ダイガクコトハジメ - 慶應義塾大学医学部
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参考情報
参考文献・書籍
学校略歴
→ 慶應義塾
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1859(安政6)年、福澤諭吉、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜を見物、専ら英語が用いられており、オランダ語が全く通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受け、英語の必要性を痛感、英学塾に転身する契機に
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1860(安政7)年、福澤諭吉、万延元年遣米使節に随行、アメリカの民主主義の文化風土に衝撃を受ける、帰国後、中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕、中津藩邸内にて英学塾として講義再開
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1862(文久元)年 - 1863(文久2)年、福澤諭吉、文久遣欧使節団に随行、香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりに、ロンドンの万国博覧会にて蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる、書物では分からない病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度など未知の事柄・日常について調べる、幕府支給の支度金400両で英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰る
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1868(慶応4/明治元)年8月14日(旧暦・6月26日)、明治新政府が医学所を接収、医学校に改称、イギリス公使館付医師・Wウィリスを教師として授業開始
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1869(明治2)年1月、相良知安、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、ドイツより教師を招くことに
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1871(明治4)年8月、大学東校、ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる、日本の医学教育制度構築の全権を託す
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1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学東校は文部省管轄に、東校に改称、一旦閉鎖、学則改正後に再開、入学試験を通過した学力優秀者だけの再入学を許可
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1873(明治6)年、松山棟庵、福澤諭吉と共に、当時蘭医が主流だった中で英医を学ぶことができる医学校の設立を画策、慶應義塾医学所創立、慶應義塾大学医学部の源流になると共に東京慈恵会医科大学の源流ともなる
→ 東京慈恵会医科大学
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1875(明治8)年 -、国家試験による医師の開業許可制が採用され、医術開業試験開始、医術開業試験はその合格のために「前期3年後期7年」と言われるほどの難関であり、受験のために多くの医学受験校が生まれる、医師免許は医術開業試験合格者のほか、医学教育機関卒業者に対して無試験で与えられる
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1880(明治13)年、慶應義塾医学所、慶應義塾の経営危機もあり存続断念、廃校、7年間に約300人の医師排出
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1883(明治16)年、北里柴三郎、東京大学医学部在学中、「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とすることを決意、卒業後に長與專齋が局長を務める内務省衛生局入省
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1890(明治23)年、北里柴三郎、血清療法をジフテリアに応用、同僚・ベーリングと連名で『動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について』という論文を発表、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に
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1892(明治25)年、北里柴三郎、論文をきっかけに欧米各国の研究所・大学から多くの招きを受けるも固辞、日本帰国、ドイツ滞在中に脚気の原因を細菌とする帝国大学医科大学教授・緒方正規の脚気菌説を否定・批判したことで、母校・帝国大学医科大学と対立する形に、日本での活躍が限られてしまう
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1892(明治25)年10月、北里柴三郎、福澤諭吉・森村市左衛門・長與專齋の支援を受け、日本で最初の伝染病研究所となる私立伝染病研究所設立
→ 北里大学
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1899(明治32)年3月、北里柴三郎、「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」との信念により、研究所を内務省管轄に、国立伝染病研究所に
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1914(大正3)年10月、伝研騒動、政府が一切の相談なく、国立伝染病研究所を内務省より文部省に移管、東京帝国大学医科大学の下部組織にすると発表、これに反発した北里柴三郎・北島多一・志賀潔らをはじめとする職員全員が一斉に辞表を提出
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1914(大正3)年11月5日、北里柴三郎、私財を投じて北里研究所設立、所長に、狂犬病・インフルエンザ・赤痢・発疹チフスなどの血清開発に取り組む
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1916(大正5)年、国立伝染病研究所が東京帝国大学附置伝染病研究所に
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1917(大正6)年4月、北里柴三郎、福澤諭吉没後、「余は福澤先生の門下生ではないが、先生の恩顧をこうむったことは門下生以上である」と長年の多大なる恩義に報いるため慶應義塾大学部医学科創立に尽力、初代医学科学長に、北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込む
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1920(大正9)年4月、慶應義塾、大学令に基づき、全国諸学校に先駆けて大学認可文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学に、予科・大学院を付設
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1949(昭和24)年4月、学制改革により新生大学として慶應義塾大学発足、文学・経済学・法学・工学の4学部設置
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1952(昭和27)年4月、慶應義塾大学医学部設置
創立者
学校総称
学校年表
1856(安政3)年6月 蘭書翻訳取締令
新刻の蕃書・翻訳書について、新設の蕃書調所に提出・検閲を受けることに。一般の翻訳書は書目年次を届出、翻訳が完成次第、蕃書調所に1部提出することとする。しかし、外国貿易が本格化するに従い、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎港以外でも行われるように。輸入許可制はなし崩しの状態となる。
1857(安政4)年2月 蕃書調所発足
洋学所を蕃書調所(東京大学の源流)に改称、日本初の洋学研究教育機関として発足。古賀謹一郎が初代頭取に。既に蘭学者として高名だった箕作阮甫や杉田成卿を教授として招聘。加えて、教授見習として三田藩・川本幸民、周防・手塚律蔵、宇和島藩出仕・村田蔵六(大村益次郎)、薩摩藩・松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、箕作秋坪、中村敬輔(中村敬宇・中村正直)、加藤弘之など、幕臣に限らず各藩の俊才も含め幅広く採用。国内の著名な学者が集う。
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蕃書調所、幕臣の子弟を対象に、蘭学を中心に隆盛な英学を加えた洋学教育を行う。また、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は活況、書籍は次第に充実。自然科学まで対象を拡げる。
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1857(安政4)年 福澤諭吉(23歳)、最年少で適塾(適々斎塾)第10代塾頭に。オランダ語の原書を読み、あるいは筆写、その記述に従って化学実験、簡易な理科実験などを行う。生来血を見るのが苦手であり、瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さず。
1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立
江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎・伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫・林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所(東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎。
1858(安政5)年7月 蘭方医解禁令
幕府医師の和蘭兼学を認める。蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に登用される。
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1858(安政5)年、蕃書調所、幕臣の子弟に限らず、諸藩士の子弟の入学も認める。
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岡見清熙、江戸中津藩邸内にて蘭学塾(慶應義塾大学の源流)設立。蘭学教師について、投獄・蟄居となった佐久間象山の後任を杉亨二、松木弘安(寺島宗則)に依頼。一方、幕府において勝海舟が台頭。大砲も判り、勝海舟とも通じる適塾塾頭・福澤諭吉に白羽の矢を立てる。
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1858(安政5)年 福澤諭吉(24歳)、中津藩江戸藩邸に設立された蘭学塾(慶應義塾大学の源流)の講師を任されることに。適塾(適々斎塾)を去る。塾頭後任に、長與專齋を指名。古川正雄(古川節蔵)・原田磊蔵を伴う。築地鉄砲洲の奥平家中屋敷に住み込み、蘭学を教える。間も無く、足立寛、村田蔵六の鳩居堂から移ってきた佐倉藩・沼崎巳之介、沼崎済介が入塾。
→ 慶應義塾大学
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1859(安政6)年 福澤諭吉(25歳)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜を見物。そこではもっぱら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語がまったく通じず、看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来、英語の必要性を痛感。英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。鎖国の日本ではオランダが鎖国の唯一の例外であったが、大英帝国が世界の覇権を握る中、オランダに昔日の面影はなかった。蘭学塾が英学塾に転身する契機に。
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福澤諭吉、英語の勉強を志すも、当時鎖国日本の中でオランダ語以外の本は入手困難であった。幕府通辞・森山栄之助を訪問、英学を学ぶ。蕃書調所へ入所するも、英蘭辞書が持ち出し禁止だったため、1日で退所。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするも、神田孝平は蘭学から英学に転向することに躊躇、今までと同じように蘭学のみを学習することを望む。そこで村田蔵六に相談、ヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく、蕃書調所の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得することに。
1860(安政7)年 万延元年遣米使節
1858(安政5)年7月29日(旧暦・6月19日)締結の日米修好通商条約について、批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府がアメリカに使節団を派遣。外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興を正使、村垣範正を副使に。目付に、小栗忠順。米軍艦ポーハタン号に加え、護衛を名目に咸臨丸を派遣。軍艦奉行・木村喜毅を司令官に、乗組士官の多くを軍艦操練所教授・勝海舟をはじめとする長崎海軍伝習所出身者で固める。通訳に、中浜万次郎(ジョン万次郎)。軍艦奉行・木村喜毅の従者として、福澤諭吉も同行。総勢77人に。
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1860(安政7/万延元)年 福澤諭吉(26歳)、日米修好通商条約の批准交換のため、万延元年遣米使節が米軍艦ポーハタン号で渡米。この護衛艦・咸臨丸に軍艦奉行・木村摂津守の従者として乗り込み、アメリカへ。蒸気船を初めて目にしてからたった7年後、日本人のみの手によって初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海について、「日本人の世界に誇るべき名誉である」と述べる。
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1860(安政7/万延元)年 福澤諭吉(26歳)、アメリカより帰国。木村摂津守の推薦により、中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕。外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっており、英語とオランダ語を対照するのに都合が良く、英語の勉強を行う。
1861(万延2/文久元)年1月 西洋医学所発足
種痘所が幕府直轄に。西洋医学所(現・東京大学医学部)に改称。教授・解剖・種痘の三科に分かれ、西洋医学を教授・実践する場となる。初代頭取に、大槻俊斎。
1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置
文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所は昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。
1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 文久遣欧使節団
1858(安政5)年に江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと交わした修好通商条約について、両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉を目的に、ヨーロッパに最初の使節団を派遣。
正使、下野守・竹内保徳。副使、石見守・松平康直、目付、能登守・京極高朗。この他、組頭・柴田剛中・福地源一郎・福澤諭吉・松木弘安(寺島宗則)・箕作秋坪・尺振八らが一行に加わり、総勢36名に。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名に。
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1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、文久遣欧使節に幕府翻訳方として同行。同行者に、寺島宗則・福地源一郎・箕作秋坪・尺振八がおり、行動を共に。途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりに。イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪問。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚く。書物では分からない、病院・銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度など、未知の事柄・日常について調べる。
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1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、ロンドンにて万国博覧会視察。蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクにて、陸軍病院で外科手術を見学。
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1862(文久元)年 - 1863(文久2)年 福澤諭吉(28-29歳)、幕府支給の支度金400両で、英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰る。
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1863(文久3)年 福澤諭吉(29歳)、文久遣欧使節の品川帰港の翌日に英国公使館焼き討ち事件、3月に孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、4月に石清水八幡宮への行幸を受け、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つように。同僚の手塚律蔵や東条礼蔵が切られそうになるなど、外出も難しい世情に。
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1863(文久3)年7月 福澤諭吉(29歳)、薩英戦争、幕府翻訳方の仕事が忙しくなる。外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳。翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案。
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1864(元治元)年10月 福澤諭吉(30歳)、外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕。臨時御雇いではなく、幕府直参として150俵・15両を受け、御目見以上となり、御旗本に。
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1866(慶応2)年 - 1868(慶應4/明治元)年 小幡篤次郎(24-26歳)、江戸鉄砲洲中津藩邸の英学塾(現・慶應義塾大学)塾頭に。
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1866(慶応2)年 松山棟庵(28歳)、欧米の医学習得を志して上京するもツテなく。福澤諭吉と適塾以来親交の深い山口良蔵と出会い、福澤塾を推薦されて入塾。塾頭・小幡篤次郎と親交を深め、洋書の翻訳・出版にあたる。福澤諭吉がアメリカから持ち帰ったフリント『内科全書』(熱病編)をわずか2ヶ月で翻訳。『窒扶斯新論』として出版。日本最初の英語医学書の翻訳出版となる。
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1866(慶応2)年 - 1870(明治3) 福澤諭吉(33-37歳)、1860(安政7/万延元)年に万延元年遣米使節随行員としてアメリカに渡って以降、ヨーロッパの状況を日本に紹介。『西洋事情』刊行。初編3冊・外編3冊・2編4冊の10冊。その内容は政治・税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気機関、電信機、ガス燈などに及ぶ。著書を通じ、啓蒙活動を展開。
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1867(慶応3)年2月27日(旧暦・1月23日) 福澤諭吉(33歳)、江戸幕府の軍艦受取委員会随員(通訳)として、使節主席・小野友五郎と共にコロラド号で再び渡米。津田仙・尺振八が同乗。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れる。紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込む。
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福澤諭吉、帰国後、現地で使節主席・小野友五郎と揉めたことで、しばらく謹慎に。中島三郎助の働きかけにより、謹慎はすぐに解ける。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4)年4月6日(旧暦・3月14日) 『五箇条の御誓文』
政治政府の基本方針が示される。「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」
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1868(慶応4/明治元)年4月 福澤諭吉(34歳)、塾を慶應義塾と名付ける。教育活動に専念。三田藩・仙台藩・紀州藩・中津藩・越後長岡藩と懇意に、藩士を大量に受け入れる。特に紀州藩は慶應義塾内に紀州塾という藩士専用の部屋まで造られる。長岡藩は大参事・三島億二郎が共鳴、藩士を多数送り込み、笠原文平らが運営資金を支える。
→ 慶應義塾大学
明治新政府の布告により、開成所と医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。
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1869(明治2)年1月 相良知安(34歳)、岩佐純と共に明治新政府の医学取調御用掛に命じられる。明治新政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言、採用される。ドイツ医学の採用に尽力。強引なドイツ医学の採用の進言の経緯より、ウィリスを推していた西郷隆盛、山内容堂の体面をつぶし、薩摩閥、土佐閥の恨みを受ける。
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明治維新後、それまでの医学校では日本人教師によりオランダ医学を教えていたが、イギリス人教師によるイギリス医学が取り入れられる。しかし、ドイツ医学が優秀であることを認め、ドイツ医学を中心とすることに方針転換。
1869(明治2)年 版籍奉還
諸藩主が土地(版)と人民(籍)に対する支配権を天皇に奉還。旧藩主をそのまま知藩事に任命、変革を形式面に留めた。封建的な藩体制解体への第一歩を踏み出し、廃藩置県へと至る。
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1871(明治4)年8月、大学東校にドイツ人教師ミュルレルとホフマンの招聘が実現、来任。ドイツ人教師によるドイツ医学の授業が始まる。日本の医学教育制度構築の全権を託す。
1871(明治4)年8月29日(旧暦・7月14日) 廃藩置県
藩を廃止。地方統治を中央管下の府と県に一元化。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1872(明治5)年1月11日 佐藤尚中(舜海)(46歳)、東校(現・東京大学医学部)学事主務兼院長に。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年10月8日 相良知安(37歳)、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)初代校長に。『医制略則』起案。今日まで続く医学制度の基礎に。
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1873(明治6)年 松山棟庵(35歳)、福澤諭吉と共に、当時蘭医が主流だった中で英医を学ぶことができる医学校の設立を画策。慶應義塾医学所創立、校長に。慶應義塾大学医学部の源流になると共に、東京慈恵会医科大学の源流ともなる。
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1873(明治6)年 佐藤尚中(舜海)(47歳)、ドイツ人教師が東校(現・東京大学医学部)の全権を握り、医学生の大半を退学させ、外来患者の数も限定する事態に。患者も医学生も居場所を失ってしまったことに心を痛める。佐倉藩に戻る予定を取りやめ、下谷練塀町9番地(現・秋葉原)に順天堂設立。博愛舎の患者が転院。医学生の教育を行う。
1875(明治8)年 - 1916(大正5)年 医術開業試験
1874(明治7)年の医制公布により、国家試験による医師の開業許可制が採用される。新規開業の医師に西洋医学の知識が必須となる。医師免許は医術開業試験合格者のほか、医学教育機関卒業者に対して無試験で与えられる。
医術開業試験はその合格のために「前期3年後期7年」と言われるほどの難関であり、受験のために多くの医学受験校が生まれる。これら予備校より、後に私立医学専門学校・私立医科大学が誕生する。
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1875(明治8)年 松山棟庵(37歳)、東京医学会社(現・日本医学会)創立。『医学研究雑誌』発刊。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1879(明治12)年 福澤諭吉(45歳)、狸橋南岸一帯(現・港区白金)の土地を買収、別邸を設ける。この場所に、慶應義塾幼稚舎が移転。また東側部分が土筆ケ岡養生園(後に北里研究所、北里大学)となる。
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1880(明治13)年、慶應義塾医学所、慶應義塾の経営危機もあり、存続断念。廃校。7年間に300人の医師を輩出。ドイツ医学全盛にあって、一石を投じる。
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1881(明治14)年1月 福澤諭吉(47歳)、大隈重信と懇意の関係ゆえ、自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれ、危うい立場に。慶應義塾の自主独立を実現するため、塾生と共に『慶應義塾維持法案』を練り、『慶應義塾仮憲法』制定。渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることに。
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1881(明治14)年1月 高木兼寛(33歳)、日本医学界が東京帝国大学医学部・陸軍軍医団を筆頭にドイツ医学一色、学理第一・研究優先になっている現状を憂う。前年に廃止した英医学校・慶應義塾医学所創立者である松山棟庵らと共に、臨床を第一とする英医学・患者本位の医療を広めるための医学団体・成医会創立。
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1881(明治14)年5月1日 松山棟庵(43歳)、高木兼寛と共に、医業開業試験受験予備校(乙種医学校)・成医会講習所(現・東京慈恵会医科大学)創立。
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1881(明治14)年5月1日 高木兼寛(33歳)、松山棟庵が設立した東京医学会社の2階大広間にて、医業開業試験受験予備校(乙種医学校)・成医会講習所(現・東京慈恵会医科大学)創立。夜間医学塾の形式で、講師の多くは海軍軍医団が務めた。
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1883(明治16)年 北里柴三郎(31歳)、医学士に。東京大学医学部在学中、「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とすることを決意。『医道論』を書く。卒業後、長與專齋が局長を務める、内務省衛生局に入省。
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1885(明治18)年 北里柴三郎(33歳)、熊本医学校の同期生、東京大学医学部教授兼衛生局試験所所長・緒方正規の計らいにより、ドイツ・ベルリン大学へ留学。コッホに師事し業績を上げる。
1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学令
高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。
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1886(明治19)年 北島多一(17歳)、帝国大学医科大学入学。一番の成績で合格、授業料免除の特待生に。ベルツより内科・病理学・精神医学を学ぶ。スクリバより外科・皮膚科・精神医学・眼科・婦人・婦人科を学ぶ。
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1889(明治22)年 北里柴三郎(37歳)、世界で初めて、破傷風菌だけを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功。
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1890(明治23)年1月 小泉信吉(38歳)、慶應義塾大学部を創設。文学科・理財科・法律科の3科設置。私立の大学として基礎を固める。しかし、採点法の改正から普通科生徒の同盟休校が起こり、慶應義塾塾長を短期辞任に追い込まれる。
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1890(明治23)年 北里柴三郎(38歳)、破傷風菌抗毒素を発見、世界の医学界を驚嘆させる。さらに、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な血清療法を開発。
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1890(明治23)年 北里柴三郎(38歳)、血清療法をジフテリアに応用。同僚・ベーリングと連名で『動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について』という論文を発表。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に名前が挙がるも、結果は抗毒素という研究内容を主導していた自身でなく、共同研究者のベーリングのみの受賞となる。
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1892(明治25)年 北里柴三郎(40歳)、論文をきっかけに、欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受ける。「国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことである」と、これらを固辞。日本に帰国。ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする帝国大学医科大学教授・緒方正規の説に対し、脚気菌ではないと批判を呈したことで、母校・帝国大学医科大学と対立する形に。日本での活躍が限られてしまう。
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1892(明治25)年 福澤諭吉(58歳)、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎を受け入れる機関が日本になく、国家有為の才能を発揮できない状態にあった。この事態を憂慮。私財投じ、森村市左衛門・長與專齋らと共に私立伝染病研究所および結核専門病院・土筆ヶ岡養生園設立を支援。
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1892(明治25)年10月 北里柴三郎(40歳)、福澤諭吉・森村市左衛門・長與專齋の支援により、日本で最初の伝染病研究所となる私立伝染病研究所設立。初代所長に。伝染病予防と細菌学の研究に取り組む。
→ 北里大学
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1892(明治25)年11月 北里柴三郎(40歳)、私立伝染病研究所が長與專齋が副会頭を務める大日本私立衛生会附属に。年間3,600万円の財政支援を受ける。芝区愛宕町の内務省用地を借り受け、新築移転。
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1893(明治26)年 北里柴三郎(41歳)、福澤諭吉より私有地の提供を受け、白金三光町に日本で最初の結核専門病院・土筆ケ岡養生園設立。結核予防と治療に尽力。
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1894(明治27)年2月 北里柴三郎(42歳)、私立伝染病研究所、芝区愛宕町に新築移転。ジフテリア抗血清を製造、これによる治療を開始。
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1894(明治27)年6月 北里柴三郎(42歳)、政府よりペストの蔓延していた香港に派遣され、腺ペストの病原菌を発見するという業績をあげる。
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1897(明治30)年 志賀潔(27歳)、赤痢菌を発見。『細菌学雑誌』に『赤痢病原研究報告第一』を日本語で発表。
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1898(明治31)年5月、慶應義塾、学制改革、大学部を中心に大学科(5年)・普通学科(5年)・幼稚舎(6年)の一貫教育体系樹立。大学科に政治学部(政治科)設置。
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1899(明治32)年3月 北里柴三郎(47歳)、「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」との信念により、研究所を内務省管轄に。国立伝染病研究所となる。所長に。
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1901(明治34)年 北里柴三郎(49歳)、 第1回ノーベル生理学・医学賞の公式候補に選ばれる。
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1906(明治39)年 北里柴三郎(54歳)、国立伝染病研究所、港区白金台に新築移転。
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1914(大正3)年10月 北里柴三郎(62歳)、政府が一切の相談なく、国立伝染病研究所を内務省より文部省に移管、東京帝国大学医科大学の下部組織にすると発表。東京帝国大学医科大学学長・青山胤通が所長を兼任することに。これに反発、北島多一・志賀潔らをはじめとする職員全員が一斉に辞表を提出(伝研騒動)。
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1914(大正3)年11月5日 北里柴三郎(62歳)、私財を投じ、新たに北里研究所設立。初代所長に。狂犬病・インフルエンザ・赤痢・発疹チフスなどの血清開発に取り組む。
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1916(大正5)年、国立伝染病研究所が東京帝国大学附置伝染病研究所に。
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1917(大正6)年4月 北里柴三郎(65歳)、福澤諭吉没後、「余は福澤先生の門下生ではないが、先生の恩顧をこうむったことは門下生以上である」と長年の多大なる恩義に報いるため慶應義塾大学部医学科創立に尽力。初代医学科学長に。ハブの血清療法で有名な北島多一や、赤痢菌を発見した志賀潔など、北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込む。
1918(大正7)年12月6日公布 1919(大正8)年4月1日施行 大学令
原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき、法制度上における帝国大学と別種の「大学」を設置。専門学校の大学への昇華が認可される。大学の性格を、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養二留意スヘキモノトス」と規定。
その構成に関し、数個の学部を置くのを常例とするとし、設置する学部として法学・医学・工学・文学・理学・農学・経済学および商学の8学部をあげる。特別の必要のある場合には1個の学部を置くことができるとし、単科大学の成立も認める。
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1920(大正9)年4月、慶應義塾大学、大学令に基づき、全国諸学校に先駆けて大学認可。文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学に。予科・大学院を付設。
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1920(大正9)年 北里柴三郎(68歳)、慶應義塾大学が早稲田大学と共に日本初の私立大学として認可される。慶應義塾大学医学部発足。医学部学部長・慶應医学会会長に。慶應義塾大学病院開院。院長に。
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1920(大正9)年 志賀潔(50歳)、慶應義塾大学医学部教授に。
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1920(大正9)年 三輪徳寛(62歳)、慶應義塾大学医学部講師を兼務。
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1928(昭和3)年5月 北里柴三郎(76歳)、慶應義塾大学医学部学部長を辞任。顧問に。
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1928(昭和3)年 北島多一(59歳)、慶應義塾大学医学部学部長に。蛇・ハブの抗毒血清の製造に成功。
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1944(昭和19)年、慶應義塾大学附属医学専門部設置。
1946(昭和21)年 - 学制改革
第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。
複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。
戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。
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1949(昭和24)年4月、学制改革により、新制大学として慶應義塾大学発足。文学・経済学・法学・工学の4学部設置。
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1952(昭和27)年4月、新制大学・慶應義塾大学に医学部設置。
慶應義塾大学医学部年表