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ダイガクコトハジメ - 品川弥二郎

品川弥二郎

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品川弥二郎

しながわやじろう

1843(天保14)年11月20日(旧暦・9月29日) - 1900(明治33)年2月26日

官僚・政治家、獨逸学協会学校(獨協大学の源流)設立発起人

「品川弥二郎」に関する書籍 [外部]

  • 1843(天保14)年11月20日(旧暦・9月29日) 品川弥二郎(1歳)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女まつの間に長男として生まれる。

  • 1857(安政4)年 吉田松陰(28歳)、叔父・玉木文之進が主宰する松下村塾の名を引き継ぎ、杉家隣の小屋を改装、8畳1間の松下村塾創立。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育、幕末より明治期の日本を主導した人材を数多く輩出。尊皇攘夷を旨とし、儒学、兵学、史学など広範な学問が教授される。一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」であった。

1858(安政5)年 - 1859(安政6)年 安政の大獄

幕府大老・井伊直弼や老中・間部詮勝らが、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印。また、将軍継嗣を徳川家茂に決定。これら諸策に反対する尊王攘夷家や一橋派の大名・公卿・志士らを弾圧。連座した者は100人以上に。

  • 1859(安政6)年 吉田松陰(30歳)、梅田雲浜が幕府に捕縛される。梅田雲浜の萩滞在時に面会していること、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が梅田雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座。江戸檻送、伝馬町牢屋敷に投獄される。間部要撃策を自ら進んで告白、斬首刑が宣告される。

  • 1859(安政6)年 品川弥二郎(17歳)、安政の大獄、師・吉田松陰が刑死。高杉晋作らと行動を共に、尊王攘夷運動に奔走。英国公使館焼き討ちなど実行。

  • 1864(文久4/元治元)年 品川弥二郎(22歳)、禁門の変、八幡隊長として参戦。後に太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織。

  • 1865(元治2/慶応元)年 品川弥二郎(23歳)、木戸孝允と共に上京。情報収集・連絡係として薩長同盟の成立に尽力。

  • 1867(慶応3)年9月8日 大久保利通(38歳)、三藩盟約、武力による新政府樹立を目指す小松清廉・西郷隆盛と共に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明ける。それを機に、京都において薩摩藩が大久保利通と西郷隆盛、長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し、出兵協定を結ぶ。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年 品川弥二郎(26歳)、戊辰戦争、奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍。

  • 1870(明治3)年 品川弥二郎(28歳)、大山巌らと共に、普仏戦争視察のため渡欧。イギリス・ドイツで留学を続ける。

  • 1873(明治6)年 品川弥二郎(31歳)、ドイツ公使館に勤務。

  • 1876(明治9)年 品川弥二郎(34歳)、帰国。内務大丞、大書記官、少輔を歴任。

  • 1881(明治14)年 品川弥二郎(39歳)、農商務省新設に伴い、農商務少輔に。

  • 1881(明治14)年9月18日、当時最先端を誇ったドイツ文化の移植を目的に。政府主導により、獨逸学協会(獨協大学の源流)設立。初代総裁に、北白川宮能久親王就任。

  • 1882(明治15)年 品川弥二郎(40歳)、農商務大輔に。大日本農会・大日本山林会・大日本水産会創立にあたり、共同運輸会社を援助、三菱汽船会社に対抗させるなど、政府の勧業政策全般を指導。

1881(明治14)年10月 明治十四年の政変

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。

政府から追い出され下野した福澤諭吉慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。

  • 1884(明治17)年 品川弥二郎(42歳)、明治維新の功により、子爵に。

  • 1885(明治18)年 品川弥二郎(43歳)、駐独公使に。

  • 1887(明治20)年 品川弥二郎(45歳)、ドイツより帰国。枢密顧問官、宮中顧問官を歴任。宮内省御料局長を兼任、皇室財産の整理にあたる。

  • 1891(明治24)年 品川弥二郎(49歳)、第1次松方内閣において内務大臣に。信用組合法を議会提出、産業組合運動の先覚者となる。

  • 1892(明治25)年 品川弥二郎(50歳)、第2回衆議院議員総選挙において、次官・白根専一と共に警察を動員、強力な選挙干渉を行ない死者25人を出してしまった経緯を非難される。内務大臣を引責辞職。再び、枢密顧問官に。

  • 1892(明治25)年 品川弥二郎(50歳)、西郷従道と協力、政治団体・国民協会を組織。枢密顧問官を辞任。

  • 1892(明治25)年 渡辺洪基(45歳)品川弥二郎の手引により、国民協会創立に参画。

  • 1900(明治33)年2月26日 品川弥二郎(58歳)、死去。享年58歳。

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