緒方の書生は学問上の事に就《つい》ては一寸《ちょい》とも怠《おこた》ったことはない。その時の有様《ありさま》を申せば、江戸に居た書生が折節《おりふし》大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪から態々《わざわざ》江戸に学びに行くと云うものはない。行けば則《すなわ》ち教えると云う方であった。左《さ》れば大阪に限《かぎっ》て日本国中|粒選《つぶえり》のエライ書生の居よう訳《わ》けはない。又江戸に限て日本国中の鈍い書生ばかり居よう訳けもない。然《しか》るに何故《なぜ》ソレが違うかと云うことに就ては考えなくてはならぬ。勿論《もちろん》その時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をして居たけれども、夫《そ》れは人物の相違ではない。江戸と大阪と自《おのず》から事情が違《ちがっ》て居る。
江戸の方では開国の初《はじめ》とは云いながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷と云う者があって、西洋の新技術を求むることが広く且《か》つ急《きゅう》である。従て聊《いささ》かでも洋書を解《げ》すことの出来る者を雇うとか、或《あるい》は飜訳をさせればその返礼に金を与えるとか云うような事で、書生輩が自《おのず》から生計の道に近い。極《ごく》都合の宜《い》い者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百|石《こく》の侍《さぶらい》になったと云《い》うことも稀《まれ》にはあった。
夫《そ》れに引換《ひきかえ》て大阪は丸で町人の世界で、何も武家と云うものはない。従て砲術を遣《や》ろうと云う者もなければ原書を取調べようと云う者もありはせぬ。夫《そ》れゆえ緒方の書生が幾年勉強して何程《なにほど》エライ学者になっても、頓《とん》と実際の仕事に縁がない。即《すなわ》ち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めると云うことにも思い寄らぬので、然《しか》らば何の為《た》めに苦学するかと云えば一寸《ちょい》と説明はない。前途自分の身体《からだ》は如何《どう》なるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、既《すで》に已《すで》に焼けに成《なっ》て居る。
唯《ただ》昼夜苦しんで六《むず》かしい原書を読んで面白がって居るようなもので実に訳《わ》けの分らぬ身の有様《ありさま》とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩《たた》いて見れば、自《おのず》から楽しみがある。之《これ》を一言《いちげん》すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間に限《かぎっ》て斯様《こんな》事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見|看《み》る影《かげ》もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯|貴人《きにん》も眼下《がんか》に見下《みくだ》すと云う気位《きぐらい》で、唯《ただ》六かしければ面白い、苦中有楽《くちゅううらく》、苦即楽《くそくらく》と云《い》う境遇であったと思われる。喩《たと》えばこの薬は何に利《き》くか知らぬけれども、自分達より外《ほか》にこんな苦《にが》い薬を能《よ》く呑《の》む者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっと呑《のん》で遣《や》ると云う位《くらい》の血気であったに違いはない。
兎《と》に角《かく》に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却《かえっ》て仕合《しあわせ》で、江戸の書生よりも能《よ》く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先《ゆくさき》ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。左《さ》ればと云《いっ》て只《ただ》迂闊《うかつ》に本ばかり見て居るのは最も宜《よろ》しくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の行末《ゆくすえ》のみ考えて、如何《どう》したらば立身が出来るだろうか、如何《どう》したらば金が手に這入《はい》るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何《どう》すれば旨い物を喰《く》い好《い》い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪《あくせく》勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は自《みず》から静《しずか》にして居らなければならぬと云う理屈が茲《ここ》に出て来ようと思う。
引用:『福翁自伝』福沢諭吉
初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。