ダイガクコトハジメ - 北島多一
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北島多一
きたじまたいち
1870(明治3)年6月21日(旧暦・7月19日) - 1956(昭和31)年10月11日
医学博士・細菌学者、北里研究所第2代所長、慶應義塾大学部医学科主事、慶應義塾大学医学部学部長、第2代日本医師会会長
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1870(明治3)年6月21日(旧暦・7月19日) 北島多一(1歳)、北島信厚の子として生まれる。
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1875(明治8)年 北里柴三郎(23歳)、東京医学校入学。在学中、よく教授の論文に口を出していたため、大学側と仲が悪く、何度も留年。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1883(明治16)年 北里柴三郎(31歳)、医学士に。東京大学医学部在学中、「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とすることを決意。『医道論』を書く。卒業後、長與專齋が局長を務める、内務省衛生局に入省。
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1885(明治18)年 北里柴三郎(33歳)、熊本医学校の同期生、東京大学医学部教授兼衛生局試験所所長・緒方正規の計らいにより、ドイツ・ベルリン大学へ留学。コッホに師事し業績を上げる。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年 北島多一(17歳)、帝国大学医科大学入学。一番の成績で合格、授業料免除の特待生に。ベルツより内科・病理学・精神医学を学ぶ。スクリバより外科・皮膚科・精神医学・眼科・婦人・婦人科を学ぶ。
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1889(明治22)年 北里柴三郎(37歳)、世界で初めて、破傷風菌だけを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功。
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1890(明治23)年 北里柴三郎(38歳)、破傷風菌抗毒素を発見、世界の医学界を驚嘆させる。さらに、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な血清療法を開発。
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1890(明治23)年 北里柴三郎(38歳)、血清療法をジフテリアに応用。同僚・ベーリングと連名で『動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について』という論文を発表。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に名前が挙がるも、結果は抗毒素という研究内容を主導していた自身でなく、共同研究者のベーリングのみの受賞となる。
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1891(明治24)年8月 北里柴三郎(39歳)、医学博士の学位を受ける。
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1892(明治25)年 北里柴三郎(40歳)、論文をきっかけに、欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受ける。「国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことである」と、これらを固辞。日本に帰国。ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする帝国大学医科大学教授・緒方正規の説に対し、脚気菌ではないと批判を呈したことで、母校・帝国大学医科大学と対立する形に。日本での活躍が限られてしまう。
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1892(明治25)年 福澤諭吉(58歳)、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎を受け入れる機関が日本になく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。この事態を憂慮。私財投じ、森村市左衛門・長與專齋らと共に私立伝染病研究所および結核専門病院・土筆ヶ岡養生園設立を支援。
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1892(明治25)年10月 北里柴三郎(40歳)、福澤諭吉・森村市左衛門・長與專齋の支援により、日本で最初の伝染病研究所となる私立伝染病研究所設立。初代所長に。伝染病予防と細菌学の研究に取り組む。
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1892(明治25)年11月 北里柴三郎(40歳)、私立伝染病研究所が長與專齋が副会頭を務める大日本私立衛生会附属に。年間3,600万円の財政支援を受ける。
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1893(明治26)年 北里柴三郎(41歳)、福澤諭吉より私有地の提供を受け、白金三光町に日本で最初の結核専門病院・土筆ケ岡養生園設立。結核予防と治療に尽力。
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1894(明治27)年2月 北里柴三郎(42歳)、私立伝染病研究所、芝区愛宕町に新築移転。ジフテリア抗血清を製造、これによる治療を開始。
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1894(明治27)年6月 北里柴三郎(42歳)、政府よりペストの蔓延していた香港に派遣され、腺ペストの病原菌を発見するという業績をあげる。
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1897(明治30)年 志賀潔(27歳)、赤痢菌を発見。『細菌学雑誌』に『赤痢病原研究報告第一』を日本語で発表。
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1899(明治32)年3月 北里柴三郎(47歳)、「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」との信念により、研究所を内務省管轄に。国立伝染病研究所となる。所長に。
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1901(明治34)年 北里柴三郎(49歳)、 第1回ノーベル生理学・医学賞の公式候補に選ばれる。
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1906(明治39)年4月 北里柴三郎(54歳)、日本連合医学会会頭に。
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1906(明治39)年 北里柴三郎(54歳)、国立伝染病研究所、港区白金台に新築移転。
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1913(大正2)年 北里柴三郎(61歳)、日本結核予防協会設立。副会頭に。
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1914(大正3)年10月 北里柴三郎(62歳)、政府が一切の相談なく、国立伝染病研究所を内務省より文部省に移管、東京帝国大学医科大学の下部組織にすると発表。東京帝国大学医科大学学長・青山胤通が所長を兼任することに。これに反発、北島多一・志賀潔らをはじめとする職員全員が一斉に辞表を提出(伝研騒動)。
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1914(大正3)年11月5日 北里柴三郎(62歳)、私財を投じ、新たに北里研究所設立。初代所長に。狂犬病・インフルエンザ・赤痢・発疹チフスなどの血清開発に取り組む。
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1915(大正4)年 北里柴三郎(63歳)、恩賜財団済生会芝病院(現・東京都済生会中央病院)設立。初代院長に。
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1916(大正5)年11月 北里柴三郎(64歳)、府県の医師会を統合、全国規模の医師会として大日本医師会設立。初代会長に。
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1916(大正5)年、国立伝染病研究所が東京帝国大学附置伝染病研究所に。
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1917(大正6)年4月 北里柴三郎(65歳)、福澤諭吉没後、「余は福澤先生の門下生ではないが、先生の恩顧をこうむったことは門下生以上である」と長年の多大なる恩義に報いるため慶應義塾大学部医学科創立に尽力。初代医学科学長に。ハブの血清療法で有名な北島多一や、赤痢菌を発見した志賀潔など、北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込む。
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1917(大正6)年8月 北里柴三郎(65歳)、北里研究所附属病院設立。
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1917(大正6)年 北島多一(48歳)、慶應義塾大学部医学科主事に。北里柴三郎を支える。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令
原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。
その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。
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1920(大正9)年4月、慶應義塾大学、大学令に基づき、全国諸学校に先駆けて大学認可。文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学に。予科・大学院を付設。
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1920(大正9)年 北里柴三郎(68歳)、慶應義塾大学が早稲田大学と共に日本初の私立大学として認可される。慶應義塾大学医学部発足。医学部学部長・慶應医学会会長に。慶應義塾大学病院開院。院長に。
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1923(大正12)年 北里柴三郎(71歳)、医師法に基づく日本医師会発足。初代会長に。
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1928(昭和3)年5月 北里柴三郎(76歳)、慶應義塾大学医学部学部長を辞任。顧問に。
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1928(昭和3)年 北島多一(59歳)、慶應義塾大学医学部学部長に。蛇・ハブの抗毒血清の製造に成功。
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1931(昭和6)年6月13日 北里柴三郎(79歳)、死去。享年79歳。北里家より土筆ヶ岡養生園が北里研究所に寄付され、北里研究所附属病院と合併。
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1940(昭和15)年 北島多一(71歳)、勲三等瑞宝章受章。
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1953(昭和28)年 北島多一(84歳)、文化功労者に選ばれる。
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1956(昭和31)年10月11日 北島多一(87歳)、死去。享年87歳。
出身校
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参考情報
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参考文献・書籍
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