ダイガクコトハジメ - 医学所・大学東校
関連する学校・組織(前史)
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お玉が池種痘所
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西洋医学所
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医学所
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医学校
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大学東校
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東校
関連する学校・組織(現代)
関連する教育者
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大沢謙二
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シーボルト
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手塚良仙
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長井長義
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ボードウィン
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ポンぺ
参考情報
参考文献・書籍
学校略歴
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1849(嘉永2)年3月、蘭書翻訳取締令、蘭方医学の徹底的な取締開始、幕府医師の蘭方使用を禁止、全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに、翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に、蘭学の自由な研究が制約される
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1849(嘉永2)年7月20日、伊東玄朴、オランダ商館を通じて牛痘種痘苗の入手に成功、この痘苗が長崎から京都・大阪・福井から北陸へと広まる、10月に江戸に運ばれ関東や東北へ広まる
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1857(安政4)年2月、日本初の洋学研究教育機関として蕃書調所発足、初代頭取に古賀謹一郎、幕臣だけでなく諸藩より教授人材を採用、国内の著名な洋学者が集う、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当
→ 開成所・大学南校
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1858(安政5)年5月7日、大槻俊斎・伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫・林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資、お玉が池種痘所設立、東京大学医学部の源流に
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1858(安政5)年7月、江戸幕府13代将軍・徳川家定が脚気により重態に、蘭方医解禁令、幕府医師の和蘭兼学が認められる、蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に、蘭方医が幕医に登用される始まりとなる
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1861(万延2/文久元)年1月、種痘所が幕府直轄に、西洋医学所発足
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1863(文久3)年2月、医学所に改称
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1868(慶応4/明治元)年8月14日(旧暦・6月26日)、明治新政府が医学所を接収、医学校に改称、イギリス公使館付医師・Wウィリスを教師として授業開始
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1868(慶応4/明治元)年10月31日(旧暦・9月16日)、明治新政府は当初、京都の学習院(漢学所・皇学所)を中心とする官立の大学校設立を構想
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東京奠都に伴い構想変更、東京の地に昌平学校を基盤とし、洋学・医学を織り交ぜた官立高等教育機関を設立する案に修正、皇学所・漢学所が京都から東京へ移される、昌平坂学問所(昌平黌)の漢学(儒学)派と皇学所の国学派が主導権を争い激しく対立
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1869(明治2)年1月、相良知安、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、ドイツより教師を招くことに
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1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日)、大学校設立、昌平学校を本校に、開成学校(後の東京大学)・医学校(後の東京大学医学部)を分局とする、教育機関としての役割だけでなく日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部省の前身)
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学に改称、昌平学校を大学本校に、開成学校を大学南校、医学校を大学東校に改称
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に、大学本校は当分休校、そのまま再開することなく廃校、昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす、大学南校を中核とする高等教育機関構想へ転換
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1870(明治3)年7月27日、貢進生、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進すること太政官布告
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1870(明治3)年、明治新政府がドイツ医学修得を命じ、池田謙斎・大沢謙二・長井長義ら9名が国費留学
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1871(明治4)年7月、加藤弘之、文部大丞に、文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦、共に日本の教育制度改革に乗り出す、富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める
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1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日)、大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク、大学廃止、大学南校・大学東校が独立、新たに文部省設立
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1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学南校は文部省管轄に、南校に改称、文部省主導による貢進生廃止など制度改革のため一時閉鎖、翌10月に再開、外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となるも、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた
→ 東京大学
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1871(明治4)年8月、ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる、日本の医学教育制度構築の全権を託す
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1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学東校は文部省管轄に、東校に改称、一旦閉鎖、学則改正後に再開、入学試験を通過した学力優秀者だけの再入学を許可
→ 東京大学医学部
創立者
学校年表
1639(寛永16)年 - 1854(嘉永7)年 鎖国政策
江戸幕府がキリスト教国(スペイン・ポルトガル)人の来航、および日本人の東南アジア方面への出入国を禁じ、貿易を管理・統制・制限。1853(嘉永6)年7月8日、浦賀へアメリカのペリー・マシュー率いる黒船来航。1854(嘉永7)年3月31日、日米和親条約締結により、開国に至る。
この間、江戸幕府の天領・長崎が、日本で唯一西ヨーロッパに開かれた貿易港として繁栄。出島に移設されたオランダ商館を通じ、オランダ・中国と貿易。
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1824(文政7)年 - 1828(文政11)年 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(27-31歳)、オランダ陸軍軍医として来日、長崎出島に居住。貿易のため、日本研究も命じられる。当時、外国人は出島を出ることは許可されていなかったが、医師として特別に許される。長崎郊外に私塾・鳴滝塾設立、オランダ医学・自然科学を教える。高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・戸塚静海ら50人以上が学ぶ。
1825(文政8)年 異国船打払令
江戸幕府が発した、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃、追い返すとした外国船追放令。上陸外国人については逮捕を命じる。フェートン号事件・大津浜事件・宝島事件を受けて発令したものとみられる。また水戸の漁民たちが沖合で操漁する欧米の捕鯨船乗組員と物々交換を行っていたことが発覚、300人余りが取り調べを受けた事件が重要な動機となっている。
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高橋景保、樺太東岸の資料を求めていたところ、シーボルトよりクルーゼンシュテルン『世界周航記』などが贈られる。その代わりに、伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈る。日本地図は当時、禁制品扱いとなっており、これをシーボルトが持ち出そうとしたことが事件の発端となる。
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1826(文政9)年4月 伊東玄朴(26歳)、オランダ商館長(カピタン)の江戸参府にシーボルトが随行、一緒に江戸へ向う。江戸に留まり、佐賀藩医の身分で蘭学の諸同志と交流。
1828(文政11)年9月 シーボルト事件
オランダ商館付医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本から帰国する直前。国外持ち出し厳禁の日本地図が見つかる。これを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか、十数名が処分。高橋景保は獄死。
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1828(文政11)年 伊東玄朴(28歳)、シーボルト事件、連座を免れる。
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1830(文政13/天保元)年 佐藤泰然(27歳)、蘭方医を志す。刎頚の友もなる松本良甫を誘い、蘭方医・足立長雋に入門。また、シーボルトの高弟・高野長英に師事。
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大槻俊斎、水戸藩支藩の長沼藩の医師・手塚良仙に入門。湊長安の紹介で足立長雋から蘭学を修得。高野長英・渡辺崋山らと交わる。
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1831(天保2)年 伊東玄朴(31歳)、士分に昇格。佐賀藩医官に。江戸に蘭学塾・象先堂創立、杉谷雍助・佐野常民ら多くの門人を輩出。
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1835(天保6)年 佐藤泰然(32歳)、長崎留学。3年間、オランダ医学を学ぶ。蘭書翻訳、種痘法を学ぶ。
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1835(天保6)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(21歳)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼。前藩主・鍋島斉直の干渉を押し切り、佐賀城再建を実行。これを機に歳出削減、借金割賦を認めさせ、また磁気・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を断行。財政改善。
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鍋島直正(鍋島閑叟)、古賀穀堂の『学政管見』意見書に沿うかたちで、佐賀藩校・弘道館を拡充。優秀な人材を育成、出自を問わずに積極的に政務の中枢へ登用するなど、教育改革を断行。蘭学・医学を他藩に先駆けて導入、佐賀藩の西洋化を推進。
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1836(天保7)年 緒方洪庵(27歳)、長崎遊学。オランダ人医師ニーマンに医学を学ぶ。この頃より、洪庵と号す。
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緒方洪庵、適塾(適々斎塾)の教育について、学級を設けて蘭学教育を行い、各自の努力によって実力を養うことを方針とする。塾頭の下、塾生は学力に応じて8ないし9級に分けられ、初学者はまずオランダ語の文法『ガランマチカ』、次いで文章論『セインタキス』を学んだ後に原書の会読に加わる。会読の予習のため、塾生は塾に一揃えしかない『ヅーフ』の蘭和辞書を奪い合うようにして勉強。会読の成績により上級へと進み、上席者から順に席次が決まるため、塾生同士の競い合いは熾烈なものとなる。
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緒方洪庵、適塾(適々斎塾)の教育について、蘭書の翻訳にあたって字句の末節に拘泥せず要旨をくみとることを重視。また、会読の原書は医学に限らず物理や化学に関するものもあり、実験に興ずる塾生もいた。各自の自由な学問研究を伸ばす学風があった。
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1838(天保9)年 佐藤泰然(35歳)、江戸日本橋薬研堀に蘭医学塾・和田塾(順天堂の前身)創立。長崎より同道した林洞海、三宅艮斎の助けを得る。江戸有数の外科塾として名をあげる。
1839(天保10)年 蛮社の獄
江戸幕府による蘭学者弾圧事件。モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判した高野長英、渡辺崋山など蘭学者が捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑された。
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1839(天保10)年 箕作阮甫(41歳)、火災により医院断念、翻訳に専心。幕府天文台蕃書和解御用手伝に。伊東玄朴名義で『医療正始』・『坤輿初問』など訳述刊行。日本最初の国医学雑誌『泰西名医彙講』を編訳刊行。『外科必読』はじめ未刊のものが多い。生涯99部160冊余りを訳述。その分野は、医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。
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1840(天保11)年 大槻俊斎(35歳)、江戸に帰り、下谷練塀小路にて医業開業。手塚良仙の娘・海香と結婚。
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1841(天保12)年 大槻俊斎(36歳)、高島秋帆から痘苗を得、浅草蔵前の小児に接種。施術成功、江戸種痘の最初と言われる。
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1843(天保14)年10月 佐藤泰然(40歳)、蛮社の獄で永牢となった高野長明との師弟関係などから幕府より要注意人物とされていた折、佐倉藩家老・渡辺弥一兵衛より招聘を受ける。蘭医学塾・和田塾を女婿の林洞海に託し、佐倉に移住。門人・山口舜海(後に佐藤尚中)らが同行。病院兼蘭医学塾・佐倉順天堂創立。初代堂主に。その治療は当時の最高水準を極める。手術の記録は高弟・関寛斎の『順天堂外科実験』に記される。
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1843(天保14)年12月 伊東玄朴(43歳)、佐賀藩第10代藩主・鍋島直正(鍋島閑叟)の侍医に。7人扶持で召し抱えられる。
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1844(天保15/弘化元)年 緒方洪庵(35歳)、適塾(適々斎塾)入門者署名帳『姓名録』に記載されただけで636人、このほかに通いの塾生や1843年以前の門人等を含めると、資料で判明している限りでも、子弟は1000名を超えるものと推定される。
1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令
漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。
翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。
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1849(嘉永2)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(35歳)、1846(弘化3)年より佐賀藩内で天然痘が大流行。当時不治の病であった天然痘根絶のため、佐賀藩医・伊東玄朴の進言により、長崎出島のオランダ商館を通じて牛痘種痘苗を入手。佐賀城内にて種痘接種。佐賀藩が漢方から蘭方医学へ転換する象徴的な出来事となる。この痘苗は、長崎・佐賀を起点とし、複数の蘭方医の手によって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播。
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1849(嘉永2)年7月20日 伊東玄朴(49歳)、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言。オランダ商館を通じ、入手に成功。この痘苗が長崎から京都・大阪・福井から北陸へと広まる。10月に江戸に運ばれ、関東や東北へ広まる。
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1849(嘉永2)年12月15日(旧暦・11月1日) 緒方洪庵(40歳)、京都に赴き滞在7日、出島の医師オットー・モーニッケが輸入した痘苗を入手。古手町(現・大阪市中央区道修町)に大坂除痘館設立。牛痘種痘法による切痘を始める。
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1849(嘉永2)年12月 佐藤泰然(46歳)、佐倉藩に牛痘を導入。普及に努める。
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1852(嘉永5)年 佐藤泰然(49歳)、日本最初の卵巣嚢腫摘出術などを行う。蘭学の先進医療を行うと共に、医学界を担う人材を育成。佐倉順天堂は大阪の緒方洪庵の適塾(適々斎塾)とならぶ有名蘭学塾に。「日新の医学、佐倉の林中から生ず」
1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。
1853(嘉永6)年 安政の改革
黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所を設置。
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1853(嘉永6)年7月 勝海舟(31歳)、老中首座・阿部正弘の意見募集に対し、海防意見書提出。西洋式兵学校設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く。これが阿部正弘の目に留まる。
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1855(安政2)年8月30日 古賀謹一郎(40歳)、黒船によるペリー来航以来、江戸幕府は蘭学に止まらず、洋学研究の必要性を痛感。従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充、洋学所創立。老中・阿部正弘より直に、頭取を任じられる。
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1855(安政2)年 安政の大地震、洋学所が全壊消失。
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1855(安政2)年9月 古賀謹一郎(40歳)、蘭書翻訳・教育機関を構想。勝海舟(勝麟太郎)らと共に、蕃書調所(東京大学の源流)設立の草案作成。
1855(安政2)年 長崎海軍伝習所設立
ペリー来航後間もなく、海防強化を急務とする江戸幕府は西洋式軍艦の輸入を決定。オランダ商館長の勧めにより、海軍士官養成のための教育機関設立を決める。長崎奉行を通じ、オランダから練習艦として帆船(後の観光丸)の寄贈を受ける。併せて、オランダ人教官隊を招聰。長崎奉行所西屋敷(現・長崎市江戸町)に長崎海軍伝習所設立。総監理に永井尚志。
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長崎海軍伝習所、オランダ人教官よりオランダ語学をはじめ、航海術・造船学・砲術・測量術・機関学などが教授される。またその基礎として、西洋数学・天文学・地理学なども授けられる。幕府関係者のほか、諸藩からも多数の者が伝習に参加。これらの人々の中から、勝海舟(勝麟太郎)・榎本武揚ら幕臣、五代友厚・佐野常民ら諸藩士など、幕末維新期の指導的人材を数多輩出する。
1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令
新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。
1857(安政4)年2月 蕃書調所発足
洋学所を蕃書調所(東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪、中村敬輔(中村敬宇・中村正直)、加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。
→ 開成所・大学南校
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1857(安政4)年2月 古賀謹一郎(42歳)、蕃書調所発足。初代頭取に。
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蕃書調所、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。
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1857(安政4)年8月 大槻俊斎(52歳)、自宅に伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫ら蘭方医10人と斎藤源蔵が集まり、種痘所開設を会議。幕閣の開明派・川路聖謨に働きかけ。種痘所の計画用地として川路聖謨の神田於玉ヶ池の屋敷の一角を借りることとする。
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1857(安政4)年11月12日、長崎海軍伝習所にて、第二次海軍伝習隊と共にオランダ軍医・ポンペ(Pompe Van Meerdervoot)が来日。医学伝習所(後に長崎医学校、現・長崎大学)創立。幕府医官・松本良順ら12名に医学講義を行う。西洋医学の伝習が始められ、江戸とならび長崎が幕末における西洋医学の中心に。西洋医学のほか、化学・物理学・生理学等も授けられ、物理学・化学に基礎を置く日本の近代医学の始まりとなる。
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1857(安政4)年末、医学伝習所、公開種痘を開始。
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1857(安政4)年 福澤諭吉(23歳)、最年少で適塾(適々斎塾)第10代塾頭に。オランダ語の原書を読み、あるいは筆写、その記述に従って化学実験、簡易な理科実験などを行う。生来血を見るのが苦手であり、瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さず。
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岡見清熙、江戸中津藩邸内にて蘭学塾(慶應義塾大学の源流)設立。蘭学教師について、投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を杉亨二、松木弘安(寺島宗則)に依頼。一方、幕府において勝海舟が台頭。大砲も判り、勝海舟とも通じる適塾塾頭・福澤諭吉に白羽の矢を立てる。
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1858(安政5)年 福澤諭吉(24歳)、中津藩江戸藩邸に設立された蘭学塾(慶應義塾大学の源流)の講師を任されることに。適塾(適々斎塾)を去る。塾頭後任に、長與專齋を指名。古川正雄(古川節蔵)・原田磊蔵を伴う。築地鉄砲洲の奥平家中屋敷に住み込み、蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の鳩居堂から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。
1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立
江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎・伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫・林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所(東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎。
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1858(安政5)年6月5日(旧暦・4月24日) 緒方洪庵(49歳)、天然痘予防の活動を幕府が公認。牛痘種痘が免許制に。
1858(安政5)年7月 蘭方医解禁令
幕府医師の和蘭兼学を認める。蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に登用される。
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1858(安政5)年7月3日 伊東玄朴(58歳)、江戸幕府13代将軍・徳川家定が脚気により重態に。漢方医の青木春岱、遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海と共に幕府奥医師に挙用される。蘭方内科医が幕医に登用される始まりとなる。
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1858(安政5)年7月7日 伊東玄朴(58歳)、幕府奥医師に挙用されたこの機会を逃さず、蘭方の拡張を図る。伊東寛斎・竹内玄同の増員に成功。蘭方内科奥医師は4名に。
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1858(安政5)年 緒方惟準(16歳)、長崎遊学。医学伝習所(後に長崎医学所、現・長崎大学)でポンペ、ボードウィン、クーンラート・ハラタマに師事、オランダ医学を学ぶ。
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1859(安政6)年、長崎海軍伝習所閉鎖。設置期間は短かったが、江戸時代においてオランダを通じて西洋文化を学ぶための窓口となったことで極めて重要な役割を果たした。洋学者の多くは先ずは長崎で蘭学を学ぶことに。
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1859(安政6)年 佐藤尚中(舜海)(33歳)、佐藤泰然より家督を譲り受ける。佐倉順天堂第2代堂主に。
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1860(安政7/万延元)年9月1日 大槻俊斎(55歳)、将軍徳川家茂に拝謁。お目見え医師となる。
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1860(安政7/万延元)年 佐藤尚中(舜海)(34歳)、関寛斎ら4人の門人と共に長崎遊学。松本良順の案内により、医学伝習所にてポンペ・ファン・メーデルフォールトにオランダ医学を学ぶ。
1861(万延2/文久元)年1月 西洋医学所発足
種痘所が幕府直轄に。西洋医学所(現・東京大学医学部)に改称。教授・解剖・種痘の三科に分かれ、西洋医学を教授・実践する場となる。初代頭取に、大槻俊斎。
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1861(万延2/文久元)年9月 松本良順(30歳)、コレラ流行を踏まえ、長崎奉行所に衛生行政の重要性を訴える。病院設立の必要を説き、幕府がこれに応じる。長崎に124床のベッドを持つ日本初の近代西洋医学病院・小島養生所開院。ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらない、極めて民主的なものであった。あわせて医学伝習所をここに移転、医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)として併設。初代頭取に。
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1861(万延2/文久元)年 長與專齋(24歳)、長崎の医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)にて、オランダ人医師ポンペより西洋医学を学ぶ。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事、医学教育近代化の必要性を諭される。
1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置
文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所は昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。
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1862(文久2)年 緒方洪庵(53歳)、幕府より西洋医学所頭取として出仕要請。健康上の理由から一度は固辞するも、度重なる要請を受けて江戸出仕。奥医師兼西洋医学所第2代頭取に。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙、島村鼎甫ら7名を推薦。
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1862(文久2)年 松本良順(31歳)、奥詰医師となる。西洋医学所頭取助を兼ねる。
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1862(文久2)年12月16日 伊東玄朴(62歳)、蘭方医として初めて法印に進み、長春院と号す。名実共に、蘭方医の頂点に立つ。
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1862(文久2)年12月 緒方洪庵(53歳)、法眼に叙せられる。富と名声を得るも、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しむ。さらに、蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じてピストルを購入。
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1863(文久3)年2月、西洋医学所が医学所に改称。
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1863(文久3)年7月 松本良順(32歳)、緒方洪庵の後任として、医学所(現・東京大学医学部)第3代頭取就任。適塾(適々斎塾)式を廃止、ポンぺ式に刷新。教育内容、教育方法の大改革を断行。「専ら究理、舎密、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」。適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。
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1863(文久3)年12月26日 松本良順(32歳)、奥医師となる。
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1863(文久3)年 三宅艮斎(47歳)、医学所教授に。外科術・包帯術を教える。国防に対処する医学の革新を唱え、外科器機類の製作に貢献。
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1863(文久3)年 相良知安(28歳)、医学所(後に長崎医学校、現・長崎大学)にてオランダ人医師ボードインより医学を学ぶ。
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1864(文久4/元治元)年5月9日 松本良順(33歳)、法眼に叙せらる。
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1864(文久4/元治元)年 - 1868(慶応4/明治元)年 池田謙斎(24-28歳)、幕府の命にて、長崎遊学。長崎精得館にて、ボードウィンらに学ぶ。
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1865(元治2/慶応元)年春 松本良順(34歳)、ポンペの教えに従い、医学所の組織を整備拡充、7科(物理・化学・解剖・生理・病理・薬剤学・内科・外科)を置く。
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1865(元治2/慶応元)年 緒方惟準(23歳)、幕府の命により、オランダ留学。ユトレヒト大学で学ぶ。
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1865(元治2/慶応元)年 石黒忠悳(21歳)、江戸に出て、医学所に学ぶ。卒業後、医学所句読師となる。
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1866(慶応2)年5月 松本良順(35歳)、種痘のための出張所を江戸数ヵ所に設置。
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1867(慶応3)年 渡辺洪基(20歳)、医学所出仕。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1867(慶応3)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
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1868(慶応4/明治元)年 池田謙斎(28歳)、長崎より江戸に戻る。小典医に、医業従事。
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池田謙斎、兵部省医師として、戊辰戦争に従軍。
1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し
官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。
1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文』
政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
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1868(慶応4/明治元)年 松本良順(37歳)、戊辰戦争、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となる。会津戦争後、仙台にて降伏。一時、投獄。戦乱により医学所は休止状態に。
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1868(慶応4/明治元)年 佐藤尚中(舜海)(42歳)、戊辰戦争の戦乱により、佐倉養生所閉鎖。
1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所と医学所を接収
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
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1868(慶応4/明治元)年5月 長與專齋(31歳)、長崎精得館(後に長崎府医学校、現・長崎大学)の医師頭取に。
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1868(慶応4/明治元)年7月、横浜の軍陣病院を下谷藤堂邸に移転、大病院と称す。医学所を附属とする。
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1868(慶応4/明治元)年7月 緒方惟準(26歳)、幕府崩壊の報を受け帰国。京都朝廷の命により、典薬寮医師、玄蕃少允に。
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1868(慶応4/明治元)年8月14日(旧暦・6月26日)、医学所、医学校に改称。翌年1月より、イギリス公使館付医師・Wウィリスを教師として授業開始。
1868(慶応4/明治元)年8月17日(旧暦・6月29日) 新政府が昌平坂学問所を接収
明治新政府が昌平坂学問所(昌平黌)を接収、官立の昌平学校として再出発。
1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都
江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。
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1868(慶応4/明治元)年10月 緒方惟準(26歳)、医学校・大病院の取締に。
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1868(慶応4/明治元)年10月31日(旧暦・9月16日)、京都に大学校を新設する太政官布告。これにより、漢学所が11月2日(旧暦・9月18日)開講。やや遅れ、1月26日(旧暦・12月14日)に皇学所開講。
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東京奠都、明治新政府により、京都での大学校設立構想は修正。東京の地に昌平坂学問所(昌平黌)を基盤とし、洋学・医学を織り交ぜた高等教育機関を設立する案へと変更。皇学所・漢学所が京都から東京へ移されることに。皇漢両学を教授する大学校の本校に、皇学所出身者が採用される。昌平坂学問所(昌平黌)の漢学(儒学)派と皇学所の国学派が激しく対立。
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1868(慶応4/明治元)年11月30日 長與專齋(31歳)、長崎精得館が長崎府医学校・病院(現・長崎大学)に。初代学頭に。マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行う。
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1868(慶応4/明治元)年、適塾(適々斎塾)閉鎖。
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1869(明治2)年1月 相良知安(34歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。強引なドイツ医学の採用の進言の経緯より、ウィリスを推していた西郷隆盛、山内容堂の体面をつぶし、薩摩閥、土佐閥の恨みを受ける。
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明治維新後、それまでの医学校では日本人教師によりオランダ医学を教えていたが、イギリス人教師によるイギリス医学が取り入れられる。しかし、ドイツ医学が優秀であることを認め、ドイツ医学を中心とすることに方針転換。
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1869(明治2)年2月、医学校兼病院に改称。5局(医学校・病院・種痘館・黴毒院・薬園)を置く。
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1869(明治2)年2月、大阪府知事・後藤象二郎、参与・小松清廉の尽力により、東成郡東高津村八丁目寺町(現・大阪市天王寺区上本町四丁目)の大福寺に浪華仮病院、および適塾(適々斎塾)元塾生らを中心とする仮医学校(後に大阪医学校、現・大阪大学医学部)設立。院長に緒方洪庵の次男・緒方惟準。主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招く。一般の病気治療と医師に対する新治術伝習を行う。
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1869(明治2)年2月 緒方惟準(27歳)、医学校・大病院の取締を辞し、大阪の医学伝習御用掛に。浪華仮病院(現・大阪大学医学部)院長就任。オランダ軍医・ボードインと共に病院運営にあたる。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1869(明治2)年12月 佐藤尚中(舜海)(43歳)、明治新政府より医学教育確立のための出仕を求められる。一度は辞退も、要請に応じる。大学大博士に。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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石黒忠悳、医学所解散により、一時帰郷するも再び東京に戻る。大学東校に勤める。
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1870(明治3)年5月、明治新政府、大学東校の上野移転を計画。
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1870(明治3)年7月、普仏戦争の影響により、ドイツ人教師ミュルレルとホフマンの来任が遅れる。大阪医学校教師の任期を終えたオランダ医ボードウィンに講義を委嘱。大学東校の上野移転計画はボードウィンの反対により中止。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
1870(明治3)年7月27日 貢進生
太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。
1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。
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1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手。
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江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥・加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。
1870(明治3)年9月 相良知安(35歳)、部下の大学会計の不正疑惑に連座、収監される。石黒忠悳、江藤新平らの献策により出獄が適い、復職。
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1870(明治3)年 高木兼寛(22歳)、薩摩藩・鹿児島医学校入学。校長の英国人ウィリアム・ウィリスに認められ、教授に抜擢。
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1870(明治3)年、明治新政府がドイツ医学修得を命じ、池田謙斎・大沢謙二・長井長義ら9名が国費留学。
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1870(明治3)年 - 1876(明治9)年 池田謙斎(30-36歳)、プロイセン王国留学を命じられる。ベルリン大学入学、ドイツ医学修得。
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1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。
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1871(明治4)年7月 江藤新平(38歳)、文部大輔に。加藤弘之と共に日本の教育制度改革に着手。大学本校・大学南校・大学東校の分裂問題を担当、「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。また、文部省務の大綱を定める。後任の盟友、初代文部卿・大木喬任の下、学制として体系化される。
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1871(明治4)年8月、大学東校にドイツ人教師ミュルレルとホフマンの招聘が実現、来任。ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる。日本の医学教育制度構築の全権を託す。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学東校、文部省管轄に。東校に改称。
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1871(明治4)年、第一回国費留学生として、各分野から11名をアメリカ・ヨーロッパへ留学させる。うち、池田謙斎・大沢謙二・長井長義ら9名がドイツ医学修養のためにドイツへ。
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1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。
→ 東京大学
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1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、東校、南校と同様に一旦閉鎖。学則改正後、再開。入学試験を実施、学力優秀者の再入学を許可。
→ 東京大学医学部
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