ダイガクコトハジメ - 三菱商業学校/明治義塾
年表 | 動画
学校略歴
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1874(明治7)年6月-、慶応義塾、簿記書を翻訳、日本最初の洋式簿記書『帳合之法』を慶應義塾出版局より刊行
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1877(明治10)年 荘田平五郎、三菱の経営に複式簿記を導入、徐々に近代的な経営組織を確立
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1878(明治11)年、森下岩楠、三菱の商業学校設立を岩崎弥太郎より説かれ、三菱商業学校創立、慶応義塾の分校的教育機関に、三菱の幹部候補生を育成
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1881(明治14)年10月、明治十四年の政変、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を主張する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生が政府から追放される
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1881(明治14)年、自由民権運動の高まり、明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に、国会開設の勅諭、自由民権運動は10年後の国会開設に向けた政党結成に向かう
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1881(明治14)年、板垣退助、自由党結成、三菱商業学校教員の馬場辰猪・大石正巳らが参加、三菱商業学校校舎を使い、夜間教室・明治義塾開設、自由民権運動の牙城に、薩長閥の政府から睨まれる
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1884(明治17)年、三菱の資金繰りが逼迫、明治義塾を廃校、跡地に、英吉利法律学校と東京英語学校が創立される
創立者
学校年表
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1874(明治7)年 福澤諭吉(40歳)、地下浪人だった岩崎弥太郎と面会、山師ではないと評価。三菱商会に荘田平五郎や豊川良平といった慶應義塾門下を投入。また、後藤象二郎の経営する高島炭鉱を岩崎弥太郎に買い取らせる。
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1875(明治8)年 荘田平五郎(29歳)、嘱望され、三菱商会に入社。有能な人材を実業界に供給するのが慶應義塾の役目と心得ていた福沢諭吉が、岩崎彌太郎を卓抜した実業家として一目も二目も置いていたことが根底に。また、当人も自分の才能を実業界で試したい気持ちが強かった。東京本店勤務、三菱汽船会社規則を策定。
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1876(明治9)年9月-1877(明治10)年12月 森下岩楠(25-26歳)、慶應義塾塾長に。
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1877(明治10)年 荘田平五郎(31歳)、福澤諭吉『帳合之法』が提唱する複式簿記を採用し、郵便汽船三菱会社簿記法を纏める。これにより、三菱は大福帳経営を脱し、徐々に近代的な経営組織を確立。
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1878(明治11)年3月 森下岩楠(27歳)、三菱の商業学校設立を岩崎弥太郎より説かれる。神田錦町に三菱商業学校創立。初代校長に。教官のほとんどを慶應義塾門下生で構成。慶應義塾の分校的教育機関となる。全国から優秀な学生を集め、三菱の幹部候補生を育成。
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荘田平五郎、三菱商業学校校長に。
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1880(明治13)年12月 - 1881(明治14)年1月 福澤諭吉(46-47歳)、参議・大隈重信邸で大隈重信・伊藤博文・井上馨と会見。政府新聞『公布日誌』の発行を依頼される。その場での諾否を保留して数日熟考。「政府の真意を大衆に認知させるだけの新聞では無意味」と考え、辞退しようと翌1881(明治14)年1月に井上馨を訪問。しかし、井上馨が「政府は国会開設の決意を固めた」と語ったことで、その英断に歓喜。新聞発行を引き受ける。
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1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文は大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信・福澤諭吉・慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。
1881(明治14)年10月 明治十四年の政変
自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。
政府から追い出され下野した福澤諭吉の慶應義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓・矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。
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1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。
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1881(明治14)年 福澤諭吉(47歳)、明治十四年の政変に関わる一連の事件に当惑。伊藤博文と井上馨に宛て、違約を責める手紙を送る。2,500字に及ぶ人生で最も長い手紙となる。この手紙に対し、井上馨は返事を送ったが、伊藤博文は返答せず。数回にわたり手紙を送り返信を求めたが、伊藤博文からの返信はついになく、井上馨も最後の書面には返信せず。これにより、両政治家との交際を久しく絶つことになる。福澤諭吉は、伊藤博文と井上馨は初め大隈重信と国会開設を決意するも、政府内部での形勢が不利と見て途中で変節、大隈重信一人の責任にしたと理解。
1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭
自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。
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1881(明治14)年 板垣退助(45歳)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党結成。総理に。
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1881(明治14)年、教員の馬場辰猪・大石正巳らが自由党の結成に参加。三菱商業学校校舎を使い、夜間教室・明治義塾開設。土佐熱血漢達の自由民権思想普及の場として人気を集めるも、薩長閥の政府から睨まれることに。
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1882(明治15)年3月1日 福澤諭吉(48歳)、五大新聞の一つとなる日刊新聞『時事新報』創刊。当初計画では、伊藤博文や井上馨の要請を受け、政府系新聞を作る予定であった。明治十四年の政変で大隈重信派官僚が失脚すると、計画頓挫。記者や印刷機械は既に準備していたため、慶應義塾出版局が独自に新聞を発行することに。「国権皇張」・「不偏不党」を掲げる。「唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟もこの精神に戻らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦その相手を問わず一切敵として之を擯けんのみ」
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1884(明治17)年10月 板垣退助(48歳)、自由民権運動激化。加波山事件が起き、自由党を一旦解党。
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1884(明治17)年、三菱の資金繰りが逼迫、教師の質にばらつき、政府より謀反人の巣窟とみなされるなどを理由に、明治義塾を廃校。跡地に、英吉利法律学校と東京英語学校が創立される。
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