ダイガクコトハジメ - 中村正直
出身校
関連する学校・組織(前史)
関連する学校・組織(現代)
関連する教育者
-
石川梧堂
-
伊沢修二
-
エドワード・ウォーレン・クラーク
-
大村益次郎
-
葛馬茂右衛門
-
桂川甫周
-
川路寛堂
-
川本幸民
-
岸田吟香
-
佐藤一斎
-
ジョージ・コクラン
-
津田真道
-
寺島宗則
-
古川正雄
-
ヘンリー・フォールズ
-
ボルシャルト
-
箕作奎吾
参考情報
-
参考文献・書籍
-
年表 | 動画
中村正直
なかむらまさなお
1832(天保3)年6月24日(旧暦・5月26日) - 1891(明治24)年6月7日
思想家、大蔵省翻訳局長、同人社創立、東京大学文学部教授、東京女子師範学校摂理、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)初代校長、『西国立志編』著作、明六社発起人、楽善会発足、「明治の六大教育家」・「キリスト教界の三傑」
-
1832(天保3)年6月24日(旧暦・5月26日) 中村正直(1歳)、江戸麻布に幕府同心・中村武兵衛の長男として生まれる。幼名、釧太郎。
-
中村正直、葛馬茂右衛門より、四書を学ぶ。
-
中村正直、石川梧堂の門人に。筆法を修める。
-
1846(弘化3)年 中村正直(15歳)、築地の井部香山の塾にて、漢学を学ぶ。
-
1847(弘化4)年 中村正直(16歳)、桂川甫周より、蘭学を学ぶ。
-
1848(弘化5/嘉永元)年 中村正直(17歳)、昌平坂学問所寄宿舎に。佐藤一斎に儒学を、箕作奎吾に英語を学ぶ。
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。
1853(嘉永6)年 安政の改革
黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所を設置。
-
1856(安政3)年 中村正直(25歳)、甲府徽典館(山梨大学の前身)学頭に。
1857(安政4)年2月 藩書調所発足
洋学所を藩書調所(東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪、中村敬輔(中村敬宇・中村正直)、加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。
-
1857(安政4)年2月 古賀謹一郎(42歳)、藩書調所所発足。初代頭取に。
-
藩書調所、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。
-
1862(文久2)年 中村正直(31歳)、幕府御用儒官に。
-
1866(慶応2)年10月26日 - 1868(慶応4/明治元)年6月 中村正直(35-37歳)、幕府のイギリス留学生監督として、川路寛堂と供に外山正一ほか留学生12名を引き連れ、渡英。幕府瓦解、帰国。
-
1866(慶応2)年 - 1869(明治2)年 外山正一(19-22歳)、勝海舟の推挙により、中村正直らと共に幕府派遣留学生として渡英。イギリスの最新の文化制度を学ぶ。幕府瓦解、帰国。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
-
1868(慶応4/明治元)年1月17日 勝海舟(46歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いにて幕府軍敗北。官軍の東征が始まると、老中・板倉勝静により、海軍奉行並に起用される。次いで、陸軍総裁に昇進。陸軍取扱に異動、恭順姿勢を取る徳川慶喜の意向に沿い、徹底抗戦を主張するフランスとの関係を清算。会計総裁・大久保一翁らと朝廷交渉に向かう。官軍が駿府城まで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。
1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し
官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。
山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。
-
1868(慶応4/明治元)年3月13日・14日 勝海舟(46歳)、官軍により予定されていた江戸城総攻撃の直前、西郷隆盛と会談。江戸城開城手筈と徳川宗家の今後について交渉。結果、江戸城下での市街戦を回避、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われる。
-
勝海舟、上野戦争後も戊辰戦争は続いたが、榎本武揚ら旧幕府方が新政府に抵抗することに反対。戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であること、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあることが理由。
1868(慶応4)年閏4月 - 徳川家・旧幕臣の駿府移住
徳川慶喜に代わり、田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家を相続。駿河国・遠江国・陸奥国の70万石が与えられ、駿河府中藩が立藩。江戸在住の旧幕臣、駿府移住。家族を含めて2万人規模に達する。江戸城無血開城を主導した旧幕臣が藩政を支え、準中老・大久保一翁、幹事役・勝海舟や山岡鉄舟らが政務を担う。大規模な移住に藩政逼迫、渋沢栄一が財政再建の任に起用される。
-
勝海舟、明治維新直後から30余年にわたり、旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を続ける。商人・大黒屋六兵衛から供出させた資金を元手に、中村正直・津田仙・永井尚志ら旧幕臣へ資金援助。徳川一族から積立金を集めて保晃会設立、日光東照宮保存を図る。徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立するなど。
-
1868(慶応4/明治元)年8月 中村正直(37歳)、 静岡市大岩町の臨済寺に家を借りる。その後、半洋式の家「無所争斎」建築、移住。
-
1868(慶応4/明治元)年9月 中村正直(37歳)、駿府藩校・静岡学問所教授に。同じく教授であったエドワード・ウォーレン・クラーク宣教師に感化され、生涯の友に。
-
1869(明治2)年 外山正一(22歳)、帰国後、東京を離れ静岡へ。静岡学問所教授に。
-
1870(明治3)年 尺振八(32歳)、吉田賢輔・須藤時一郎と共に、本所相生町(現・両国4丁目)に英語塾・三叉学舎創立。福澤諭吉「慶應義塾」・近藤真琴「攻玉塾」・中村正直「同人社」・箕作秋坪「三叉学舎」などと並ぶ名門英語私塾に。門下生に、島田三郎、田口卯吉ほか。
-
1871(明治4)年 中村正直(40歳)、「天は自ら助くる者を助く」。イギリスの著述家S.スマイルズ『自助論 Self-Help (1859)』翻訳。明治維新後の文明開化の風潮の中、封建思想打破と共に近代的人間の確立を目的に『西国立志編』刊行。その反響は大きく、福澤諭吉『学問のすゝめ』と並ぶ二大啓蒙書に。総発行部数100万部以上とされ、明治期を通して広く読まれる。
-
古賀謹一郎、中村敬宇(正直)と漢詩の応酬を行うなど親交を深める。明治初期のベストセラー『西国立志編』に序文を寄せる。
-
1872(明治5)年2月 福澤諭吉(38歳)、「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」。『学問のすゝめ』初編刊行。1876(明治9)年11月25日にかけて順次刊行、17編出版をもって一応の完成をみる。初編のみ、小幡篤次郎共著。明治維新直後の日本人に対し、中世的な封建社会から近代民主主義国家への転換、欧米の近代的政治思想、民主主義を構成する理念、市民国家の概念など、平易な比喩を多用して説く。総発行部数300万部以上とされ、当時日本の人口が3,000万人程であったことから、全国民の10人に1人が手に取った計算に。
-
1872(明治5)年6月 中村正直(41歳)、 大蔵省翻訳局長に。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
1872(明治5)年9月 師範学校創立
学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に日本初の官立教員養成機関・師範学校(後に東京師範学校、筑波大学の源流)創立。湯島聖堂内の昌平坂学問所(昌平黌)跡地に置かれる。1873(明治6)年9月、他の6大学区(愛知・大阪・広島・長崎・新潟・宮城)にて官立師範学校設立。東京の師範学校は東京師範学校に改称。
-
1873(明治6)年3月 中村正直(42歳)、大蔵省退官。小石川の私邸に英学塾・同人社創立。英学を教える。福澤諭吉「慶應義塾」、近藤真琴「攻玉社」と並び、「三大義塾」と称される。同人社内でキリスト教の礼拝を行い、また女子教育課程を加える
1873(明治6)年7月 明六社結成
アメリカより帰国した森有礼、富国強兵のためには人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と提言。欧米で見聞した「学会」を日本で実現しようと、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らに働きかけ、日本初の近代的啓蒙学術団体となる明六社結成。初代社長に。会員には旧幕府官僚、開成所の関係者および慶應義塾門下生の官民調和で構成される。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派、日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族など参加。
1873(明治6)年8月 6大学区で官立師範学校設立
名古屋・大阪・広島・長崎・新潟・仙台で官立師範学校設立。東京の師範学校は、東京師範学校に改称。師範学校は卒業後教職に就くことを前提に授業料が無料、生活も保障された。このため、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たす。
-
1874(明治7)年1月4日 中村正直(43歳)、横浜ユニオン・チャーチにて、ジョージ・コクラン宣教師の説教を聞く。それがきっかけで、コクランを同人社に迎え入れる。
-
1874(明治7)年1月 田中不二麿(30歳)、文部省学監ダビット・モルレーより、日本も欧米諸国に倣い、女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」として育成することが建言される。これに賛同、三条実美太政大臣へ「東京府下ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」ることを伺い、承認される。同年3月13日、木戸孝允文部卿により、お茶ノ水橋袂に女子師範学校を設置する旨が布達発令。
-
1874(明治7)年9月27日 田中不二麿(30歳)、文部大輔に。学制実施の実質上の責任者に、教育行政の要衝にあたる。
1874(明治7)年11月 東京女子師範学校開校
湯島聖堂(旧・昌平坂学問所)構内界隈(現・お茶の水橋袂)に日本最初の官立女子師範学校・東京女子師範学校創立。女子教育機関の最高峰とみなされる。修業年限5年、課程は10級に分けられ、地理・歴史・物理学・化学大意・修身学・雑書・修辞・書取・作文・数学(算術・代数・幾何)・経済学・博物学・教育論・記簿法・養生書・手芸・画学・唱歌・体操・授業法・実地授業の学科目が講義される。
1872(明治5)年創立の女子中等教育機関・東京女学校からも相当数の生徒が東京女子師範学校予科へ転入。
-
明治以後の一時期、神田湯島の湯島聖堂内・昌平坂学問所跡地に文部省、東京師範学校およびその付属学校、東京女子師範学校およびその付属学校、国立博物館が同居。
-
1874(明治7)年12月25日 中村正直(43歳)、コクランより洗礼を受け、カナダ・メソジスト教会の日本人最初の信徒に。
-
1875(明治8)年11月18日 中村正直(44歳)、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)摂理に。
1878(明治9)年11月 東京以外の官立師範学校、府県に移管
西南戦争時の財政難により、東京師範学校と東京女子師範学校を除く官立師範学校が廃校に追い込まれる。管轄を文部省より府県に移管。小学校教員養成を目的に府県が独自に設置した師範学校が多数存在したが、修業期間・入学年齢共にまちまちであった。
1879(明治12)年 東京学士会院設立
文部卿・西郷従道の発案に基づき、研究者による議論や評論を通じ学術の発展を図ることを目的とする政府機関・東京学士会院が設立される。当時の日本を代表する知識人とされた加藤弘之・神田孝平・津田真道・中村正直・西周・福澤諭吉・箕作秋坪が創立会員7名に。初代会長は、福澤諭吉。
-
1880(明治13)年、楽善会訓盲院、授業開始。
1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生
東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法学部・理学部・文学部三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。
-
1881(明治14)年 中村正直(50歳)、東京大学文学部教授に。
-
1881(明治14)年、教育令の下、『師範学校教則大綱』が定められる。府県管轄の師範学校について、就業期間・入学年齢ほか統一される。
-
1885(明治18)年6月、財政難を理由に全国府県の女子師範学校が師範学校に統合される流れの中、東京女子師範学校が東京師範学校に統合される。東京師範学校女子部に改組。東京師範学校は、全国唯一の官立師範学校となる。
1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足
太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼。
-
1885(明治18)年12月 伊藤博文(45歳)、内閣制度発足。太政大臣として名目上ながら政府頂点に立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し、内閣制度を作り上げた伊藤博文のいずれが初代内閣総理大臣となるのか注目される。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議において、盟友・井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条実美を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。以後4度にわたって内閣総理大臣を務めることに。
-
森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく。
-
森有礼、師範学校を「教育の総本山」と称して改革を行う。その教育には、全面的に軍隊式教育が取り入れられる。また、「良妻賢母教育こそ国是とすべきである」と声明。「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布。
-
1886(明治19)年 森有礼(40歳)、学位令を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年4月10日公布 師範学校令
師範学校を「高等師範学校」と「尋常師範学校(師範学校)」の2つに分ける。「高等師範学校」を東京に1校設置することとし、東京師範学校が高等師範学校(後に東京高等師範学校、現・筑波大学)となる。国費により運営(尋常小学校は府県の地方税により運営)。卒業生は原則として尋常師範学校(師範学校)の校長および教員に任命するとされる。
-
1886(明治19)年4月、東京師範学校の高等師範学校昇格に伴い、東京師範学校女子部は高等師範学校女子師範学科に。尋常師範学校2年終了を入学資格に。修業年限4年。
-
1888(明治21)年 伊沢修二(38歳)、文部省直轄の訓盲唖院を改称、東京盲唖学校(現・筑波大学付属視覚特別支援学校・筑波大学付属聴覚特別支援学校)が設立される。初代校長に。
-
1890(明治23)年3月25日、高等師範学校女子師範学科、高等師範学校より分離独立。女子高等師範学校(後に東京女子高等師範学校、現・お茶の水女子大学)設立。女子師範学校・高等女学校・小学校教員および幼稚園保母などの養成にあたる。附属学校園も女子高等師範学校の附設学校に復帰。
-
1890(明治23)年3月 中村正直(59歳)、高等師範学校(現・筑波大学)より分離独立した女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の初代校長に。
-
1890(明治23)年9月29日 中村正直(59歳)、貴族院勅選議員に選勅。
このページをシェアする