ダイガクコトハジメ - 大隈英麿
出身校
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ダートマス大学
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プリンストン大学
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参考情報
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参考文献・書籍
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年表 | 動画
大隈英麿
おおくまひでまろ
1856(安政3)年10月9日(旧暦・9月11日) - 1910(明治43)年5月14日
内務省、外務省、政治家、東京専門学校(現・早稲田大学)初代校長、早稲田尋常中学校設立・初代校長、早稲田実業中学校初代校長
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1856(安政3)年10月9日(旧暦・9月11日) 大隈英麿(1歳)、陸奥盛岡城内に盛岡藩第14代藩主・南部利剛の次男として生まれる。幼名、剛建。
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1870(明治3)年 - 大隈英麿(15歳-)、姉・郁子の夫、華頂宮博経親王に従い渡米。現地の小・中学校を経て、ダートマス大学入学。天文学専攻。指導教授の転任に伴い、プリンストン大学入学。数学を修める。理学学士。
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1874(明治7)年 大隈英麿(19歳)、アナポリスの海軍兵学校入学。
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1878(明治11)年 大隈英麿(23歳)、帰国後、大隈重信の長女・熊子と結婚。大隈家の養嗣子に。
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大隈英麿、内務省地理局、外務省勤務。
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1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、当時急進的過ぎるとされていたイギリス型政党内閣制案を伊藤博文への事前相談無しに、独自に提出。伊藤博文は大隈重信を警戒するように。また、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」への反対集会が各地で開催される騒動が起きていたが、大隈重信も反対論者であった。慶應義塾出身者も演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多く、反対運動について政府関係者に大隈重信・福澤諭吉・慶應義塾の陰謀説が浮上。明治十四年の政変の引き金に。
1881(明治14)年10月 明治十四年の政変
自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内で君主大権を残すドイツ型のビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われる。前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶応義塾門下生を政府から追放。大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まった。
政府から追い出され下野した福澤諭吉の慶応義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ。実業界へ進出することに。野に下った大隈重信も10年後の国会開設に備え、小野梓・矢野龍渓と共に立憲改進党を結成。また、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に創立。
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1881(明治14)年 大隈重信(44歳)、明治十四年の政変、自由民権運動に同調。国会開設意見書を提出、早期の憲法公布と国会の即時開設を説く。一方、開拓使官有物払下げを巡り、かつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立。自身の財政上の失政もあり、参議を免官に。下野。
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1881(明治14)年 大隈英麿(26歳)、明治十四年の政変、大隈重信の下野と共に、官を辞す。
1881(明治14)年10月12日 国会開設の勅諭
自由民権運動の高まりを受け、また明治十四年の政変による政府批判の鎮静化を目的に。明治天皇が「10年後の1890(明治23)年に議員を召して国会を開設すること」・「その組織や権限は自ら定めて公布する(欽定憲法)こと」を勅諭。政府は政局の主導権を取り戻す一方、自由民権運動は国会開設に向けた政党結成に向かうことに。
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大隈英麿、留学時代に得た学識を活用、理学系の学校を興すことを大隈重信に持ち掛ける。鷗渡会同志との協議の結果、政治経済や法律を教授する学校の設立に方針転換。
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1882(明治15)年10月21日 大隈重信(45歳)、英国流の近代国家建設という政治展望の一事業として。小野梓・高田早苗らと共に、東京専門学校(現・早稲田大学)創立。「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を掲げる。北門義塾校舎を受け継ぐ。政治経済学科・法律学科・理学科・英学科設置。理学科は学生が集まらず、早々に廃止。
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1882(明治15)年10月21日 小野梓(31歳)、「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を謳い、東京専門学校(現・早稲田大学)創立に参画。「学問の独立」宣言、一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。
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1882(明治15)年10月21日 矢野龍渓(32歳)、東京専門学校(現・早稲田大学)設立に携わる。創立委員に。
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東京専門学校、「学問の独立」を掲げるも、明治政府より大隈重信率いる自由民権運動政党・立憲改進党系の学校と見做される。判事・検事および東京大学教授の出講禁止措置など、様々な妨害・圧迫が加えられる。講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法学系で新設の英吉利法律学校(現・中央大学)との合併話が持ち上がるなど、学校存続の危機に。
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1882(明治15)年 大隈英麿(27歳)、東京専門学校(現・早稲田大学)初代校長に。
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大隈英麿、第二高等中学校にて教鞭を執る。
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大隈英麿、高等商業学校にて教鞭を執る。
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1898(明治31)年 大隈英麿(43歳)、第5回・第6回衆議院議員総選挙、郷里・岩手県から立候補。進歩党所属で当選。
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1901(明治34)年 大隈英麿(46歳)、早稲田実業中学校初代校長に。
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1902(明治35)年 大隈英麿(47歳))、第7回総選挙、憲政本党に属して当選。
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1902(明治35)年9月 大隈英麿(47歳)、諸般の事情により熊子と離婚、大隈家を去る。早稲田の学園に関する職を全て辞職。南部家に復する。
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1910(明治43)年5月14日 大隈英麿(55歳)、死去。享年55歳。
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