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文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。
大学事始 | 青空文庫 | 書の中の大学Blog
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慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -25
ソレから明治十五年に時事新報と云《い》う新聞紙を発起しました。丁度《ちょうど》十四年政府変動の後で、慶応義塾先進の人達が私方に来て頻《しき》りにこの事を勧める。私も亦《また》自分で考えて見るに、世の中の形勢は次第に変化して、政治の事も商売の事も日々夜々運動の最中、相互《あい...


慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -24
勤王佐幕など云《い》う喧《やかま》しい議論は差置き、維新政府の基礎が定まると、日本国中の士族は無論、百姓の子も町人の弟も、少しばかり文字《もんじ》でも分る奴は皆役人になりたいと云う。仮令《たと》い役人にならぬでも、兎《と》に角《かく》に政府に近づいて何か金儲でもしようと云う...


慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -23
私の考《かんがえ》は塾に少年を集めて原書を読ませる計《ばか》りが目的ではない。如何様《いかよう》にもしてこの鎖国の日本を開《ひらい》て西洋流の文明に導き、富国強兵|以《もっ》て世界中に後《おく》れを取らぬようにしたい。 左《さ》りとて唯《ただ》これを口に言うばかりでなく、近...


慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -22
慶応義塾が芝《しば》の新銭座《しんせんざ》を去て三田の只《ただ》今の処に移《うつっ》たのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。 その前年五月私が酷《ひど》い熱病に罹《かか》り、病後神経が過敏になった所為《せい》か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。...


慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -21
畢竟《ひっきょう》私がこの日本に洋学を盛《さかん》にして、如何《どう》でもして西洋流の文明富強国にしたいと云う熱心で、その趣は慶応義塾を西洋文明の案内者にして、恰《あたか》も東道の主人と為《な》り、西洋流の一手販売、特別エゼントとでも云うような役を勤めて、外国人に頼まれもせ...


慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -20
新銭座《しんせんざ》の塾は幸に兵火の為《た》めに焼けもせず、教場もどうやらこうやら整理したが、世間は中々|喧《やかま》しい。明治元年の五月、上野に大《おお》戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席《よせ》も見世物も料理茶屋も皆休んで仕舞《しまっ》て、八百八町は真の闇、...


慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -19
扨《さて》鉄砲洲《てっぽうず》の塾を芝《しば》の新銭座《しんせんざ》に移したのは明治元年|即《すなわ》ち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取《とっ》て慶応義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第に盛《さかん》になる。塾が盛になって生徒が多くな...


慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -18
扨《さて》四月になった所で普請も出来上り、塾生は丁度慶応三年と四年の境が一番諸方に散じて仕舞《しまっ》て、残《のこっ》た者は僅《わずか》に十八人、夫れから四月になった所が段々|帰《かえっ》て来て、追々塾の姿を成して次第に盛《さかん》になる。又盛になる訳《わ》けもある、と云《...


学生(~江戸幕末) | 『福翁自伝』福沢諭吉 -17
井伊掃部頭《いいかもんのかみ》はこの前殺されて、今度は老中の安藤対馬守《あんどうつしまのかみ》が浪人に疵《きず》を付けられた。その乱暴者の一人が長州の屋敷に駈込《かけこ》んだとか何とか云《い》う話を聞て、私はその時始めて心付いた、成るほど長州藩も矢張《やは》り攘夷の仲間に這...


慶応義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -16
亜米利加《アメリカ》から帰《かえっ》てから塾生も次第に増して相替《あいかわ》らず教授して居る中《うち》に、私は亜米利加渡航を幸《さいわい》に彼の国人《こくじん》に直接して英語ばかり研究して、帰てからも出来るだけ英書を読むようにして、生徒の教授にも蘭書は教えないで悉《ことごと...


長崎海軍伝習所 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -15
ソレカラ私が江戸に来た翌年、即《すなわ》ち安政六年冬、徳川政府から亜米利加《アメリカ》に軍艦を遣《や》ると云《い》う日本|開闢《かいびゃく》以来、未曾有《みぞう》の事を決断しました。 扨《さて》その軍艦と申しても至極《しごく》小さなもので、蒸気は百馬力、ヒユルプマシーネと申...


蕃書調所 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -14
その前に私が横浜に行《いっ》た時にキニツフルの店で薄い蘭英会話書を二冊|買《かっ》て来た。ソレを独《ひとり》で読《よむ》とした所で字書《じしょ》がない。英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分|一人《ひとり》で解《げ》することが出来るから、どうか字書を欲《ほし》いものだと云《い...


慶應義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -13
扨《さて》又|此処《ここ》に大《だい》不安心な事が生じて来た。私が江戸に来たその翌年、即《すなわ》ち安政六年、五国《ごこく》条約と云《い》うものが発布になったので、横浜は正《まさ》しく開《ひら》けた計《ばか》りの処、ソコデ私は横浜に見物に行《いっ》た。その時の横浜と云うもの...


慶應義塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -12
私が大阪から江戸へ来たのは安政五年、二十五歳の時である。同年、江戸の奥平《おくだいら》の邸《やしき》から、御用《ごよう》があるから来いと云《いっ》て、私を呼《よび》に来た。それは江戸の邸に岡見彦曹《おかみひこぞう》と云《い》う蘭学|好《ずき》の人があって、この人は立派な身分...


適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -11
緒方の書生は学問上の事に就《つい》ては一寸《ちょい》とも怠《おこた》ったことはない。その時の有様《ありさま》を申せば、江戸に居た書生が折節《おりふし》大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪から態々《わざわざ》江戸に学びに行くと云うものはない。行けば則《すなわ》ち教えると云う...


適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -10
ヅーフの事に就《つい》て序《ついで》ながら云うことがある。如何《どう》かするとその時でも諸藩の大名がそのヅーフを一部写して貰《もら》いたいと云う注文を申込《もうしこん》で来たことがある。ソコでその写本と云うことが又書生の生活の種子《たね》になった。...


適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -9
凡《およ》そ斯《こ》う云う風《ふう》で、外に出ても亦《また》内に居ても、乱暴もすれば議論もする。ソレ故|一寸《ちょい》と一目《いちもく》見た所では――今までの話だけを開《きい》た所では、如何《いか》にも学問どころの事ではなく唯《ただ》ワイ/\して居たのかと人が思うでありまし...


適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -8
扨《さて》その写本の物理書、医書の会読《かいどく》を如何《どう》するかと云うに、講釈の為人《して》もなければ読んで聞かして呉《く》れる人もない。内証《ないしょ》で教えることも聞くことも書生間の恥辱《ちじょく》として、万々一も之《これ》を犯す者はない。唯《ただ》自分|一人《ひ...


適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -7
塾で修行するその時の仕方《しかた》は如何《どう》云《い》う塩梅《あんばい》であったかと申すと、先《ま》ず始めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何《どう》して教えるかと云うと、その時江戸で飜刻《ほんこく》になって居る和蘭《オランダ》の文典が二冊ある。一をガランマチ...


適塾 | 『福翁自伝』福沢諭吉 -6
塾員は不規則と云《い》わんか不整頓と云わんか乱暴|狼藉《ろうぜき》、丸で物事に無頓着《むとんじゃく》。その無頓着の極《きょく》は世間で云《い》うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止《と》めない。例えば、塾の事であるから勿論《もちろん》桶《おけ》だの丼《どんぶり》だの皿など...
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