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ダイガクコトハジメ - 山尾庸三

山尾庸三

出身校

  • 江川塾

  • アンダーソン・カレッジ

関連する学校・組織(前史)

関連する学校・組織(現代)

関連する教育者

  • 伊藤博文

  • エドモンド・モレル

  • 大鳥圭介

  • 桂小五郎(木戸孝允)

  • 武田斐三郎

  • ヘンリー・ダイアー

参考情報

参考文献・書籍

 

年表 | 動画

山尾庸三

やまおようぞう

1837(天保8)年11月5日(旧暦・10月8日) - 1917(大正6)年12月22日

工部卿、工学寮工学校(後に工部大学校)創立・初代工学頭、法制局初代長官、参事院副議長、宮中顧問官、楽善会訓盲院設立、日本聾唖協会総裁、「長州五傑

​「山尾庸三」に関する書籍 [外部]

  • 1837(天保8)年11月5日(旧暦・10月8日) 山尾庸三(1歳)、周防国吉敷郡二島村(現・山口県山口市秋穂二島)に長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男として生まれる。

  • 山尾庸三、萩藩寄組・繁沢石見に経理の才を認められ、奉公に上がる。

  • 1852(嘉永5)年 山尾庸三(16歳)、江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事。その後、江川塾の門弟に。

  • 1861(万延2/文久元)年 山尾庸三(25歳)、幕府船・亀田丸に乗船。幕臣・北岡健三郎と共に、ロシア領アムール川流域を査察。

  • 山尾庸三、帰国後、箱館に滞在。武田斐三郎に師事。

  • 1862(文久2)年12月 山尾庸三(26歳)、英国公使館焼き討ち事件に参加。伊藤博文と共に、塙忠宝・加藤甲次郎を暗殺。尊王攘夷の志士として活動。

  • 1863(文久3)年5月12日 - 1868(慶応4/明治元)年 山尾庸三(27-32歳)、密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。「長州五傑」と呼ばれる。ロンドンにて英語と基礎科学を学んだ後、グラスゴーにて造船を中心とした徒弟制訓練を受ける。アンダーソン・カレッジの音楽教師であったコリン・ブラウンの家に下宿、講義を受ける。一方、造船所で聴覚障害者が熟練工として働くのを見て、国家の近代化には障害者教育が必要と確信。

  • 1863(文久3)年5月12日 - 1864(文久4)年6月 伊藤博文(23-24歳)、井上馨の薦めで海外渡航を決意。藩命により陪臣から士籍に。密航で山尾庸三・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリス留学。「長州五傑」と呼ばれる。荷物は1862(文久2)年発行の間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけ。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられる。9月23日、ロンドン到着。

  • 伊藤博文(23-24歳)、ヒュー・マセソンの世話を受け、化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在。英語や礼儀作法の指導を受ける。英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設・工場などを見学して見聞を広める。イギリスと日本とのあまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりに。開国論に転じる。

  • 森有礼、薩摩藩第一次英国留学生の留学中、ロンドンにて長州五傑(井上聞多/井上馨遠藤謹助・山尾庸三伊藤博文・野村弥吉/井上勝)と出会う。

  • 伊藤博文(23-24歳)、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知り、井上馨と共に急ぎ帰国。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年 山尾庸三(32歳)、イギリス留学より帰国。明治政府に出仕、横須賀製鉄所担当権大丞に。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 大隈重信(33歳)、殖産興業を推進する工部省を民部省より分離。

  • 1870(明治3)年12月12日(旧暦・10月20日) 伊藤博文(30歳)山尾庸三と共に工部省設立に尽力。鉄道技師長エドモンド・モレルの提案を受け、お雇い外国人技術者に頼るのではなく日本人技術者を養成すべきとし、教務部併設を主張。太政官制度の下、日本近代化のための社会基盤整備と殖産興業推進を目的とする中央官庁として、工部省設置。​初代工部卿として、殖産興業を推進。殖産興業は後に、内務卿・大久保利通の下、内務省へと引き継がれる。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 伊藤博文(31歳)、工部省に鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信灯台・製作・工学・勧工・土木の10寮と測量の1司を配置。山尾庸三工学寮と測量司の長官に。

  • 1871(明治4)年9月29日(旧暦・8月14日) 山尾庸三(35歳)、工部省の10寮1司の一等寮として、技術者養成のための工学寮創設。工部権大丞として、初代工学頭に。海外留学制度・国内技能研修制度(修技校)・技術大学制度(工学校)を通し、一元的に官職技術者育成を図る。最終的に工学寮工学校のみの直轄に。

  • 1871(明治4)年11月 山尾庸三(35歳)工学寮教師団の人選を依頼していたエドモンド・モレルが急逝。代わって教師団を人選、旧知のヒュー・マセソンに雇用協力を打診、快諾を得る。グラスゴー大学より工学教師ヘンリー・ダイアーを筆頭とする俊英が選ばれる。1873(明治6)年、教師団が来日。ヘンリー・ダイアーは当初の小学校と呼ばれる複数学校群設立案を退け、工学校(大学校)設置を立案。

  • 1871(明治4)年 山尾庸三(35歳)、盲学校・聾学校設置の建白書を提出。障害者教育に尽力。

 

  • 1873(明治6)年11月、工学寮工学校、基礎課程・専門課程・実地課程(各2年)の3期6年制学校として発足。ヘンリー・ダイアーが初代都検となり、実質的に校長を務めた。土木・機械・造家(建築)・電信・化学・冶金・鉱山・造船の6学科とする学則・カリキュラムが制定される。

  • 1875(明治8)年5月、古川正雄・津田仙中村正直・岸田吟香・ボルシャルトおよびヘンリー・フォールズの6人が集まり、盲人教育の必要について話し合う。盲人学校を設立するための主体として、楽善会発足。

  • 1875(明治8)年 大鳥圭介(43歳)、工部省四等出仕。技術官僚として、殖産興業政策に貢献。工作局長として、官営工場を総括。セメント・ガラス・造船・紡績などのモデル事業を推進するなどインフラ開発に関わる。工学寮権頭兼製作寮頭に。

  • 1876(明治9)年、楽善会訓盲院設立認可が下り、東京府より3000円が下賜される。前島密・小松彰・杉浦譲・山尾庸三が加わる。

  • 1877(明治10)年1月、工学寮廃止。ボアンヴィル設計による、当時世界で最も優れた工業教育施設とされる本館が完成。工学寮工学校は、工部大学校に改称。初代校長に、工作局長・大鳥圭介。イギリスから招聘された技師たちの指導の下、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行う。官費生には奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働く取り決めに。

  • 1880(明治13)年 山尾庸三(44歳)、工部卿に。工学関連の重職歴任。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年、太政官制度廃止により内閣制度発足。工部省が廃止され、逓信省と農商務省に分割・統合。工部大学校文部省に移管される。

  • 1885(明治18)年 山尾庸三(49歳)、新設の法制局、初代長官に。

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 山尾庸三、参事院議官に。

  • 山尾庸三、参事院副議長に。

  • 山尾庸三、宮中顧問官に。

  • 1915(大正4)年 山尾庸三(79歳)、日本聾唖協会総裁に。

  • 1917(大正6)年12月22日 山尾庸三(81歳)、死去。享年81歳。

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