ダイガクコトハジメ - 成瀬仁蔵
出身校
-
長州藩郷校・憲章館
-
山口師範学校
-
アンドーバー神学校
-
クラーク大学
関連する学校・組織(前史)
関連する学校・組織(現代)
関連する教育者
参考情報
参考文献・書籍
-
年表 | 動画
成瀬仁蔵
なるせじんぞう
1858(安政5)年8月2日(旧暦・6月23日) - 1919(大正8)年3月4日
キリスト教徒・牧師、梅花女学校(現・梅花学園・梅花女子大学)創立・主任教師・第5代校長、新潟女学校校長、日本女子大学校(現・日本女子大学)創立・初代校長、『女子教育』著作、「聖書を持つ青年」
-
1858(安政5)年8月2日(旧暦・6月23日) 成瀬仁蔵(1歳)、周防国吉敷郡吉敷村(現・山口県山口市吉敷赤田大形)に長州藩毛利家一門・吉敷毛利家に仕える下級武士・成瀬小左衛門と母・歌子の間に長男として生まれる。
-
成瀬仁蔵、郷校・憲章館に学ぶ。
-
成瀬仁蔵(7歳)、母・歌子死去。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
-
1871(明治4)) - 1873(明治6)年、岩倉遣欧使節団にて岩倉具視らが欧米との条約改正にあたるも、日本がキリスト教の禁制と迫害を止めない限り、交渉が全く問題にされないことを知る。明治新政府にキリスト教解禁を上申。1873(明治6)年に禁制撤廃、日本でのキリスト教活動も許可されるが、信教の自由公認とは程遠いものであった。
-
1872(明治5)年5月 澤山保羅(21歳)、片道の旅費を工面、アメリカへ渡る。渡米の際、キリスト教に改宗しないという誓約書を長州藩命により父・澤山源之丞に差し出す。サムエル・グリーン宅に身を寄せ、ノースウェスタン大学予科に聴講生として在籍。
-
1872(明治5)年 澤山保羅(21歳)、アメリカの会衆派教会エバンストン第一組合教会にて、パッカード牧師より洗礼を受ける。
-
1873(明治6)年 澤山保羅(22歳)、パブリック・スクールに通学。ボーテル家に身を寄せる。ボーテル家を訪ねたH・H・レビッド宣教師と出会う。レビッド宣教師より、伝道者となり、日本伝道に献身するよう熱心に勧められる。日本宣教を決意、パッカード牧師に師事し、聖書研究に取り組むことに。使徒パウロの世界に目が開かれ、使徒時代の精神とパウロ神学に傾倒。自分の新生を自覚、名前を馬之助から「保羅」(Paul)に改める。日本宣教のため、シカゴの神学校で学ぶ。
-
成瀬仁蔵(16歳)、弟と父・成瀬小左衛門死去。死に向き合う体験を持つ。
-
1874(明治7)年 成瀬仁蔵(17歳)、調剤師として医家に住み込む。
-
1876(明治9)年 成瀬仁蔵(19歳)、山口師範学校第2期生卒業。小学校教員に。
-
1876(明治9)年 澤山保羅(25歳)、大阪の松村診療所にて、アメリカン・ボードの宣教医アーサー・アダムズの通訳に。訪れる人に伝道、安息日学校を指導。
-
1877(明治10)年1月20日 澤山保羅(26歳)、松村診療所を仮会堂とし、12名の教会員により浪花公会(現・浪花教会)設立。会衆政治に則り、日本最初の按手礼を含む公会設立式が執り行われ、牧師に。同日、澤山保羅により綱島佳吉らの洗礼式が執り行われる。自身も診療所で働き、教会費自給による運営を試みる。この教会形成が、日本組合教会の基盤を作る。
-
1877(明治10)年 澤山保羅(26歳)、妹・いまが吉敷で死去。葬儀のため、帰京。自身に心酔する成瀬仁蔵という青年の訪問を受ける。同道、共に神戸へ。
-
1877(明治10)年 成瀬仁蔵(20歳)、アメリカ留学帰国後牧師になった同郷・澤山保羅に感化を受け、山口を離れる。
-
1878(明治11)年 成瀬仁蔵(21歳)、澤山保羅に導かれ、大阪浪花教会でキリスト教受洗。
-
1878(明治11)年1月 澤山保羅(27歳)、成瀬仁蔵ら教会信徒有志の協力を得て、キリスト教主義教育を建学の精神とする梅花女学校(現・梅花学園・梅花女子大学)設立。牧師をつとめた浪花公会とその母教会である梅本町公会(現・大阪教会)教会員の協力があったことから、「梅花」と名付ける。大阪で最初の女学校に。成瀬仁蔵を主任教師に、学校運営を託す。
-
1878(明治11)年2月 澤山保羅(27歳)、浪花教会員が天満地区へ福音宣教をしたことをきっかけに、浪花教会設立。しかし、病床にあり、牧師辞職。代務者に牧会を依頼。
-
1878(明治11)年 - 1882(明治15)年 成瀬仁蔵(21-25歳)、澤山保羅がキリスト教主義教育を建学の精神とする梅花女学校設立、教会信徒有志と共に協力。主任教師に。私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職に熱心であったが、伝道活動への意思強く。1882(明治15)年に卒業生をおくると、教職を辞職。牧師としての活動をはじめる。
-
1883(明治16)年 成瀬仁蔵(26歳)、澤山保羅の浪花教会を拠点に、奈良県生駒郡郡山町(現・大和郡山市)の出張伝道所へ移る。
-
1884(明治17)年 成瀬仁蔵(27歳)、郡山教会の独立を許され、初代牧師に。布教活動を行う一方、女子教育を研究。
-
1886(明治19)年 成瀬仁蔵(29歳)、病床の澤山保羅より赴任を懇願され、新潟に移る。新潟第一基督教会(現・日本基督教団新潟教会)設立。
-
1887(明治20)年3月27日 澤山保羅(36歳)、死去。享年36歳。
-
1887(明治20)年 成瀬仁蔵(30歳)、新潟は女子の就学状況が不振であり、女学校設立案が出されるとこれに参加。私立新潟英学校を基礎に設立された、新潟女学校校長に。
-
1888(明治21)年 成瀬仁蔵(31歳)、同じく私立新潟英学校を基礎に設立された男子中等教育機関・北越学館に関わる。教師として招かれた内村鑑三が生徒の支持を得て分離する動きを見せると、これに反論、解任を求める(北越学館事件)。
-
1890(明治23)年 - 1894(明治27)年1月 成瀬仁蔵(33-37歳)、アメリカ留学。アンドーバー神学校・クラーク大学にて教育学や社会学・キリスト教などを学ぶ。ユニテリアン的な思想を身に付け、各種社会施設も視察。女子教育研究。英文で『澤山保羅伝』出版。
-
1894(明治27)年 成瀬仁蔵(37歳)、帰国後、梅花女学校第5代校長に。女子高等教育機関の設立に着手。
-
1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、病気で辞任の文部大臣・井上毅の後任として、第2次伊藤博文内閣に初入閣。文部大臣に。女子教育発展などに努める。
-
1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、戊辰戦争以来の繋がり、中川家子息・中川小十郎との出会いを喜ぶ。厚遇、文部大臣秘書官に抜擢。
-
1894(明治27)年 中川小十郎(29歳)、文部大臣・西園寺公望の秘書官として仕える。以後、首相秘書官・元老私設秘書として終生そばに仕え続ける。
-
1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。
-
1896(明治29)年 広岡浅子(48歳)、土倉庄三郎の紹介により、梅花女学校校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、著書『女子教育』を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験より大いに共感。金銭の寄付のみならず、行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者に。
-
1897(明治30)年1月11日 中川小十郎(32歳)、文部省参事官に。
-
1897(明治30)年3月24日 成瀬仁蔵(40歳)、日本女子大学校第一回創立委員会開催。創立委員長に大隈重信。総理大臣・伊藤博文、学習院院長・近衞篤麿、文部大臣・西園寺公望、財界人・渋沢栄一、岩崎弥之助ほか各界の重鎮の多大な支援を受ける。
-
1897(明治30)年 西園寺公望(49歳)、女子大学設立援助を求め中川小十郎邸を訪れる成瀬仁蔵を後援。日本女子大学校設立発起人・創立委員に。中川小十郎を創立事務幹事嘱託に置く。
-
1897(明治30)年 中川小十郎(32歳)、女子大学創立に奔走する成瀬仁蔵、自宅寄寓。西園寺公望と共に後援、日本女子大学校創立協力。創立事務幹事嘱託に。
-
1898(明治31)年1月-4月 西園寺公望(50歳)、第3次伊藤博文内閣発足、再び文部大臣に。第二次教育勅語作成にあたる。虫垂炎後遺症発病、辞任。
-
1898(明治31)年 中川小十郎(33歳)、西園寺公望の文部大臣辞任に伴い、文部省退職を余儀なくされる。失意。日本女子大学校創立を共にした成瀬仁蔵より、広岡浅子の豪商加島屋を紹介される。実業界へ転身。経営不振の加島銀行理事に。再建に尽力。
-
1898(明治31)年11月 下田歌子(45歳)、当時日本の一般女性があまりにも男性の言いなりになっていた姿に心を痛める。「日本が一流の大国と成らん為には、大衆女子教育こそ必要」と、帝国夫人協会設立。
1899(明治32)年2月7日公布・4月1日施行 高等女学校令
中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める。
-
1899(明治32)年 下田歌子(46歳)、帝国夫人協会の事業として、麹町に私立・実践女学校(現・実践女子大学)と女子工芸学校創立。初代校長に。日本で初めて、女学校の制服を制定。
-
1900(明治33)年7月 津田梅子(37歳)、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力を得て、女子英学塾(現・津田塾大学)創立。塾長に。華族平民の別の無い女子教育を志向、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長としての女子教育と異なり、進歩的で自由な、レベルの高い授業が評判になる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模に。学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など、経営は厳しかった。
-
1900(明治33)年 成瀬仁蔵(43歳)、大阪市東区清水谷東之町で学校建設を進めたが、広岡浅子の働きかけで三井財閥から東京・目白の地5,520坪を寄贈される。
-
1901(明治34)年4月20日 成瀬仁蔵(44歳)、日本で初めての組織的な私立の女子高等教育機関・日本女子大学校(現・日本女子大学)創立。初代校長に。「女子を人として、婦人として、国民として教育する」を教育方針に掲げる。設立者総代、大隈重信。
-
1901(明治34)年 嘉納治五郎(42歳)、日本女子大学創立委員に。
1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令
中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。
予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
-
1904(明治37)年、日本女子大学校、専門学校令に基づき、専門学校として認可。
-
1909(明治42)年 広岡浅子(61歳)、大阪の菊池侃二宅で宮川牧師と知り合う。同席者の成瀬仁蔵より宗教哲学を勧められた縁で、1911(明治44)年に宮川経輝より受洗。
-
1912(明治45/大正元)年 成瀬仁蔵(55歳)、渋沢栄一・森村市左衛門・姉崎正治らと共に、諸宗教・道徳などが同一の目的に向かって相互理解と協力を推進することを期した会、帰一協会を設立。会員には、江原素六・島田三郎・新渡戸稲造・石橋智信・今岡信一良・高木八尺やM・C・ハリス、D・C・グリーン、C・マコウリー、W・アキスリングなど宣教師たちも参加。
-
成瀬仁蔵、晩年、キリスト教信仰を捨て、混交宗教を奉じる。
-
1919(大正8)年3月4日 成瀬仁蔵(62歳)、死去。享年62歳。
このページをシェアする