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参考情報

参考文献・書籍

 

年表 | 動画

何礼

がのりゆき

1840(天保11)年8月10日(旧暦・7月13日) - 1923(大正12)年3月2日

翻訳家・通訳、唐通事、長崎奉行所支配定役格、英語稽古所学頭、洋学所学頭、済美館学頭、開成所教授並、開成所御用掛岩倉遣欧使節団、内務省翻訳事務局御用掛、内務権大丞、内務大書記官、外交官・訳官、瓊江塾ほか英語私塾を拓き多くの人材を育成、大阪府にて大学校総創立を構想、大阪洋学校創立・督務、元老院議官、錦鶏間祗候、貴族院勅選議員

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何礼之」に関する書籍 [外部]

1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策

江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。

この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。

  • 1840(天保11)年8月10日(旧暦・7月13日) 何礼之(1歳)、肥前国長崎西上町に唐通事で住宅唐人の子孫・何静谷(栄三郎)の子として生まれる。

  • 何礼之(5歳)、父・何静谷(栄三郎)が唐通事を引退。家督を継ぐ。

  • 何礼之(幼少期)、唐通事の先輩となる鄭幹輔や呉泰蔵に唐話を学ぶ。中国語を修める。

  • 何礼之、外国艦が日本海に迫り、開国を求める動きが加速。西欧語の習得必要性が増す。長崎在住の唐人に華英辞典を求め、独学で英語を学ぶ。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1858(安政5)年 何礼之(19歳)、日米修好通商条約締結、長崎も開港地となり通商開始。幕府より税関業務を任じられる。

  • 何礼之、幕府の長崎英語伝習所で英語を学ぶ。また、教師も務める。

  • 1859(安政6)年 何礼之(20歳)、鄭幹輔に率いられ、長崎停泊中のアメリカ船に赴く。アメリカ人宣教師・医師マクゴーワンに英語を学ぶ。引き続き、通詞同僚の平井希昌(義十郎)と共に、後に立教大学創立者となるチャニング・ウィリアムズ、ジョン・リギンズ、ウォルシュ、グイド・フルベッキより本式の英語を学ぶ。

  • 1861(万延2/文久元)年 何礼之(22歳)、ロシア軍艦対馬占領事件、長崎奉行の退去交渉に通詞として随行。

  • 1861(万延2/文久元)年 前島密(27歳)、 ロシア軍艦対馬占領事件処理のため、対馬へ。外国奉行組頭・向山栄五郎に随行。

  • 1861(万延2/文久元)年9月(旧暦・8月16日) 松本良順(30歳)、コレラ流行を踏まえ、長崎奉行所に衛生行政の重要性を訴える。病院設立の必要を説き、幕府がこれに応じる。長崎に124床のベッドを持つ日本初の近代西洋医学病院・小島養生所開院。ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらない、極めて民主的なものであった。あわせて医学伝習所をここに移転、医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)として併設。初代頭取に。

  • 1863(文久3)年7月 何礼之(24歳)、英語通訳の功績により、長崎奉行所支配定役格に任じられ、幕臣に。

  • 何礼之、英語稽古所学頭に。

  • 1863(文久3)年12月 何礼之(24歳)、横浜港再封鎖交渉のため、フランスへ文久遣欧使節団派遣。通訳として随行を命じられる。前島密を従者として江戸に向かうも、便船が故障。使節団の出発に間に合わず。随行叶わず。

  • 1863(文久3)年 前島密(29歳)、文久遣欧使節団の通訳・何礼之の従者として洋行する機会を得、江戸に向かう。乗船した福岡藩のコロンビア号が故障、使節団の出発に間に合わず。洋行失敗。

1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 文久遣欧使節団

1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。

正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中・福地源一郎・福澤諭吉・松木弘安(寺島宗則)・箕作秋坪尺振八らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。

  • 1864(文久4/元治元)年 何礼之(25歳)、長崎自邸で英語私塾を拓く。塾長に、巻退蔵(前島密)。高橋新吉・前田正名・高橋賢吉(後に芳川顕正)・高嶺譲吉・白峰駿馬・陸奥宗光など多くの弟子を育てる。翌年、長崎奉行の支援で塾舎新設。塾生は百数十名に。

  • 1864(文久4/元治元)年 前島密(30歳)、何礼之が長崎に開いた私塾の塾長に。苦学生のため、瓜生寅と私塾・倍社を崇福寺広福庵に開く。瓜生震・林謙三(後に安保清康)、高橋賢吉(後に芳川顕正)・橘恭平・鮫島誠造(尚信)らと勉学に励む。

  • 何礼之、英語稽古所の後身・洋学所、長崎英語伝習所の後身・済美館にて、平井希昌(義十郎)と共に学頭に。

  • 1865(元治2/慶応元)年8月、ボードウィンが化学の専門家招聘を幕府に建言。オランダ人理化学者クーンラート・ハラタマ(Koenraad Wolter Gratama)を招聘。長崎精得館の物理・舎密(化学)研究所として、分析究理所長崎大学薬学部の前身、京都大学の源流)附設。

  • 1866(慶応2)年2月9日、オランダ二等軍医・ハラタマが来日。分析究理所教師に。

  • 1867(慶応3)年7月 何礼之(28歳)、開成所教授並に。江戸へ赴く。江戸でも英語私塾を拓き、星亨・中村六三郎・土取忠良らを育てる。

  • 1867(慶応3)年、幕府、開成所内に理化学校建設。ハラタマを江戸に招聘。翌年春の開講を予定も、幕府瓦解により講義が行われることなく終わる。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月17日 勝海舟(46歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いにて幕府軍敗北。官軍の東征が始まると、老中・板倉勝静により、海軍奉行並に起用される。次いで、陸軍総裁に昇進。陸軍取扱に異動、恭順姿勢を取る徳川慶喜の意向に沿い、徹底抗戦を主張するフランスとの関係を清算。会計総裁・大久保一翁らと朝廷交渉に向かう。官軍が駿府城まで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

  • 何礼之、幕府陸軍総裁・勝海舟の通訳を務める。

1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所医学所を接収

明治新政府の布告により、開成所医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。

  • 1868(慶応4/明治元)年6月 何礼之(29歳)、明治新政府に出仕。開成所御用掛・訳官に。次いで大阪行きを命じられ、外国事務局・小松清廉(小松帯刀)を補佐する一等訳官に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 何礼之(29歳)、『仮語学所積高』提案。大阪府に舎密局・医学館・語学所から成る大学校設置を計画。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1868(明治元)年10月27日(旧暦・9月12日)、開成所開成学校に改称。洋学教育・翻訳・出版許可・新聞開版免許の公布を担当する政府機関の役割も果たす。

  • 1868(慶応4/明治元)年、大阪府知事・後藤象二郎と参与兼外国宮副知事・小松帯万により、理化学校の大阪移設が建言される。明治新政府は舎密局(京都大学の源流)として大阪移設を決定。開成所御用掛の田中芳男・神田孝平・箕作麟祥何礼之助、教師ハラタマと生徒数名を派遣。

  • 何礼之、大阪中ノ島・高松藩邸にて英語私塾を拓く。堂島川に架かる玉江橋に因んで瓊江塾と称す。濱尾新・奥山政敬・長谷川芳之助らを育てる。

  • 1869(明治2)年6月10日(旧暦・5月1日)、大阪城西側大手前旧城番邸跡にて、大阪府所轄の舎密局(大阪舎密局)開校。オランダ人化学教師・ハラタマが教頭に。

 

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年 版籍奉還

諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1869(明治2)年 何礼之(30歳)、大阪洋学校創立を発議・設立。督務に。教鞭を執る傍ら、『経済便蒙』・『西洋法制』など訳出。

  • 1869(明治2)年10月 何礼之(30歳)、舎密局大学校移管を発案。舎密局を理化二学の高等教育機関および大学校への予備教育機関と位置付け。

  • 1869(明治2)年12月、大阪洋学校、管轄が大阪府より民部省へ移管。兵庫県洋学校を合併。

  • 1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。

1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県

藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 何礼之(32歳)、一等書記官として岩倉遣欧使節団に参加。副使・木戸孝允と共に、憲法調査を行う。モンテスキュー『法の精神』翻訳。後に『万法精理』として刊行、自由民権運動に大きな影響を与える。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

  • 1873(明治6)年 何礼之(34歳)、帰国。翌年に内務省出仕、翻訳事務局御用掛に。洋書の翻訳・調査にあたる。

  • 1873(明治6)年11月10日 大久保利通(44歳)、ビスマルクの下で官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに。強い行政権限を持つ官僚機構として、内務省設立。大蔵省より地方行財政や殖産興業に関する組織・権限を内務省に移管。初代内務卿として実権を握る。学制・地租改正・徴兵令などを実施。「富国強兵」をスローガンに、「殖産興業」政策を推進。当時の大久保利通への権力集中は、有司専制として批判されることに。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに。

  • 1876(明治9)年2月 何礼之(37歳)、内務権大丞に。

  • 1877(明治10)年1月 何礼之(38歳)、内務大書記官に。

  • 1884(明治17)年12月 何礼之(45歳)、元老院議官に。

  • 1890(明治23)年10月20日 何礼之(51歳)、錦鶏間祗候に。

  • 1891(明治24)年12月22日 何礼之(52歳)、貴族院勅選議員に。

  • 1923(大正12)年3月2日 何礼之(84歳)、死去。享年84歳。

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