文部省の長官としては初めに江藤新平が文部大輔となったが、間もなく大木喬任が文部卿となり、文教行政の首脳部を構成した。文部省は全国の学校を統轄したばかりでなく、積極的に国民を教育する責任を果たさなければならないとした。ここにおいて江戸時代からの諸学校の普及を基礎とし、さらに欧米諸国の教育制度を参照してわが国の学校教育制度を創始することとなり、ただちに起草に必要な資料を集めて制度立案の準備を始めた。
四年十二月に一二人の学制取調掛が任命されて学制条文の起草にあたった。五年一月には学制の大綱を定め、詳細に各条を審議し条文として整え、五年三月ごろに案文が上申され、六月二十四日に太政官において認可された。その後府県への委托金についての条項について決定ができないため、この条文は確定しないまま、五年八月三日に太政官の布告をもって「学制」として公布した。この太政官布告は、学制実施に当たっての教育の宣言ともいうべきもので、教育における学問の意味を明らかにし、従来の学問観や学校観を批判した。そして新しい学校へ人民一般が入学して新時代の有用の学を修めなければならないとした。また、子どもを就学させることは父兄の責任であって、必ずこれを果たさなければならないとした。学制条文のうちには当時問題となっていた海外留学生規則やのちに育英制度となる貸費制規則も加えられている。
初出:1972(昭和47)年10月1日初版
文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。