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ダイガクコトハジメ - 折田彦市

 

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出身校

  • 薩摩藩校・造士館

  • 水本塾

  • 佐賀藩校・致遠館

  • ニュージャージー大学(現・プリンストン大学)

関連する学校・組織(前史)

関連する学校・組織(現代)

関連する教育者

 

参考情報

参考文献・書籍

 

年表 | 動画

折田彦市

おりたひこいち

1849(嘉永2)年1月27日(旧暦・1月4日) - 1920(大正9)年1月26日

文部省督学局・文部権大書記官・学務局長、外務省、体操伝習所主幹、大阪専門学校校長大学分校校長、第三高等中学校校長、第三高等学校初代校長、京都帝国大学創立委員、三高の「自由」の精神を体現、武術専門学校(後に大日本武徳会武術専門学校)校長、貴族院議員、錦鶏間祗候

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「折田彦市」に関する書籍 [外部]

  • 1849(嘉永2)年1月27日(旧暦・1月4日) 折田彦市(1歳)、薩摩国鹿児島に薩摩藩士・折田寧剛の四男として生まれる。

  • 折田彦市(幼少期)、父を1858(安政5)年に、母を1865(慶應元)年に亡くす。長兄・折田年昭に子がなかった為、養子に。

1853(嘉永6)年7月8日(旧暦・6月3日) 黒船来航(ペリー来航)

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将マシュー・ペリーが率いる蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本来航。浦賀(現・神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、一部は測量と称し江戸湾奥深くまで侵入。江戸幕府は一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡される。翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。この事件から明治維新による大政奉還までを幕末と呼ぶ。

1853(嘉永6)年 安政の改革

黒船来航(ペリー来航)以来、一気に政局が混乱。江戸幕府老中首座・阿部正弘が幕政改革を主導。国家の一大事とし、親藩・譜代・外様を問わず諸大名に意見を求めるだけでなく、旗本さらには庶民からも意見を募った。
翌1854(嘉永7)年1月にペリー再来航、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に大船建造を解禁、海防の強化を命じる。また人材の育成・国家としての軍事および外交研究機関として、講武所・蕃書調所長崎海軍伝習所を設置。

  • 1858(安政5)年 折田彦市(10歳)、薩摩藩校・造士館入学。同時期に2歳年長の森有礼も学ぶ。

  • 1858(安政5)年 森有礼(12歳)、薩摩藩校・造士館で漢学を学ぶ。

  • 1862(文久2)年4月 折田彦市(14歳)、薩摩藩主・島津茂久(後に忠義)に小姓として出仕。

  • 1867(慶応3)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(53歳)、佐賀藩諫早家の屋敷内に、英学校・致遠館設立。翌年1868(慶応4)年に副島種臣・大隈重信の手引きにより幕府英学所・済美館(長崎英語伝習所)で教えていたオランダ人宣教師フルベッキが校長として招かれる。新約聖書とアメリカ合衆国憲法をテキストとし、欧米の政治制度・法制度の講義や議論が盛んに行われる。副島種臣・大隈重信もフルベッキに学びながら、教頭格として教壇に立つ。佐賀藩のみならず広く他藩の人材も在学。勝海舟の子・勝小鹿、岩倉具視の子・岩倉具定・岩倉具経、服部一三相良知安ほか100余名の学生を擁する。1869(明治2)年4月、フルベッキが明治新政府より招かれ上京、大学南校(現・東京大学)教師に。閉校。

  • 1867(慶応3)年5月(旧暦・4月) 服部一三(17歳)、河瀬真孝の長崎追従の許可をきっかけに、長崎遊学。洋学を学ぶ。後にイギリス総領事となるロバートソン、アストンに師事。長崎に設立された佐賀藩校の英学塾・致遠館にて、岩倉具視の子である岩倉具定・岩倉具経兄弟と共に大隈重信やフルベッキから教えを受ける。伊藤博文や井上馨の居宅で生活、渡航の機会を窺がう。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

  • 1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 大久保利通(38歳)、岩倉具視ら倒幕派公家と共に、王政復古の大号令を計画、実行。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月 折田彦市(20歳)、薩摩藩主・島津茂久に従い、上洛。選ばれて岩倉具視の御附役に。西郷隆盛の推薦とも、大久保利通の推薦とも言われる。岩倉具視より厚い信頼を受ける。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 折田彦市、戊辰戦争、岩倉具視の伝令役として、東山道鎮撫総督・副総督となった二子、次男・岩倉具定と三男・岩倉具経との連絡にあたる。戦闘に参加。

  • 折田彦市、神戸の洋学塾・水本塾で英語を学ぶ。

  • 1868(慶応4/明治元)年9月 折田彦市(20歳)、洋学の必要性を認める岩倉具視に二子を託され、岩倉具定・岩倉具経と共に長崎遊学。佐賀藩校・致遠館入学。グイド・フルベッキに学ぶ。

  • 1869(明治2)年末 服部一三(19歳)、官費留学が決定。岩倉具定・岩倉具経兄弟と共に、アメリカニュージャージー州ニューブラウンズウィックへ留学。

  • 1870(明治3)年3月 折田彦市(22歳)、岩倉具定・岩倉具経の米国留学に随行。同じくフルベッキに学んだ服部一三と山本重輔も同行。官費留学生に。フルベッキが留学斡旋。他4名はアメリカニュージャージー州ニューブラウンズウィックに入学するも、英語力不足を理由に別行動に。ミルストンの町に寄宿。一時、神田乃武と同居。

 

  • 1870(明治3)年秋 森有礼(24歳)、少弁務使としてアメリカ赴任。外債募集・文化外交の折衝を担う。在任中、英文による『信仰自由論』・『日本の教育』刊行を試みる。

  • 折田彦市、旧知の森有礼や他の留学生仲間と頻繁に書簡やり取り。原保太郎・最上五郎・戸田氏共らと親しく交流、スイス留学の同郷・大山巌とも文通。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6)年 田中不二麿(27-29歳)岩倉遣欧使節団文部省理事官として随行。アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手に、欧米の学校教育を見聞・調査。また、教育顧問の日本招聘の任務も帯びる。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。

  • 1872(明治5)年 森有礼(26歳)、米国中弁務使、ついで米国代理公使に昇任。

  • 1872(明治5)年2月3日 森有礼(26歳)日本国駐米外交官として、ラトガース・カレッジの学長ウイリアム・キャンベルに教育問題を質問状。回答書をダビット・モルレーが執筆。11月25日、ワシントンで『Religious Freedom in Japan』(『日本における宗教の自由』)発表。翌年、ダビット・モルレーの返書を『Education in Japan』(『日本の教育』)として刊行。

  • 1872(明治5)年 田中不二麿(28歳)、ワシントン駐在の日本国外交官・森有礼がラトガース・カレッジの学長ウイリアム・キャンベルに教育問題を質問状。この長文回答書をダビット・モルレーが執筆。この文書が教育顧問を探していた木戸孝允・田中不二麿の目にとまる。モルレーの招聘を検討。報酬月額600ドル、3年間の予定で契約が交わされることに。翌1873(明治6)年6月に来日。文部省学監として諸藩の教育事務に対する助言・建言を行う。省務を統括していた田中不二麿を助ける。

  • 1872(明治5)年3月 折田彦市(24歳)、岩倉遣欧使節団で訪米した岩倉具視に二子の留学状況を報告、ワシントンへ。

  • 1872(明治5)年6月27日 折田彦市(24歳)、プリンストンのニュージャージー大学(現・プリンストン大学)入学。コーウィン牧師の勧めにより、キリスト教長老派協会の大学を受験。森有礼も大きく関わる。

  • 折田彦市、ニュージャージー大学学長のジェームズ・マコッシュが掲げる「秩序ある自由」の教育方針に大きく影響を受ける。自由尊重の精神が培われる。

  • 折田彦市、キリスト教に熱心に接し、祈祷会に欠かさず出席。ジェームズ・マコッシュ学長の朝礼挨拶にも熱心に参加。卒業間近の1876(明治9)年5月28日、ジェームズ・マコッシュ司式により、洗礼を受ける。

  • 1873(明治6)年11月10日 大久保利通(44歳)、ビスマルクの下で官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに。強い行政権限を持つ官僚機構として、内務省設立。大蔵省より地方行財政や殖産興業に関する組織・権限を内務省に移管。初代内務卿として実権を握る。学制・地租改正・徴兵令などを実施。「富国強兵」をスローガンに、「殖産興業」政策を推進。当時の大久保利通への権力集中は、有司専制として批判されることに。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに。

1874(明治7)年12月 官立外国語学校、英語学校に改称

愛知・大阪・広島・長崎・新潟・宮城の官立外国語学校、英語学校に改称。

  • 1876(明治9)年6月 折田彦市(28歳)、ニュージャージー大学卒業。バチェラー・オブ・アーツ(学士)の学位を得る。

  • 1876(明治9)年6月 折田彦市(28歳)、フィラデルフィア万国博覧会に日本政府も出展。博覧会副総裁・西郷従道より調査・通訳など協力を求められていたが、正式に米国費府博覧会御用掛に任じられる。

  • 1876(明治9)年11月 折田彦市(28歳)、帰国。大久保利通の推薦により、文部省督学局入省。学監ダビッド・モルレーの通訳を務める。東京府の学校視察に同行。

1877(明治10)年2月19日 東京英語学校大阪英語学校以外の官立英語学校廃止

愛知・広島・長崎・新潟・宮城の官立英語学校、廃止。

1877(明治10)年4月12日 東京大学創立

東京開成学校本科東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。

法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。

  • 1878(明治11)年4月 折田彦市(30歳)、森有礼との関係により、外務省入省。二等書記生としてイタリア・ローマ公使館勤務を命じられるも、病のため辞職。文部省に戻る。

  • 1878(明治11)年9月 坪井玄道(27歳)、アメリカから迎えた体育担当教師ジョージ・アダムス・リーランドの通訳を担当。体操の重要性を認識、体育学を学ぶ。

  • 学制・教育令の中で小学校・専門学校の教育科目に「体術」・「体操」が規定されたが、具体的な教授法が確立されていなかった。東京師範学校も知育に偏重、体育教員の養成が後手にまわっていた。そこで、アメリカ・アマースト大学卒業の医学士リーランドを体育担当教師として招聘、文部省にて日本最初の体育研究・教育機関として体操伝習所を設立。

 

  • 1879(明治12)年10月 折田彦市(31歳)、体操伝習所主幹に。以後、体操教育導入に積極的に取り組むことに。

  • 1880(明治13)年4月15日 折田彦市(32歳)、大阪専門学校校長に。着任当時は本科として化学・医学を有するも、文部省通達により化学科が廃止、医学科のみとなる。医学科拡充を企図、精力的に活動。

  • 1880(明治13)年12月、文部省通達により、大阪専門学校は官立中学校に改組。大阪中学校に改称。最初の官立中学校であり、未整備であった中学校の模範となることが期待される。

  • 1880(明治13)年12月11日 折田彦市(32歳)文部省の財政問題などを原因に、大阪専門学校の中学校改組が行われる。大阪中学校校長に。大学進学のための予科を主体とする学校となり、拡充を目指していた本科・医学科は消滅。在校生の行く先を求めて奔走することに。目まぐるしく変わる文部省の教育政策に対し、不満をあらわに。

  • 折田彦市当時、中等教育と高等教育の接続方法も定まっておらず、中学校に関する運営方針が未整備であった。寄宿舎の整備・体操教育の導入など、後の中学校の在り方を方向付け、指導的な役割を果たす。中学校を大学に直接接続する学校として整備する一方、大阪中学校を大学相当の教育機関に発展させることを構想。

  • 1882(明治15)年3月14日 伊藤博文(42歳)、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受ける。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインに師事。歴史法学や行政を学ぶ。これが近代的な内閣制度を創設、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことに繋がる。

  • ​1882(明治15)年夏 森有礼(36歳)、憲法調査のため渡欧中の伊藤博文と面会。日本の政治について議論。「日本の発展・繁栄のためには、先ずは教育からこれを築き上げねばならない」という教育方針を披歴。この国家教育の方針に関する意見が伊藤博文に強い強い感銘を与える。「国家のための教育」の文教制度改革のため、帰国を命じられることに。

  • 1884(明治17)年3月 森有礼(38歳)伊藤博文の要請により、英国より帰国。参事院議官、文部省御用掛を兼勤。日本の教育制度全般に関する改革に着手。国家至上主義の教育観より、国体教育主義を基本方針とする文教政策を推進。「今夫国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせんと欲せば、国民の志気を培養発達するを以て其根本と為さざることを得ず」

  • 1885(明治18)年 折田彦市(37歳)大阪中学校を改組・拡張、関西に第二の大学開設を構想する『関西大学創立次第概見』を文部省に提出。

  • 1885(明治18)年7月 折田彦市(37歳)、大学分校校長に。

1885(明治18)年12月22日 内閣制度発足

太政官制廃止、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められる。初代内閣総理大臣に、伊藤博文が就任(第1次伊藤内閣)。1871(明治4)年より三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例も適用されず。どのような身分の出自の者であっても国政の頂点に立つことができるとする。各省大臣の権限を強化、諸省に割拠する専門官僚に対する主導権を確立。文部省に文部大臣が置かれることに。初代文部大臣に、森有礼

  • 1885(明治18)年12月 伊藤博文(45歳)、内閣制度発足。太政大臣として名目上ながら政府頂点に立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し、内閣制度を作り上げた伊藤博文のいずれが初代内閣総理大臣となるのか注目される。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議において、盟友・井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。これには三条実美を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。以後4度にわたって内閣総理大臣を務めることに。

  • 1885(明治18)年12月22日 森有礼(39歳)、太政官制度廃止により内閣制度発足。第一次伊藤博文内閣にて初代文部大臣に就任。『学政要領』立案。

  • 森有礼、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」・「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」という「国体教育主義」を基本方針に、近代日本の学校諸制度を整備。その後の教育行政に引き継がれていく​。

  • 1885(明治18)年12月 辻新次(44歳)、内閣制度発足、森有礼初代文部大臣就任に伴い、大臣官房長兼学務局長に。

  • 1885(明治18)年12月 折田彦市(37歳)、森有礼の文部大臣就任による官制改革・人事刷新に伴い、文部省に呼び戻される。文部権大書記官・学務局次長心得に。学校教育制度改革、諸学校令制定作業に加わる。翌年3月、学務局長に。

  • 1886(明治19)年 森有礼(40歳)、「学位令」を発令。日本における学位として大博士と博士の二等を定める。また、教育令に代わる一連の学校令「小学校令」・「中学校令」・「帝国大学令」・「師範学校令」公布。学校制度の整備に奔走。この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充された日本の学校制度の基礎を確立したものとなる。

  • 1886(明治19)年3月 辻新次(45歳)、次官職の新設により、初代文部次官に就任。文部官僚のトップとして、帝国大学令・師範学校令・中学校令等の公布に従事。高等中学校候補地選定のための巡視を行う。森有礼初代文部大臣より、「良き女房役」と評される。

1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令

教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。​​

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 1886(明治19)年、学校令により、「高等中学校」の制度が成立。東京大学予備門は、第一高等中学校に。高等中学校は文部大臣の管理に属し、全国を五区に分け、各区ごとに1校設置することが定められる。第三高等中学校(京都)・山口高等中学校・第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が設立され、全国に7校の高等中学校が誕生。第一高等中学校だけでなく、全国の高等中学校の卒業生が帝国大学へ進学する制度に。

  • 1886(明治19)年、中学校令により、大学分校第三高等中学校に改組。高等中学校の設置区域決定、京都移転。新校地は愛宕郡吉田村に。

  • 1887(明治20)年4月 折田彦市(39歳)、第三高等中学校校長復帰。京都移転を準備。本科・医学部設置。

  • 1889(明治22)年2月11日-12日 森有礼(43歳)、大日本帝国憲法発布式典に参加するため官邸を出た所で、国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺される。応急手当を受けるが傷が深く、翌日2月12日午前5時に死去。享年43歳。「明治の六大教育家」の1人に挙げられる。

1894(明治27)年6月25日公布 第一次高等学校令

1886(明治19)年の中学校令に基づいて設立された高等中学校について、「高等学校」に改組すること主な目的とする勅令。文部大臣・井上毅が主導。改組により、第一高等学校(東京)・第二高等学校(仙台)・第三高等学校(京都)・第四高等学校(金沢)・第五高等学校(熊本)が誕生(総称してナンバースクールと呼ばれる)。

専門学科(法学部・工学部・医学部など)を教授することを原則とする。しかし、高等学校による専門教育は期待された成果を得ることなく、発展せずに終わる。

但し書きで帝国大学に入学する者のための予科を設けることができるとしたが、制度としては従属的な扱いであった大学予科が大いに発展。

  • 文部大臣・井上毅の高等中学校改革は、帝国大学を大学院中心の研究機関に、分科大学を個別に設置。高等学校を専門教育機関として機能させ、これらを有機的に結びつけるという総合的な高等教育改革構想の第一段階であった。しかし、既に強固な基盤を持っていた帝国大学を改革することはできず。日清戦争後は帝国大学そのものが増設、高等学校はいよいよ大学予科としての機能を強める。構想は実現せず。

  • 1894(明治27)年5月1日、高等学校令により、第三高等学校に改組。予科を置かず、将来の大学昇格を視野に法学部・工学部・医学部設置。初代校長に、折田彦市

  • 1894(明治27)年 折田彦市(46歳)第三高等学校初代校長に。「無為にして化す」の教育方針が三高の「自由」の精神を体現。生徒の人格を最大限認め、可能な限り干渉を排する姿勢を貫く。

  • 1894(明治27)年9月11日、第一次高等学校令により、第一高等中学校第一高等学校に改組。卒業生の多くは東京帝国大学進学。政界・官界・財界・学界などあらゆる分野でエリートとして活躍する有為な人材を世に送り出す。その特色は、1890年代から始まった学生による自治制度と皆寄宿制度(全寮制)。

  • 1897(明治30)年6月28日 木下広次(47歳)文部省専門学務局長を兼任のまま、新設の京都帝国大学初代総長に。ドイツ流の大学システムを採用、「自由」の学風の基礎を築く。大学寄宿舎設置、舎生に管理・運営を任せる。

 

  • 1910(明治43)年11月 折田彦市(62歳)第三高等学校校長辞任。「三高三十年の感想は、わずかな時間に尽くすべくもない。私の生活は第三高等学校であった」

  • 1910(明治43)年12月27日 折田彦市(62歳)、貴族院議員に勅選。

  • 1911(明治44)年7月28日 折田彦市(63歳)、錦鶏間祗候に。

  • 折田彦市、大日本武徳会副会長に。大日本武徳会が運営する武術専門学校(後に大日本武徳会武道専門学校)校長に。

  • 折田彦市、古くから親交のあった高崎正風が主宰する道徳団体・一徳会副会長に。

  • 1920(大正9)年1月26日 折田彦市(72歳)、死去。享年72歳。

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