就任。
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1863(文久3)年7月 松本良順(32歳)、緒方洪庵の後任として、医学所(現・東京大学医学部)第3代頭取就任。適塾(適々斎塾)式を廃止、ポンぺ式に刷新。教育内容、教育方法の大改革を断行。「専ら究理、舎密、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」。適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。
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1863(文久3)年12月26日 松本良順(32歳)、奥医師となる。
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1863(文久3)年 相良知安(28歳)、医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)にてオランダ人医師ボードインより医学を学ぶ。
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1864(文久4/元治元)年5月9日 松本良順(33歳)、法眼に叙せらる。
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1864(文久4/元治元)年 - 1868(慶応4/明治元)年 池田謙斎(24-28歳)、幕府の命にて、長崎遊学。長崎精得館にて、ボードウィンらに学ぶ。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・
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1868(慶応4/明治元)年 松本良順(37歳)、戊辰戦争、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となる。会津戦争後、仙台にて降伏。一時、投獄。戦乱により医学所は休止状態に。
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
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1868(慶応4/明治元)年5月 長與專齋(31歳)、長崎精得館(後に長崎府医学校、現・長崎大学)の医師頭取に。
1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都
江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。
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1869(明治2)年1月 相良知安(34歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。強引なドイツ医学の採用の進言の経緯より、ウィリスを推していた西郷隆盛、山内容堂の体面をつぶし、薩摩閥、土佐閥の恨みを受ける。
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明治維新後、それまでの医学校では日本人教師によりオランダ医学を教えていたが、イギリス人教師によるイギリス医学が取り入れられる。しかし、ドイツ医学が優秀であることを認め、ドイツ医学を中心とすることに方針転換。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
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1870(明治3)年、明治新政府がドイツ医学修得を命じ、池田謙斎・大沢謙二・長井長義ら9名が国費留学。
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1870(明治3)年 - 1876(明治9)年 池田謙斎(30-36歳)、プロイセン王国留学を命じられる。ベルリン大学入学、ドイツ医学修得。
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1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。
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1871(明治4)年8月、大学東校にドイツ人教師ミュルレルとホフマンの招聘が実現、来任。ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる。日本の医学教育制度構築の全権を託す。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団
岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。
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1871(明治4)年 長與專齋(34歳)、岩倉遣欧使節団の一員として渡欧。ドイツやオランダの医学および衛生行政を視察。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、長崎医学校は中学校へと改組。第六大学区医学校(後に第五大学区医学校)に。
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1872(明治5)年10月8日 相良知安(37歳)、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)初代校長に。『医制略則』起案。今日まで続く医学制度の基礎に。
1873(明治6)年4月 学制二編追加
「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。
「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。
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1873(明治6)年4月、学制二編追加に伴い、第一大学区医学校は専門学校へと改組。
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1874(明治7)年 長與專齋(37歳)、相良知安の草案を基に、医療制度や衛生行政に関する各種規定を定めた『医制76ヶ条』公布。
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1874(明治7)年 長與專齋(37歳)、東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)創設。
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1874(明治7)年10月12日、台湾出兵により病院設備のみが蕃地事務局病院に改編、第五大学区医学校閉校。
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1875(明治8)年 長與專齋(38歳)、医務局が文部省から内務省に移管されると、衛生局と改称。初代局長就任。コレラなど伝染病の流行に対し、衛生工事を推進、また衛生思想の普及に尽力。「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長與專齋が採用したもの。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年4月13日 加藤弘之(42歳)、東京大学法・理・文三学部綜理に。
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1877(明治10)年4月13日 長與專齋(40歳)、東京大学医学部綜理心得に。
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1883(明治16)年 長與專齋(46歳)、内務卿・山縣有朋と肌が合わず、衛生局の業務に支障をきたす。軍医本部次長・石黒忠悳が兼務で衛生局次長に迎えられる。
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1883(明治16)年 石黒忠悳(39歳)、内務省衛生局長・長與專齋と不仲となった内務卿・山縣有朋に迎えられ、軍医本部次長と兼務で衛生局次長に。衛生局内で長與專齋に劣らない力を持つに至る。
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1883(明治16)年 長與專齋(46歳)、石黒忠悳の紹介で、愛知医学校長兼愛知病院長であった後藤新平を見出す。衛生局に採用。
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1883(明治16)年 北里柴三郎(31歳)、医学士に。東京大学医学部在学中、「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とすることを決意。『医道論』を書く。卒業後、長與專齋が局長を務める、内務省衛生局に入省。
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1885(明治18)年 北里柴三郎(33歳)、熊本医学校の同期生、東京大学医学部教授兼衛生局試験所所長・緒方正規の計らいにより、ドイツ・ベルリン大学へ留学。コッホに師事し業績を上げる。
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1886(明治19)年4月27日 長與專齋(49歳)、元老院議官に。
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1890(明治23)年9月29日 長與專齋(53歳)、貴族院勅選議員に選任される。
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1890(明治23)年 石黒忠悳(46歳)、陸軍軍医総監に昇進。陸軍軍医の人事権を握る。陸軍省医務局長に就任。
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1890(明治23)年 北里柴三郎(38歳)、血清療法をジフテリアに応用。同僚・ベーリングと連名で『動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について』という論文を発表。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に名前が挙がるも、結果は抗毒素という研究内容を主導していた自身でなく、共同研究者のベーリングのみの受賞となる。
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1891(明治24)年 長與專齋(54歳)、衛生局長を退任。退任後も、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任。
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1892(明治25)年 北里柴三郎(40歳)、論文をきっかけに、欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受ける。「国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことである」と、これらを固辞。日本に帰国。ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする帝国大学医科大学教授・緒方正規の説に対し、脚気菌ではないと批判を呈したことで、母校・帝国大学医科大学と対立する形に。日本での活躍が限られてしまう。
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1892(明治25)年 福澤諭吉(58歳)、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎を受け入れる機関が日本になく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。この事態を憂慮。私財投じ、森村市左衛門・長與專齋らと共に私立伝染病研究所および結核専門病院・土筆ヶ岡養生園設立を支援。
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1892(明治25)年10月 北里柴三郎(40歳)、福澤諭吉・森村市左衛門・長與專齋の支援により、日本で最初の伝染病研究所となる私立伝染病研究所設立。初代所長に。伝染病予防と細菌学の研究に取り組む。
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1892(明治25)年11月 北里柴三郎(40歳)、私立伝染病研究所が長與專齋が副会頭を務める大日本私立衛生会附属に。年間3,600万円の財政支援を受ける。芝区愛宕町の内務省用地を借り受け、新築移転。
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1892(明治25)年 長與專齋(55歳)、衛生行政の後継者として後藤新平を衛生局長に据える。しかし、後藤新平が相馬事件に連座して失脚すると、これを見限る。以後は石黒忠悳が医学界における後藤新平の後ろ盾となる。
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石黒忠悳、相馬事件で後藤新平が衛生局長を非職。長與專齋と異なり失脚しても見捨てず、その後ろ盾となる。日清戦争の検疫事業を担当させることを陸軍次官兼軍務局長・児玉源太郎に提案。
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1893(明治26)年 北里柴三郎(41歳)、福澤諭吉より私有地の提供を受け、白金三光町に日本で最初の結核専門病院・土筆ケ岡養生園設立。結核予防と治療に尽力。
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1899(明治32)年3月 北里柴三郎(47歳)、「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」との信念により、研究所を内務省管轄に。国立伝染病研究所となる。所長に。
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1902(明治35)年9月8日 長與專齋(65歳)、死去。享年65歳。
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