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文学作品より当時学校の様子、学生生活の輪郭を読み解く。

適塾 | ​『福翁自伝』福沢諭吉 -4

 その後私の学問も少しは進歩した折柄《おりから》、先輩の人は国に帰る、中無人にて遂《つい》に私が塾長になった。扨《さて》塾長になったからと云《いっ》て、元来の塾風で塾長に何も権力のあるではなし、唯《ただ》塾中一番|六《むず》かしい原書を会読《かいどく》するときその会頭《かいとう》を勤める位《くらい》のことで、同窓生の交際《つきあい》に少しも軽重《けいじゅう》はない。


 塾長殿も以前の通りに読書勉強して、勉強の間《あいだ》にはあらん限りの活動ではないどうかと云《い》えば先《ま》ず乱暴をして面白がって居ることだから、その乱暴生が徳義を以《もっ》て人を感化するなど云う鹿爪《しかつめ》らしい事を考える訳《わ》けもない。又風を善《よ》くすれば先生に対しての御奉公、御恩報《ごおんほう》じになると、そんな老人めいた心のあろう筈《はず》もないが、唯私の本来|仮初《かりそめ》にも弱い者いじめをせず、仮初にも人の物を貪《むさぼ》らず、人の金を借用せず、唯の百文《ひゃくもん》も借りたることはないその上に、品行は清浄《しょうじょう》潔白にして俯仰《ふぎょう》天地に愧《はじ》ずと云う、自《おのず》から外《ほか》の者と違う処があるから、一緒になってワイ/\云て居ながら、マア一口《ひとくち》に云えば、同窓生一人も残らず自分の通りになれ、又自分の通りにして遣《や》ろうと云うような血気の威張《いば》りであったろうと今から思うだけで、決して道徳とか仁義とか又|大恩《だいおん》の先生に忠義とか、そんな奥ゆかしい事は更《さ》らに覚えはなかったのです。


 併《しか》し何でも爾《そ》う威張り廻って暴れたのが、塾の為《た》めに悪い事もあろう、又|自《おのず》から役に立《たっ》たこともあるだろうと思う。若《も》し役に立て居れば夫《そ》れは偶然で、決して私の手柄でも何でもありはしない。


初出:1898(明治31)年7月1日号 - 1899(明治32)年2月16日号

関連:適塾福沢諭吉



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