ダイガクコトハジメ - 佐久間象山
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佐久間象山
さくましょうざん/ぞうざん
1811(文化8)年3月22日(旧暦・2月28日) - 1864(元治元)年8月12日(旧暦・7月11日)
朱子学者、蘭学者、兵学者、思想家、象山書院・五月塾創立
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1811(文化8)年3月22日(旧暦・2月28日) 佐久間象山(1歳)、信濃埴科郡松代字浦町に信濃松代藩士・佐久間一学国善の長男として生まれる。幼名、啓之助。佐久間家は5両5人扶持という微禄であったが、父・佐久間一学国善は藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人であり重用される。
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佐久間象山、郷里の藩儒・窪田岩右衛門馬陵恒久が烏帽子親に。才能を高く評価される。
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1824(文政7)年 佐久間象山(14歳)、藩儒・竹内錫命に入門、詩文を学ぶ。
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1826(文政9)年 佐久間象山(16歳)、湯島聖堂・佐藤一斎の門下生・鎌原桐山に入門。経書を学ぶ。また、藩士・町田源左衛門正喜に会田流の和算を学ぶ。水練を河野左盛から学ぶ。
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1828(文政11)年 佐久間象山(18歳)、家督を継ぐ。
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佐久間象山、漢文100篇を作り、鎌原桐山に提出。鎌原桐山だけでなく、藩主・真田幸貫からも学業勉励であるとして評価される。銀3枚を下賜。
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1831(天保2)年3月-5月 佐久間象山(21歳)、藩主・真田幸貫の世子、真田幸良の近習・教育係に抜擢。だが、高齢の父に対して孝養ができないとして辞任。
- 1832(天保3)年4月11日 - 8月17日 佐久間象山(22歳)、武芸大会にて、藩老に対し不遜な態度があったとし、藩主・真田幸貫より閉門を命じられる。この閉門の間、父・佐久間一学国善の病が重くなり、赦免。5日後、父・佐久間一学国善が死去。
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1833(天保4)年11月 佐久間象山(23歳)、江戸に出る。当時の儒学第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学ぶ。山田方谷と共に、「佐門の二傑」と称される。
1839(天保10)年 蛮社の獄
「蛮社」は洋学仲間の意、「蛮学社中」の略。江戸幕府による蘭学者弾圧事件。モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判した高野長英、渡辺崋山など蘭学者が捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑された。
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1839(天保10)年 佐久間象山(29歳)、江戸神田於玉ヶ池にて私塾・象山書院創立。儒学を教える。
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1842(天保13)年 佐久間象山(32歳)、松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられる。顧問に抜擢され、アヘン戦争での清とイギリスとの混沌した海外情勢を研究することに。魏源『海国図志』などを元に『海防八策』上書。これを機に、蘭学修得の必要に目覚める。
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1844(弘化元)年 佐久間象山(34歳)、オランダ語をはじめ、オランダの自然科学書、医書、兵書などの精通に努める。これにより、藩主・真田幸貫より洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられる。私塾・象山書院を閉じ、江川英龍の下で兵学を学ぶ。
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佐久間象山、洋式砲術を使った戦略を短期間で習得するために、江川英龍の伝授・秘伝といった旧来の教育方法では支障があった。意を汲んだ同じ高島流・下曽根信敦から文書を借り、学習を進める。教育に対する態度は近代的で、自らが書物から学んだことは、公開を基本とした。門弟より免許皆伝を求められた時も、その必要がないことを説明した上、断っている。
1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令
漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。
翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。
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1850(嘉永3)年 佐久間象山(40歳)、蘭書翻訳取締令、『増訂荷蘭語彙』が出版禁止・不許可に。
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1850(嘉永3)年 佐久間象山(40歳)、大砲の鋳造に成功、西洋砲術家として名声を轟かす。蘭学を背景に、ガラス製造、地震予知器開発に成功。牛痘種の導入も企図。木挽町(現・東京都中央区銀座)に五月塾創立。砲術・西洋学を講じる。勝麟太郎(勝海舟)、吉田松陰、坂本龍馬、小林虎三郎、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬ほか幕末・明治維新に影響を与えることになる人材が続々と入門、門下は数百人に及ぶ。
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佐久間象山、地理的に近かった中津藩江戸藩邸より、多数の子弟を受け入れ。砲術・兵学を教える。中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造。また、藩邸に赴き、学問教授。このため、中津藩の調練は他藩に比べて大いに進歩。
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1851(嘉永4)年 佐久間象山(41歳)、江戸にて、松前藩の依頼で鋳造した洋式大砲の演習を実施。砲身が爆発、大砲は全壊。観衆から大笑いされ、立ち会っていた松前藩の役人達からは「鋳造費用が無駄になった」と責め立てられる。しかし、「失敗するから成功がある」と述べて平然。「今の日本で洋式大砲を製造できるのは僕以外にいないのだから、諸大名はもっと僕に金をかけて稽古をさせるべきだ」と豪語、役人達を呆れさせる。
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1851(嘉永4)年 西村茂樹(24歳)、佐久間象山に砲術を学ぶ。
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1852(嘉永5)年 加藤弘之(17歳)、江戸に出る。佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。
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1853(嘉永6)年 佐久間象山(43歳)、ペリー来航。松代藩軍議役として浦賀の地を訪れる。報告を江戸幕府老中・阿部正弘に『急務十条』として奏上。この機に、吉田松陰に暗に外国行きを勧める。
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1853(嘉永6)年 吉田松陰(24歳)、ペリーが浦賀に来航。師・佐久間象山と黒船を遠望観察。西洋の先進文明に心を打たれる。同志・宮部鼎蔵に「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と書簡を送る。
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1853(嘉永6)年 吉田松陰(24歳)、師・佐久間象山の薦めもあり、外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔と共に長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとする。クリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航、想いを果たせず。
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1854(嘉永7)年 吉田松陰(25歳)、日米和親条約締結の為にペリー再来航。金子重之輔と二人、海岸につないであった漁民の小舟を盗み、下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて乗船。しかし、渡航拒否、小船も流される。下田奉行所に自首。伝馬町牢屋敷に投獄される。幕府の一部に佐久間象山・吉田松陰両名を死罪にという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中・松平忠固、老中首座・阿部正弘が反対。助命、国許蟄居に。長州へ檻送、野山獄に幽囚。ここで富永有隣、高須久子と知り合う。獄中にて、密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記す。
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1854(嘉永7)年 - 1862(文久2)年 佐久間象山(44-52歳)、門弟・吉田松陰がペリー再来航の際に密航を企て、失敗。この事件に連座し、伝馬町牢屋敷に入獄。松代で蟄居。
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1855(安政2)年 吉田松陰(26歳)、出獄を許されるも、杉家に幽閉処分。
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岡見清熙、江戸中津藩邸内にて蘭学塾(慶應義塾大学の源流)設立。蘭学教師について、投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を杉亨二、松木弘安(寺島宗則)に依頼。一方、幕府において勝海舟が台頭。大砲も判り、勝海舟とも通じる適塾塾頭・福澤諭吉に白羽の矢を立てる。
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1857(安政4)年 吉田松陰(28歳)、叔父・玉木文之進が主宰する松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾創立。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育、幕末より明治期の日本を主導した人材を数多く輩出。一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」であった。
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1858(安政5)年 福澤諭吉(24歳)、中津藩江戸藩邸に設立された蘭学塾(慶應義塾大学の源流)の講師を任されることに。適塾(適々斎塾)を去る。塾頭後任に、長與專齋を指名。古川正雄(古川節蔵)・原田磊蔵を伴う。築地鉄砲洲の奥平家中屋敷に住み込み、蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の鳩居堂から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。
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1864(元治元)年 佐久間象山(54歳)、一橋慶喜に招かれ、上洛。一橋慶喜に公武合体論と開国論を説く。当時京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、西洋かぶれとされた佐久間象山には危険な行動であった。
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1864(元治元)年8月12日(旧暦・7月11日) 佐久間象山(54歳)、京都三条木屋町にて、前田伊右衛門・河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54歳。暗殺者・河上彦斎は後に佐久間象山の事歴を知り愕然、以後暗殺をやめてしまった。日本近代化を担う人材を多数輩出、幕末の動乱期に多大な影響を与える。
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