ダイガクコトハジメ - 嘉納治五郎
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嘉納治五郎
かのうじごろう
1860(万延元)年12月10日(旧暦・10月28日) - 1938(昭和13)年5月4日
講道館設立、学習院政治経済学科教頭、哲学館(現・東洋大学)講師、第五高等中学校(現・熊本大学)校長、第一高等中学校(後に第一高等学校)校長、高等師範学校(現・筑波大学)校長、弘文学院・宏文学院設立、日本女子大学校(現・日本女子大学)創立委員、大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)設立・会長、貴族院議員、「柔道の父」・「日本の体育の父」
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1860(安政7/万延元)年12月10日(旧暦・10月28日) 嘉納治五郎(1歳)、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)に父・嘉納治郎作(希芝)と母・定子の三男として生まれる。嘉納家は屈指の名家であり、祖父の嘉納治作は酒造・廻船にて高名。その長女・定子に婿入りしたのが、父・嘉納治郎作。幕府の廻船方御用達を務め、和田岬砲台の建造を請け負う。神戸海軍操練所にいた勝海舟を後援、寄宿させる。
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1864(文久4/元治元)年5月 勝海舟(42歳)、海軍士官養成機関・神戸海軍操練所創立。公議政体論の軍事的応用、幕府や諸藩の垣根を越えて「日本の一大共有の海局を作りあげる」という壮大な構想を掲げ、「日本の海軍」創設を目指す。軍艦奉行に昇格。
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1866(慶応2)年 嘉納治五郎(7歳)、画家・山本竹雲らの下で漢学・儒教と書を学ぶ。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
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1869(明治2)年 嘉納治五郎(10歳)、母を亡くす。
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1870(明治3)年 嘉納治五郎(11歳)、明治新政府の要人となった勝海舟に推挙・招聘された父・嘉納治郎作と上京。東京にて書道・英語など学ぶ。
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1871(明治4)年 嘉納治五郎(12歳)、生方桂堂が主催する成達書塾に入塾。書を学ぶ。
1873(明治6)年4月 学制二編追加
「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。
「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。
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1873(明治6)年4月10日、学制二編追加に伴い、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組。第一大学区開成学校に。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。
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1873(明治6)年11月4日、学制二編追加により、開成学校より「語学課程」(普通科)が分離独立。開成学校語学課程(英・独・仏の3科)・独逸学教場・外国語学所を統合。東京外国語学校(東京外国語大学の源流)創立。官立最初の語学学校に。翌1874年までに全国に8校の官立外国語学校が設立される。
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1874(明治7)年 嘉納治五郎(15歳)、育英義塾(現・育英高等学校)入塾。洋学・英語・ドイツ語を学ぶ。
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嘉納治五郎、育英義塾時代より、自身の虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思う。非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されず。柳生心眼流の大島一学に短期間入門。後に、幕府講武所師範であった天神真楊流柔術の福田八之助に念願の柔術入門を果たす。
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1874(明治7)年 嘉納治五郎(15歳)、官立・東京外国語学校(東京外国語大学の源流)入学。
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1875(明治8)年 嘉納治五郎(16歳)、東京外国語学校(東京外国語大学の源流)卒業。東京開成学校(現・東京大学)入学。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年 嘉納治五郎(18歳)、東京大学文学部入学。政治学専攻、理財学兼修。中村敬宇(中村正直)・三島毅(三島中洲)・島田重禮(島田篁村)らに漢文学を学ぶ。横山由清・小中村清矩・川真頼らに和学を学ぶ。原担山・吉谷覚らに印度哲学を学ぶ。渋沢栄一の経済学講義を受講。アーネスト・フェノロサの薫陶を受ける。スペンサー哲学にも感銘を受ける。
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1878(明治11)年 嘉納治五郎(19歳)、漢学塾・二松學舍入塾。
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1879(明治12)年7月3日 嘉納治五郎(20歳)、渋沢栄一の依頼にて、飛鳥山別荘に訪問のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領を前に柔術を演武。
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1879(明治12)年8月 嘉納治五郎(20歳)、柔術の師・福田八之助が死去。天神真楊流の家元・磯正智、同門で湯島天神下同朋町にて修心館を開いていた井上敬太郎に師事。
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1880(明治13)年 嘉納治五郎(21歳)、東京大学の学園祭にて、戸塚派楊心流柔術一門の演武披露に飛び入り参加。小柄な身でありながら楊心流戸塚一門の巨漢と試合をして勝ち、一躍世間の話題となる。
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1881(明治14)年 嘉納治五郎(22歳)、東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。柔術の師・磯正智が死去。起倒流の飯久保恒年に師事。柔術二流派の乱捕技術を取捨選択、崩しの理論などを確立。独自の「柔道」を作るに至る。
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1882(明治15)年 嘉納治五郎(23歳)、下谷北稲荷町(現・台東区東上野)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場に。囲碁・将棋から段位制を取り入れ、講道館設立。
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1882(明治15)年 嘉納治五郎(23歳)、南神保町に英語学校・弘文館設立。
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1883(明治16)年10月 嘉納治五郎(24歳)、起倒流皆伝。
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嘉納治五郎、柔術のみならず剣術・棒術・薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図。香取神道流(玉井済道、飯篠長盛、椎名市蔵、玉井滲道)や鹿島新当流の師範を招き、講道館の有段者を対象に、古武道研究会を開く。望月稔・村重有利・杉野嘉男などの弟子を選抜、大東流合気柔術・植芝盛平や神道夢想流杖術・清水隆次、香取神道流・椎名市蔵などに入門させる。
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1887(明治20)年 嘉納治五郎(28歳)、井上円了が創立した哲学館(現・東洋大学)で講師に。棚橋一郎と共に、倫理学科目を担当。『哲学館講義録』共著。
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1891(明治24)年8月13日 嘉納治五郎(32歳)、第五高等中学校(現・熊本大学)校長に。教授陣に小泉八雲ら。
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1893(明治26)年6月19日 嘉納治五郎(34歳)、第一高等中学校(後に第一高等学校)校長に。
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1893(明治26)年9月20日 嘉納治五郎(34歳)、高等師範学校(現・筑波大学)校長および高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)校長に。通算25年務める。軍隊化方針を一部緩和、スポーツ活動を通じた人材育成を進めた結果、日本の学生スポーツ濫觴の場に。特に第一次大戦後、日本のスポーツが世界に飛躍していく基礎が築かれることとなる。
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1896(明治29)年 嘉納治五郎(37歳)、文部大臣・西園寺公望より清国の留学生13名の受け入れを託される。組織的な留学生に対する日本語教育の嚆矢に。留学生教育のための教育機関として、1899(明治32)年に亦楽書院、規模拡大のため1902(明治35)年に牛込に弘文学院(後に宏文学院)設立。文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、嘉納治五郎に師事。
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1897(明治30)年3月 嘉納治五郎(38歳)、創部すぐの東京専門学校(現・早稲田大学)柔道部を指導。
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1897(明治30)年3月24日 成瀬仁蔵(40歳)、日本女子大学校第一回創立委員会開催。創立委員長に大隈重信。総理大臣・伊藤博文、学習院院長・近衞篤麿、文部大臣・西園寺公望、財界人・渋沢栄一、岩崎弥之助ほか各界の重鎮の多大な支援を受ける。
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1898(明治31)年 嘉納治五郎(39歳)、全国の旧制中学校の必修科目として、柔道が採用される。
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1898(明治31)年 嘉納治五郎(39歳)、文部省普通学務局長に。全国各府県一校以上の高等女学校の設置を進める。
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1901(明治34)年4月20日 成瀬仁蔵(44歳)、日本で初めての組織的な私立の女子高等教育機関・日本女子大学校(現・日本女子大学)創立。初代校長に。「女子を人として、婦人として、国民として教育する」を教育方針に掲げる。設立者総代、大隈重信。
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1901(明治34)年 嘉納治五郎(42歳)、日本女子大学校(現・日本女子大学)創立委員に。
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1905(明治38)年 嘉納治五郎(46歳)、大日本武徳会より、柔道範士号を授与。
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1909(明治42)年 嘉納治五郎(50歳)、日本のスポーツの道を開く。東洋初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に。
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1911(明治44)年 嘉納治五郎(52歳)、大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)設立。会長に。
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1912(明治45/大正元)年 嘉納治五郎(53歳)、日本が初参加したストックホルムオリンピックにて、団長として参加。
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1922(大正11)年 嘉納治五郎(63歳)、講道館文化会設立。柔道の理念として、それまでの「柔の理」から新たに発展させた「精力善用」・「自他共栄」を発表。
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1922(大正11)年 嘉納治五郎(63歳)、貴族院議員に勅選。
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1927(昭和2)年 嘉納治五郎(68歳)、自身が柔道の精神として唱えた「精力善用」・「自他共栄」を校是とする、灘中学校設立に関わる。
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1936(昭和11)年 嘉納治五郎(77歳)、IOC(国際オリンピック委員会)総会にて、1940(昭和15)年の東京オリンピック招致に成功。後に、日中戦争の激化などにより返上。
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1938(昭和13)年5月4日 嘉納治五郎(79歳)、死去。享年、77歳。勲一等旭日大綬章を賜る。明治から昭和にかけ、日本におけるスポーツの道を拓く。「柔道の父」・「日本の体育の父」と呼ばれる。
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