ヅーフの事に就《つい》て序《ついで》ながら云うことがある。如何《どう》かするとその時でも諸藩の大名がそのヅーフを一部写して貰《もら》いたいと云う注文を申込《もうしこん》で来たことがある。ソコでその写本と云うことが又書生の生活の種子《たね》になった。
当時の写本代は半紙一枚十行二十字詰で何文《なんもん》と云う相場である。処《ところ》がヅーフ一枚は横文字三十行|位《くらい》のもので、夫《そ》れだけの横文字を写すと一枚十六|文《もん》、夫れから日本文字で入れてある註の方を写すと八文、只《ただ》の写本に較《くら》べると余程《よほど》割りが宜《よろ》しい。一枚十六文であるから十枚写せば百六十四文になる。註の方ならばその半値《はんね》八十文になる。註を写す者もあれば横文字を写す者もあった。ソレを三千枚写すと云うのであるから、合計して見ると中々大きな金高《きんだか》になって、自《おのず》から書生の生活を助けて居ました。
今日《こんにち》より考《かんがう》れば何でもない金のようだけれども、その時には決してそうでない。一例を申せば白米《はくまい》一石《いっこく》が三分二朱《さんぶにしゅ》、酒が一升《いっしょう》百六十四文から二百文で、書生在塾の入費《にゅうひ》は一箇月一分貳|朱《しゅ》から一分三朱あれば足る。一分貳朱はその時の相場で凡《およ》そ二貫《にかん》四百文であるから、一日が百文より安い。然《しか》るにヅーフを一日に十枚写せば百六十四文になるから、余る程あるので、凡そ尋常一様の写本をして塾に居られるなどゝ云《い》うことは世の中にないことであるが、その出来るのは蘭学書生に限る特色の商売であった。
引用:『福翁自伝』福沢諭吉
初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。