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文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。

慶応義塾 | ​『福翁自伝』福沢諭吉 -22

 慶応義塾が芝《しば》の新銭座《しんせんざ》を去て三田の只《ただ》今の処に移《うつっ》たのは明治四年、是れもの一大改革ですから一通り語りましょう。


 その前年五月私が酷《ひど》い熱病に罹《かか》り、病後神経が過敏になった所為《せい》か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。又《また》事実湿地でもあるから何処《どこ》かに引移りたいと思い、飯倉《いいくら》の方に相当の売家《うりや》を捜出《さがしだ》して略《ほぼ》相談を極《き》めようとするときに、塾の人の申すに、福沢を棄《す》てゝ他に移るならも一緒に移ろうと云う説が起《おこっ》て、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、の人は毎日のように方々《ほうぼう》の明屋敷《あきやしき》を捜して廻《ま》わり、彼処《そこ》でもない此処《ここ》でもないと勝手次第に宜《よ》さそうな地所《じしょ》を見立てゝ、いよ/\芝の三田《みた》にある島原《しまばら》藩の中屋敷が高燥《こうそう》の地で海浜《かいひん》の眺望も良し、には適当だと衆論一決はしたれども、此方《こっち》の説が決した計《ばか》りで、その屋敷は他人の屋敷であるから、之《これ》を手に入れるには東京府に頼み、政府から島原《しまばら》藩に上地《じょうち》を命じて、改めて福沢に貸渡すと云《い》う趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るように拵《こしら》えねばならぬと云うので、時の東京府知事に頼込《たのみこ》むは勿論《もちろん》、私の平生《へいぜい》知《しっ》て居る佐野常民《さのつねたみ》その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、の先進生|※[#「特のへん+怱」、U+3E45、263-4]掛《そうがか》りにて運動する中に、或日《あるひ》私は岩倉《いわくら》公の家に参り、初めて推参なれども御目《おめ》に掛りたいと申込んで公に面会、色々の事情を話して、詰《つま》り島原藩の屋敷を拝借したいと云《い》う事を内願して、是《こ》れも快く引受けて呉《く》れる。


 何処《どこ》も此処《ここ》も至極《しごく》都合の好《よ》い折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たと云うは、当時東京の取締には邏卒《らそつ》とか何とか云う名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲を担《かつ》いで市中を巡廻《じゅんかい》して居るその有様《ありさま》の殺風景とも何とも、丸で戦地のように見える。政府も之《これ》を宜《よ》くないことゝ思い、西洋風にポリスの仕組《しくみ》に改革しようと心付きはしたが、扨《さて》そのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でも宜《よろ》しい、取調べて呉《く》れぬかと、役人が私方に来て懇々内談するその様子は、この取調《とりしらべ》さえ出来れば何か礼をすると云《い》うように見えるから、此方《こっち》は得たり賢し、お易《やす》い御用で御座《ござ》る、早速《さっそく》取調べて上げましょうが、私の方からも願《ねがい》の筋《すじ》がある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田《みた》の島原《しまばら》の屋敷地を拝借いたしたい、是《こ》れ丈《だ》けは厚く御含《おふくみ》を願うと云うは、巡査法の取調と屋敷地の拝借と交易にしようと云うような塩梅《あんばい》に持掛《もちか》けて、役人も否《いな》と云わずに黙諾《もくだく》して帰る。ソレから私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を飜訳《ほんやく》し、綴《つづ》り合せて一冊に認《したた》め早々清書して差出した所が、東京府ではこの飜訳を種《たね》にして尚《な》お市中の実際を斟酌《しんしゃく》し様々に工風《くふう》して、断然|彼《か》の兵士の巡廻《じゅんかい》を廃し、改めて巡邏《じゅんら》と云《い》うものを組織し、後に之《これ》を巡査と改名して東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。


 ソコで東京府も私に対して自《おのず》から義理が出来たような訳《わ》けで、屋敷地の一条もスラ/\行われて、島原の屋敷を上地させて福沢に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にて所謂《いわゆる》大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよ/\を移したのが明治四年の春でした。


 引越《ひきこ》して見れば誠に広々とした屋敷で申分《もうしぶん》なし。御殿を教場にし、長局《ながつぼね》を書生部屋にして、尚《な》お足らぬ処は諸方諸屋敷の古長屋を安く買取《かいとっ》て寄宿舎を作りなどして、俄《にわか》に大きな学塾に為ると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙を以《もっ》て慶応義塾の面目を新《あらた》にしました。


 三田《みた》の屋敷は福沢諭吉の拝借地になって、地租もなければ借地料もなし恰《あたか》も私有地のようではあるが、何分にも拝借と云《い》えば何時《いつ》立退《たちのき》を命じられるかも知れず、東京市中を見れば私同様官地を拝借して居る者は甚《はなは》だ多い、孰《いず》れも不安心に違《ちが》いないと推察が出来る。如何《どう》かして之《これ》を御払下《おはらいさげ》にして貰いたいと様々思案の折柄、当時政府に左院と称して議政局のようなものが立《たっ》て居て、その左院の議員中に懇意《こんい》の人があるからその人に面会、何か話の序《ついで》には拝借地の有名無実なるを説《と》き、等しく官地を使用せしむるならば之を私有地にして銘々《めいめい》に地所保存の謀《はかりごと》を為《な》さしむるに若《し》かずと、頻《しき》りに利害を論じてその人の建言を促したるは毎度の事で、その他政府の筋の人にさえ逢えば同様の事を語るの常なりしが、明治四年の頃、それかあらぬか、政府は市中の拝借地をその借地人|又《また》は縁故ある者に払下げるとの風聞《ふうぶん》が聞える。是《こ》れは妙なりと大《おおい》に喜び、その時東京府の課長に福田と云う人が専《もっぱ》ら地所の事を取扱うと云う事を聞伝《ききつた》え、早速福田の私宅を尋ねて委細の事実を確かめ、いよ/\発令の時には知らして呉《く》れることに約束して、帰宅して日々便りを待《まっ》て居ると、数日の後に至り、今日発令したと報知が来たから、暫時《しばし》も猶予《ゆうよ》は出来ず、翌朝東京府に代理の者を差出し御払下《おはらいさげ》を願うて、代金を上納せんと金を出した処が、府庁にも昨日発令した計《ばか》りで出願者は一人もなし、マダ帳簿も出来ず、上納金請取の書式も出来ずと云《い》うから、その正式の請取は後日の事として今日は唯《ただ》金子《きんす》丈《だ》けの御収納を願うと云《いっ》て、強《し》いて金を渡して仮《か》り御払下の姿を成し、その後、地所代価収領の本証書も下《くだ》りて、いよ/\私の私有地と為《な》り、地券面《ちけんめん》本邸の外に附属の町地面を合して一万三千何百坪、本邸の方は千坪に付き価《あたい》十五円、町地《まちぢ》の方は割合に高く、両様共算して五百何十円とは、殆《ほと》んど無代価と申して宜《よろ》しい。


 その代価の事は兎《と》も角《かく》もとして、斯《か》く私が事を性急にしたのは、この屋敷に久しく住居《じゅうきょ》すればするほどいよ/\ます/\宜《い》い屋敷になって来て、実に東京第一、他に匹敵するものはないと自《みず》から感心して、員と共に満足すると同時に、之《これ》を私有地にすると云《い》えば何か故障の起りそうな事だと、俗に云う虫が知らせるような塩梅《あんばい》で、何だか気になるから無暗に急いで埓《らち》を明けた所が、果して然《しか》り、東京の諸屋敷地を払下げると云う風聞が段々世間に知れ渡《わたっ》たその時に、島原藩士何某が私方に遣《やっ》て来て、当屋敷は由緒ある拝領屋敷なるゆえ、主人島原藩主より御払下を願う、此方《こっち》へ御譲渡《ごじょうと》し下されいと捩込《ねじこ》んで来たから、私は一切《いっさい》知らず、この地所のむかしが誰《たれ》のものでありしや夫《そ》れさえ心得て居ない、兎《と》に角《かく》に私は東京府から御払の地所を買請《かいう》けたまでの事なれば、府の命に服従するのみ、何か思召《おぼしめし》もあらば府庁へ御談《おだん》じ然《しか》るべしと刎《はね》付ける。スルと先方も中々|渋《しぶ》とい。再三再四|遣《やっ》て来て、とう/\仕舞《しまい》には屋敷を半折して半分ずつ持とうと云《い》うから、是《こ》れも不承知。地所の事は島原《しまばら》藩と福沢と直談《じきだん》すべき性質のものでないから御返答は致さぬ、一切《いっさい》万事君|夫《そ》れ之《こ》[#ルビの「こ」はママ]を東京府に聞けと云《い》う調子に構えて居て、六《むず》かしい談判も立消になったのは難有《ありがた》い。


 今日になって見れば、東京中を尋ね廻《まわっ》ても慶応義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一箇所もない。正味一万四千坪、土地は高燥《こうそう》にして平面、海に面して前に遮《さえぎ》るものなし、空気清く眺望|佳《か》なり、義塾唯一の資産にして、今これを売ろうとしたらば、むかし御払下《おはらいさげ》の原価五百何十円は、百倍でない千倍になりましょう。義塾の慾張《よくば》り、時節を待《まっ》て千倍にも二千倍にもして遣《や》ろうと、若い員達はリキンで居ます。


初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号



文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。


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