緒方先生の深切。「乃公《おれ》はお前の病気を屹《きっ》と診《み》て遣《や》る。診て遣るけれども乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うて仕舞《しま》う。此《こ》の薬|彼《あ》の薬と迷うて、後《あと》になって爾《そ》うでもなかったと云《いっ》て又薬の加減をすると云《い》うような訳《わ》けで、仕舞《しまい》には何の療治をしたか訳《わ》けが分《わか》らぬようになると云うのは人情の免《まぬか》れぬ事であるから、病は診《み》て遣《や》るが執匙《しっぴ》は外《ほか》の医者に頼む。そのつもりにして居《お》れ」と云て、先生の朋友、梶木町《かじきまち》の内藤数馬《ないとうかずま》と云う医者に執匙を託し、内藤の家《うち》から薬を貰《もらっ》て、先生は只《ただ》毎日来て容体を診て病中の摂生法を指図《さしず》するだけであった。
マア今日の学校とか学塾とか云うものは、人数も多く迚《とて》も手に及ばない事で、その師弟の間《あいだ》は自《おのず》から公《おおやけ》なものになって居る、けれども昔の学塾の師弟は正《まさ》しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授《さずけ》るに迷うと云うのは、自分の家《うち》の子供を療治して遣《や》るに迷うと同じ事で、その扱《あつかい》は実子《じっし》と少しも違わない有様であった。
後世段々に世が開けて進んで来たならば、こんな事はなくなって仕舞《しまい》ましょう。私が緒方の塾に居た時の心地《こころもち》は、今の日本国中の塾生に較《くら》べて見て大変に違《ちが》う。私は真実緒方の家《うち》の者のように思い又《また》思わずには居《お》られません。
引用:『福翁自伝』福沢諭吉
初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号
文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。