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ダイガクコトハジメ - 青空文庫『学校』 - 『国民教育の複本位』大隈重信

参考文献・書籍

​『国民教育の複本位』大隈重信

初出:1897(明治30)年3月25日

関連:日本女子大学校日本女子大学大隈重信成瀬仁蔵

〔成瀬君からの依頼〕


 諸君、今日は成瀬《なるせ》〔仁蔵《じんぞう》〕君より諸君に向って何か一言述べる様にという事でありました。実は私は教育家でない。なかんずく女子教育という事については学んだ事もなければ、またそれほど深く注意をした事もない。それで甚《はなは》だ迷惑であるからご免を蒙《こうむ》りたいといって再三辞退を申したけれども、是非《ぜひ》何か述べる様にというので不肖《ふしょう》を顧《かえり》みず一言述べようと思います。


 昨年成瀬君にお目に懸《かか》りまして、女子大学を興すというお話を承りまして、初めて女子大学の大切なる事を承りました。一体私は学問というものはない、また教育上の智識も経験も無いに拘《かか》わらず、成瀬君の女子大学設置に熱心な賛成を致し、且《か》つご依頼に依て多少知るところの友人、その他に向って成瀬君のためにこの大学に力を尽すように誘導してくれと頼んだ。それについて私は成瀬君の説を聞いて少しく感じが起ったから、その感じの起ったゆえんを一言しようと思う。
 


〔国の基礎は国民の智識と性格〕


 漠然たる話の様でありますが、私が常に感じておりますのは、先刻から色々細かなご議論がありまして、また近衛《このえ》〔篤麿《あつまろ》〕公爵よりも家庭教育の大切であるという事を述べられましたが、まあ少しくそれに類するような事もあります。


 思うに誰でも国を富まし、兵を強うし、以て国家|万年《まんねん》の基礎を鞏固《きょうこ》にするという事を願わぬものはありますまい。資本家が資本を投じ、事業家が事業を営むのは、ただ徒《いたずら》に自己の福利を慮《おもんぱか》り、一家の繁栄を祈るがためのみではありますまい。まことに国を富まし、兵を強うし、以て国光を八表《はっぴょう》に輝かし、また国威を万世に垂れんがためでありましょう。けれども商売が如何《いか》に繁昌するも、産業がなにほど隆盛に趣くも、はたまた個人の所得如何に裕《ゆた》かに、国庫の歳入が幾ら充溢するも、更にまた鉄艦《てっかん》海《うみ》を蔽《おお》うも、貔貅《ひきゅう》野《の》に満つるも、未だ以て必ずしも国家の基礎鞏固なりとは申されません。真個《しんこ》の富国強兵とは、単に国民の財嚢《ざいのう》重きの謂《いい》ではない。また海陸の軍備の整えるを申すのでもない。勿論《もちろん》富と兵とは治国の要具には相違ありませんが、国家の生命を維持発達せしめてその基礎を堅固にするものは、なお別にその奥に潜伏して存しております。即ち国民の智識及び性格の二つであります。


 金銭は確かに一の勢力であるが、とても智識の勢力の旺盛なるには及ばない。蓋《けだ》し智識は造化児《ぞうかじ》さえをも捕えて奴隷となし、人間の使役に供し、以てその福利を増殖し、その開化を促進致します。もしそれ火輪車の海を駆けり、鉄車《てつしゃ》電車の陸を馳せ、電線の音信談話を伝え、郵法の書信貨物を運ぶということがなければ、どうして交通が自在なる事が出来ましょう。既に交通自在ならず、その上になお銀行の制度が設けられず、手形の交換が行われなんだならば、どうして商業が振い興りましょう。工業の発達は工学の発達に伴い、農業の進歩は農学の進歩に従わねばならぬ如くに、国民の強健は生理衛生医学の力に頼らなければならぬ。而《しか》して文学哲学の感化が深大でなければ、人心の壮麗《そうれい》崇高《すうこう》は得て望まれない。


 さて前《まえ》述べました通り、智識は疑いもなく大勢力でありますが、性格は更に深遠重大なる意義を有する勢力であります。蓋《けだ》し元来智識というものには善悪は無いので、これを用ゆる者の正邪に由《よ》りて善悪の区別が初めて起るのである。而《しか》して智識なきの性格は、俗儒《ぞくじゅ》のいわゆる君子というべき、愚直|為《な》すなきの国民を造るの恐れはありまするが、性格なきの智識は国民をして猾智《かっち》譎詐《きっさ》を事とし、上下こもごも利を貪《むさぼ》って、いわゆる我《われ》あるを知って他《た》あるを忘れ、個人あるを知って国家を思わぬので、彼我《ひが》の信用は地に堕《お》ちて実業も振わない、社会の徳義は紊乱《びんらん》する、風俗は頽廃《たいはい》する、国勢をして日に月に凋衰《ちょうすい》せしむるの虞《おそれ》あるのであります。


 全体性格の骨子ともいうべきものは信実でありまして、この信実が無ければ相互《あいたが》いの間に信用の存する余地はありません。而《しか》して信用の存する余地が無ければ、例えば、たとい銀行手形の便利を知り、これが制度を設けたとしても、何の役にも立ちません。然《しか》るに我が国民間に於ける手形交換の現況果して如何《どう》だかは、諸君の熟知せらるところ、また以て我が国民性格の高下《こうげ》を卜《ぼく》するに足るではありませんか。


 申すまでもなく富強は国家の素望《そぼう》で在って、智識性格は実にこれが根本であります。されば真個《しんこ》の富強は決して一躍して獲《え》られるべきものではない、必ずや深くその根本を培養し、その素養を確実にせねばなりません。而《しか》してその根本を培養し、その素養を確実にするものは実に教育である。されば真個の富強とは教育の基礎ある富強でなければならぬと謂《い》わねばなりますまい。


 明治五年学制発布|爾来《じらい》、我が邦《くに》教育事業|駸々乎《しんしんこ》として進み、上《うえ》、大学より、下《した》、幼稚園に至るまで、学校の設備大いに整頓し、教授の方法|頗《すこぶ》る発達し、明治二十三年教育勅語を下《くだ》し賜うに及んでや、徳育の方針ここに一定し、教化|益々《ますます》四海に普《あまね》く、明治二十七、八年|役《えき》に至って教育の効果はますますその光輝を発《はな》ち、内外の人士|嘆美《たんび》せざるはなき盛運に向いました。けれども過去二十有余年間の明治教育というものは、男子教育に偏《へん》しはしないかとの嫌いがありまして、未だ以て国民の教育が完備したと申す事は出来ません。

 

〔男女複本位の社会〕


 一体この社会の源は何《なん》であるか。国の源は何《なん》であるということについて考えてみますると、まず国民。国民の源は何《なん》である。夫婦。夫婦というものは即ちあらゆる国の、すべての社会の、原素になるものであります。然《しか》るに遺憾《いかん》ながら日本に於てはこの男女の関係というものが甚《はなは》だ漠然たるもので、まず概《おおむ》ね何事にも服従という義務を教ゆる他に何もない。ちょっと譬《たと》えを申すなら、近頃貨幣の問題が世の中に盛りになって参りましたが、その貨幣問題には色々説がある。単本位、複本位、あるいは金本位、銀本位、金銀両本位という説がある。然るに日本ではこれまで単本位であった。即ち国民というものは男に限られた。社会のあらゆるものは男が支配するものであるという一つの本位説が行われた。またすべて男女の関係というものは、女子はただ服従の義務という本位を守らせられた。言《いい》換うれば服従主義、即ち国民というものは、単本位主義に今日までなっておりました。それで四千万の国民だと威張るけれども、なあに女子を除いてみると二千万の国民になる。こういう有様であります。其処《そこ》で今度政府に於ては金本位――金単本位を採る事になりましたが、私は国民の上については両本位説を採りたいと思う。かく申すとなんだか私は生意気な事を言うようでありますが、実は私は能《よ》く知りませぬが、随分男女同権という事、ある社会に於てはあるけれども、私の言うのはそういう意味ではないので、真個《しんこ》富国強兵の実を挙げんとせば必ずや女子の智識を開発|上進《じょうしん》し、女子の性格を高尚優美ならしめなければならんと言うのである。


 もしそれ一家の主婦が家庭経済の道に通ずると否とが、家庭財政の利否《りひ》の岐《わか》るるところであるとすれば、一国の主婦ことごとく家庭経済の術に暗き時は、国家の不利申すまでもありますまい。また一家の主婦が小児教育の理に達すると否とは、家庭教育の得失の分《わか》るところなりとすれば、一国の主婦がことごとく小児保育の法を知らざる時は、国家の損耗《そんもう》測り知る事の出来ないほどである。商家の主婦が商業上の智識を以て夫の事業を輔佐《ほさ》すると、これに反して錦繍綾羅《きんしゅうりょうら》を纏《まと》うて煎茶《せんちゃ》弾琴《だんきん》を事とし、遊興《ゆうきょう》歓楽《かんらく》無用の消費に財を散じ、良人《おっと》の事業に休戚《きゅうせき》を感ぜざる事や、または軍人の妻女が良人出陣の砌《みぎり》に痴情の涙を湛《たた》えて離別を惜しむと、あるいは潔《いさぎよ》く袂《たもと》を別ちて奉公義勇の精神を鼓吹《こすい》するとは、そのいずれか国家の富強に益あるか、いずれか国家の元気に損あるかは、多弁を費やすの必要はありますまい。これを要しまするに、家庭経済は国家経済の基礎で、家庭教育は国民教育の根本である。而《しか》して家庭の風儀は社会の風儀の泉源《せんげん》であって、家庭の元気は即ち国民の元気でありとすれば、女子教育の国家に必要なる、素《もと》より其所《そこ》でありましょう。ことに内地雑居となった暁《あかつき》には、私交上に女子の技量を要する事、恐らくは今日の意想外でありましょう。私交上、女子の位地の重要なる事は、国際上に個人としての政治家の位地が重大なるに彷彿《ほうふつ》しておる。これただ二、三の例証に過ぎませんが、人生の各局部に於て陰に陽に女子が国家の富強に及ぼす映響の莫大なるは、今更|言《こと》新しく陳《の》ぶる必要はありません。されば内に国力を養い外に国光を発《はな》たんには、是非とも女子教育を盛大にせなければなりますまい。

 

〔女子大学の必要性〕


 斯様《かよう》に静かに考えてみると、実に女子大学の必要を感ずるのであるが、今|退《しりぞ》いて何故に女子は国民から取除《とりの》けられ、単本位の勢力をもっておったかと申しますると、畢竟《ひっきょう》男子は強く、独り強いばかりでない、多少教育もあって物を知っておる。これに反して女子は弱い、また教育もなかったというために、女子の勢力というものが非常に程度の低いもので、ついに銀が金に圧せられて、単本位の有様となったのである。これはどうもいかぬ。どうしてもこの国を強うするというには、是非《ぜひ》女子の程度を高めて、複本位、即ち男女を以て国民を組立て、而《しか》してこの夫婦の関係よりして家庭の教育を為すでなければ、とても優等なる国とすることは出来ぬと思います。


 それ故に女子大学、初めは実に大胆なる話と思った。女子大学というものが、世界に在るかどうか、私には分らんくらいで、実は初めは冷淡に考えた。ところが徐《しず》かに考えてみたら、そうではない。どうしてもこの女子の教育が進まんでは家庭教育――家庭教育のお話は先刻から反覆お話があったが、どうしても男子より女子に重きを置かなければならん。遺伝の力も男子より女子が一層強いです。


 それから今一つ感じを起したのは、小学校の普通教育はよほど進んで来た。先刻お話しになった国々と比較してみると、甚だどうも歎息《たんそく》する訳であるが、しかし女子の小学に入る数は、よほど増したから、これは宜《よろ》しい。しかし小学以上の教育は誠に指を屈するほどしかない。女子の高等教育というものはほとんど無いくらいである。小学の教育を受けた女子は年々数を増すが、幾歳で卒業するかというと、十三、四歳、十三、四歳から婚姻するまでには、どうしても六、七年間がある。その間何をしておる。それはどうも先刻成瀬君が歎息をせらるる通りの風俗、実に恐るべき風俗に導かれて、そうしてマ一つの弊害は、早婚の弊、これは実に怖ろしい。今日の有様であれば、段々日本の国民の体力は弱くなってしまう。体力が弱くなると同時に精神が弱くなって来るに相違ない。これではどうも世界の強国と相対《あいたい》するということはとても出来ない。世界の最も文明なる最も強壮なる国民と相競うという事については、その原《もと》を養わなくてはならん。その源は何《なん》であるといえば即ち女子の教育である。


 それ故に私は女子大学、初めは大胆の事と考えたが、考えてみると決してそうではない。しかしこれはなかなか困難な事業である。前途甚だ遠いことであるが、遣《や》らんでは往《ゆ》かん。また女子の教育については失敗もあろう。弊害もありましょう。しかし弊害があらばその弊害を掃《はら》わなければならん。また失敗があらばその失敗に鑑《かんが》みて成功の企てをしなければならん。ここに於て私は熱心に成瀬君の説に同意した。それ故私は教育の事には少しも経験もなければ学問も無いに拘《かか》わらず、熱心に成瀬君のために労を取って、出来るだけ力を尽してこの大学を成立せしめて将来の繁栄を望み、この大学の力を以て将来女子教育に及ぼす所の感化力を益々《ますます》大にして、我が国の女子教育の程度を進歩発達せしめたい。その成功をこの学校より起すことを望んで、力を尽す心得で賛成致した訳でありますから、もし諸君がご同感ならばお互いに充分力を尽してこの学校の事に尽力せられんことを希望致します。


 一体教育家はただこれ一の事業家であって、賛助員諸君はその資本家であります。たとい教育家にして志望に満ち、精神に溢れ、赤誠《せきせい》に富みまするも、教育事業の資本家たる諸君の助力|微《なか》りせば、あたかもこれ糧食なくして戦陣に臨むと一般で、如何《いか》なる勇将猛卒《ゆうしょうもうそつ》も能《よ》くその功を奏する事ができざる如く、教育事業も挙がらぬということは瞭然《りょうぜん》火を見る様であります。


 今それ女子教育の国家に必要なる――日本女子大学校設立の日本女子教育に必要なる、既に前段述べた通りであれば、諸君のこれを賛助せらるるの必要は申すまでもなく、その日本女子大学校の設立せらると否とは、まことに賛助員諸君の意向|如何《いかん》に存すと言って宜《よろ》しいのでありますまいか。


 今もし不幸にして日本女子大学校が設立せらるる運びに至らざる様なる事あらば、ただに遺憾《いかん》なるのみならず、また実に諸君が平日業務に従事せらるる素志目的に戻るものと謂《い》わねばなりません。日本の金権を掌握するところの大都|名邑《めいゆう》の紳士豪商諸君が、賛助の意を表したる一箇《いっか》の女子大学校が設立を完《まっと》うする事が出来ぬとは、予《わたくし》の信ずることの出来ぬところであります。


 諸君、諸君が日本女子大学校を賛助せらるるは、一個の主唱者、一団の発起人に助力を与うるのではありません。実に国家の生命に食物を供給し、国を富まし、兵を強うし、以て国家をして健全なる発達を遂げしむるものであって、諸君が平常の素志目的を貫くの一端に外《ほか》ないと思います(拍手大喝采)。



底本:「大隈重信演説談話集」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年3月16日第1刷発行
底本の親本:「女子教育談」青木嵩山堂
   1897(明治30)年4月25日発行
初出:日本女子大学校第一回創立披露会での演説
   1897(明治30)年3月25日
※中見出しの〔〕は、底本編集時に与えられたものです。
※〔 〕内の補足・注記は、編者による加筆です。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
※本文冒頭の編者による解題は省略しました。
入力:フクポー
校正:門田裕志
2019年7月30日作成
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