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ダイガクコトハジメ - 黒田清輝

黒田清輝

 

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黒田清輝

くろだせいき

1866(慶応2)年8月9日(旧暦・6月29日) - 1924(大正13)年7月15日

西洋画科、東京美術学校(現・東京藝術大学美術部)西洋画科主任教授、東京高等商業学校(現・一橋大学)講師、帝室技芸員、第2代帝国美術院院長、貴族院議員

「黒田清輝」に関する書籍 [外部]

  • 1866(慶応2)年8月9日(旧暦・6月29日) 黒田清輝(1歳)、薩摩国鹿児島城下(現・鹿児島県鹿児島市)に薩摩藩士・黒田清兼の子として生まれる。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1871(明治4)年 黒田清輝(6歳)、伯父の子爵・黒田清綱(嘉右衛門)の養子に。

  • 1872(明治5)年 黒田清輝(7歳)、上京。平河学校入学。後の児童文学者・巌谷小波や商法学者・高根義人、能書家・宮島詠士らと親交。その交流は終生続く。

  • 黒田清輝、漢学塾・二松學舍に学ぶ。

  • 1876(明治9)年、工学寮工学校内に、日本最初の美術教育機関・工部美術学校設立。ルネサンス美術の中心地であるイタリアより、お雇い外国人が起用される。画学科・彫刻科の二科設置。純粋な西洋美術教育のみの機関であり、日本画や木彫は行われなかった。

  • 1878(明治11)年 黒田清輝(13歳)、高橋由一の門人・細田季治につき、鉛筆画ならびに水彩画を学ぶ。

  • 1878(明治11)年 松岡壽(17歳)、アントニオ・フォンタネージ帰国。後任教師フェレッチの指導に飽き足らず、浅井忠と共に工部美術学校退学。洋画家初の団体、十一会結成。

  • 黒田清輝、受験予備校・共立学校入学。すぐに築地英学校転校。

  • 1880(明治13)年 - 1888(明治21)年 松岡壽(19-27歳)、ローマ留学。国立ローマ美術学校入学。チェーザレ・マッカリに絵画を学ぶ。1887(明治20)年、国立ローマ美術学校卒業。パリに移る。

  • 1882(明治18)年 - 1883(明治19)年、アーネスト・フェノロサの提言などもあり、日本美術の再評価が行われる。国粋主義が台頭。西洋美術教育・工部美術学校廃校。

  • 1883(明治16)年 黒田清輝(18歳)、寺尾寿にフランス語を学ぶ。東京外国語学校入学。フランス語科二年級に編入。

  • 1884(明治17)年2月 - 1893(明治26)年7月 黒田清輝(19-28歳)、法律を学ぶことを目的に渡仏留学。パリで画家・山本芳翠や藤雅三、美術商・林忠正に出会う。1886(明治19)年、井上哲次郎に諭され、美術家転向を決意。久米桂一郎と共に、アカデミー・コラロッシのラファエル・コランに師事。フランスの展覧会にて1891(明治24)年に『読書』、1893(明治26)年に『朝妝』が入賞。

  • 1885年(明治18)年、太政官制度廃止により内閣制度発足。工部省が廃止され、逓信省と農商務省に分割・統合。工部大学校文部省に移管される。

  • 1886(明治19)年-1887(明治20)年 岡倉天心(24-25歳)文部省図画取調掛委員として、フェノロサと共に美術教育全般に関わる調査を目的に欧米調査旅行。東京美術学校を構想。日本美術に触発されたアールヌーヴォー運動の高まりを見て、日本画推進の意をさらに強くする。

  • 1887(明治20)年10月 九鬼隆一(36歳)、帰国。宮内省図書頭に。臨時全国宝物取調掛を設置、自ら委員長となる。フェノロサや岡倉天心が委員を務め、文化財の調査・保護に当たる。

  • 1889(明治22)年2月、東京美術学校開校。日本最初の美術教員・美術家養成のための機関であり、当初は文人画を除く伝統的日本美術の保護・振興を目的とする。教官に黒川真頼・橋本雅邦・小島憲之・川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲ほか。修業年限2年の普通科と3年の専修科から構成。後に西洋画・図案・彫塑など西洋美術の教育も加わる。

  • 1889(明治22)年、国立の美術教育機関・東京美術学校が開校するも、西洋美術が排される。欧化政策の反動から国粋主義が台頭、1883(明治19)年に廃校した工部美術学校出身の西洋美術作家達を中心に、当時の洋画家ほぼ全員約80名が大同団結、明治美術会発足。当初は、反東京美術学校の一面を備えていた。後に1893(明治26)年にフランスより帰国した黒田清輝・久米桂一郎入会。

  • 1889(明治22)年 松岡壽(28歳)、西洋美術作家達が大同団結、浅井忠らと明治美術会を組織する。会の運営にあたる。印象派風の新画風で新派・外光派(紫派)と呼ばれた黒田清輝に対し、工部美術学校系の西洋画家は旧派・脂派と呼ばれる。藤島武二ら多くの後進を指導。

  • 1890(明治23)年10月7日 岡倉天心(28歳)東京美術学校校長に。日本美術史を講義、日本美術史叙述の嚆矢とされる。副校長にフェノロサ。福田眉仙・横山大観・下村観山・菱田春草・西郷孤月らを育てる。

  • 1894(明治27)年10月 黒田清輝(29歳)、芳翠の生巧館を譲り受け、久米桂一郎と共に洋画研究所・天心道場開設。後進の指導にあたる。印象派の影響を取り入れた新派・外光派と呼ばれる作風を確立。

  • 1894(明治27)年11月 - 1895(明治28)年2月 黒田清輝(29-30歳)、日清戦争に従軍。

  • 1895(明治28)年3月 黒田清輝(30歳)、第4回内国勧業博覧会審査員に。フランスで入選した全裸で立つフランス女性を描いた『朝妝』を出展、裸体画論争が起こる。

  • 1896(明治29)年、東京美術学校、伝統美術に限定されない、より幅広い教育内容が求められるように。西洋画科・図案科を新設。西洋画科の教官に、黒田清輝・藤島武二・和田英作・岡田三郎助ら。図案科の教官に、福地復一・横山大観・本多天城らが就任。この頃より、岡倉天心校長の専権的な学校運営に対する批判が起こるように。

  • 1896(明治29)年5月 黒田清輝(31歳)、東京美術学校に西洋画科が新設される。西洋画科講師に。西洋画科主任となり、本格的なフランス式の美術教育を指導開始。

  • 1896(明治29)年6月 黒田清輝(31歳)、明治美術会脱退。白馬会結成。洋画研究所設立。明治美術会は次第に勢力が衰え、1901(明治34)年に廃止。

  • 1898(明治31)年 岡倉天心(36歳)、自身の長年の後援者であった文部官僚・九鬼隆一の妻・九鬼波津子との不倫が公に。東京美術学校での専権的な学校運営に対する批判も表面化。帝室博物館美術部長東京美術学校校長を罷免される。教師陣は、黒田清輝ら西洋画科を除き全教師が一斉辞職を決議。橋本雅邦・西郷孤月・菱田春草・寺崎広業・横山大観・岡部覚弥・桜岡三四郎が辞職。辞職教官と共に、日本美術院を下谷区谷中大泉寺に発足(美術学校騒動)。

  • 1898(明治31)年3月29日 高嶺秀夫(45歳)、日本の伝統美術に造詣が深く、浮世絵の収集は、3千点以上に及ぶ。浮世絵の研究を通じ、伝統美術の保護を進めたフェノロサ・岡倉天心とも親交を結んでいた。岡倉天心の美術学校騒動による罷免を受け、後任として東京美術学校校長に。教授陣の復職についても一任され、騒動を収拾。

  • 1900(明治33)年 黒田清輝(35歳)、白馬会展に展示の『裸体婦人像』が警察によって咎められる。絵の下半分が布で覆われる腰巻事件が起きる。

  • 1900(明治33)年 - 1901(明治34)年 黒田清輝(35-36歳)、再び渡仏。パリ万国博覧会に『智・感・情』・『湖畔』など5作品出展。『智・感・情』が銀賞。イタリア・ドイツ・ロンドン回遊。

  • 1900(明治33)年 - 1901(明治34)年 坪井玄道(49-50歳)黒田清輝や瀧廉太郎らと共に、イギリス・フランス・ドイツ・アメリカに欧米留学。体操研究。

  • 1901(明治34)年 正木直彦(40歳)岡倉天心辞職後の東京美術学校にて、校長就任。以後30年長にわたる長期間校長を務め、校正改革。画家・作家揃いの教授陣の統制は困難を極めるも、各派調停。制度・組織が安定。

  • 1901(明治34)年11月21日 松岡壽(40歳)、明治美術会、解散に追い込まれる。

  • 1905(明治38)年 黒田清輝(40歳)、東京高等商業学校講師兼務。久米桂一郎らと共に、フランス語を教える。ポール・ジャクレーにデッサン・油絵を教える。

  • 1906(明治39)年 正木直彦(45歳)黒田清輝・大塚保治らと共に、政府による芸術振興を建議。これを受け、翌1907(明治40)年に第1回文部省展覧会(文展)が開催されることに。文展委員主事に。委員長は文部次官・澤柳政太郎。

  • 1907(明治40)年3月 黒田清輝(42歳)、東京勧業博覧会審査員に。

  • 1907(明治40)年8月 黒田清輝(42歳)、文展審査委員に。

  • 1910(明治43)年10月18日 黒田清輝(45歳)、洋画家として初めて、帝室技芸員に選ばれる。

  • 1913(大正2)年 黒田清輝(48歳)、新設の国民美術協会会頭に。

  • 1913(大正2)年 松岡壽(52歳)、国民美術協会設立に理事として参加。

  • 1917(大正6)年 黒田清輝(52歳)、養父・黒田清綱死去。子爵を襲爵。

  • 1920(大正9)年 黒田清輝(55歳)、第5回貴族院子爵議員互選選挙に当選、貴族院議員に。美術行政に活躍。

  • 1922(大正11)年2月 黒田清輝(57歳)、フランス政府よりクロワ・デュ・コマンズール・エトワール・ノワル勲章を受勲。

  • 1922(大正11)年7月 黒田清輝(57歳)、森鴎外の後を受け、第2代帝国美術院院長に。

  • 1923(大正12)年2月 黒田清輝(58歳)、フランス政府よりコマンズール・ド・ロルドル・ナショナル・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を受勲。

  • 1924(大正13)年5月 黒田清輝(59歳)、フランス政府よりグラン・クロワ・ドラゴン・ド・ランナン勲章を受勲。

  • 1924(大正13)年7月15日 黒田清輝(59歳)、死去。享年59歳。遺志により、美術研究所(現・東京文化財研究所美術部)が創設される。

出身校

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参考情報

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