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文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。

慶応義塾 | ​『福翁自伝』福沢諭吉 -24

 勤王佐幕など云《い》う喧《やかま》しい議論は差置き、維新政府の基礎が定まると、日本国中の士族は無論、百姓の子も町人の弟も、少しばかり文字《もんじ》でも分る奴は皆役人になりたいと云う。仮令《たと》い役人にならぬでも、兎《と》に角《かく》に政府に近づいて何か金儲でもしようと云う熱心で、その有様《ありさま》は臭い物に蠅《はえ》のたかるようだ。


 全国の人民、政府に依らねば身を立てる処のないように思うて、一身独立と云《い》う考《かんがえ》は少しもない。偶《たまた》ま外国修業の書生などが帰《かえっ》て来て、僕は畢生《ひっせい》独立の覚悟で政府仕官は思いも寄らぬ、なんかんと鹿爪《しかつめ》らしく私方へ来て満腹の気焔《きえん》を吐く者は幾らもある。私は最初から当てにせずに宜《い》い加減に聞流して居ると、その独立先生が久しく見えぬ。スルと後に聞けばその男はチャンと何省の書記官に為《な》り、運の好《い》い奴は地方官になって居ると云うような風《ふう》で、何も之《これ》を咎《とが》めるではない、人々の進退はその人の自由自在なれども、全国の人が唯《ただ》政府の一方を目的にして外《ほか》に立身の道なしと思込《おもいこ》んで居るのは、畢竟《ひっきょう》漢学教育の余弊で、所謂《いわゆる》宿昔《しゅくせき》青雲の志と云うことが先祖以来の遺伝に存して居る一種の迷《まよい》である。


 今この迷を醒《さ》まして文明独立の本義を知らせようとするには、天下一人でもその真実の手本を見せたい、亦《また》自《おのず》からその方針に向う者もあるだろう、一国の独立は国民の独立心から湧《わい》て出てることだ、国中を挙げて古風の奴隷根性では迚《とて》も国が持てない、出来ることか出来ないことかソンな事に躊躇《ちゅうちょ》せず、自分がその手本になって見ようと思付《おもいつ》き、人間万事|無頓着《むとんじゃく》と覚悟を定《き》めて、唯独立独歩と安心|決定《けつじょう》したから、政府に依りすがる気もない、役人達に頼む気もない。


 貧乏すれば金を使わない、金が出来れば自分の勝手に使う。人に交わるには出来る丈《だ》けの誠を尽して交わる、ソレでも忌《いや》と云《い》えば交わって呉《く》れなくても宜《よろ》しい。客を招待すれば此方《こっち》の家風の通りに心を用いて饗応する、その風が嫌いなら来て呉《く》れなくても苦しうない。此方《こっち》の身に叶う丈《だ》けを尽して、ソレから上は先方の領分だ。誉めるなり譏《そし》るなり喜ぶなり怒《いか》るなり勝手次第にしろ、誉められて左《さ》まで歓びもせず、譏られて左まで腹も立てず、いよ/\気が合わねば遠くに離れて附合わぬ計《ばか》りだ。


 一切《いっさい》万事、人にも物にもぶら下らずに、云《い》わば捨身になって世の中を渡るとチャンと説を定めて居るから、何としても政府へ仕官などは出来ない。この流儀が果して世の中の手本になって宜《い》い事か、悪い事か、ソレも無頓着《むとんじゃく》だ、宜《よ》ければ甚《はなは》だ宜《よろ》しい、悪るければソレまでの事だ、その先《さ》きまで責任を脊負《せお》い込もうとは思いません。


初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号



文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。


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