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ダイガクコトハジメ - 日下義雄

日下義雄

出身校

  • 会津藩校・日新館

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日下義雄

くさかよしお

1852(嘉永4)年1月16日(旧暦・12月25日) - 1923(大正12)年3月18日

内務省・大蔵省ほか、大蔵省銀行学局設立・局長、長崎県知事、福島県知事、岩越鉄道設立、第一銀行常務取締役、衆議院議員、岩倉遣欧使節団

「日下義雄」に関する書籍 [外部]

  • 1852(嘉永5)年1月16日(旧暦・12月25日) 日下義雄(1歳)、会津藩に侍医・石田龍玄(常雄)と中村為七郎の娘ちえ子の長男として生まれる。弟に白虎隊二番士中組の1人、飯盛山で自刃した石田和助。

  • 日下義雄、会津藩校・日新館で学ぶ。

  • 1865(慶応元)年 矢野二郎(21歳)、幕府がフランス式兵制を採用した際の募兵に応じ、益田孝と共に騎兵伝習隊に入隊。指図役心得に。来日した仏軍事顧問団の下で演習参加。

  • 1867(慶応3)年1月 大鳥圭介(35歳)、騎兵伝習隊創設を進める幕府勘定奉行・小栗忠順に頼み、同じく幕臣の矢野次郎・荒井郁之助・沼間守一らと共に参加。

  • 1867(慶応3)年10月23日 大鳥圭介(35歳)、歩兵隊長として士官教育を受け、歩兵頭並に。幕府陸軍の育成や訓練にあたる。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 ​戊辰戦争

王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。

  • 1868(慶応4/明治元)年1月17日 勝海舟(46歳)、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いにて幕府軍敗北。官軍の東征が始まると、老中・板倉勝静により、海軍奉行並に起用される。次いで、陸軍総裁に昇進。陸軍取扱に異動、恭順姿勢を取る徳川慶喜の意向に沿い、徹底抗戦を主張するフランスとの関係を清算。会計総裁・大久保一翁らと朝廷交渉に向かう。官軍が駿府城まで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

1868(慶応4/明治元)年3月-4月 江戸城明け渡し

官軍の東征が駿府に迫る中、徳川家の選択肢は徹底恭順か抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つに。勘定奉行兼陸軍奉行並・小栗忠順や軍艦頭・榎本武揚らは主戦論を主張するも、恭順の意思を固めつつあった徳川慶喜に容れられず。恭順派を中心に組織人員変更。会計総裁・大久保一翁と陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官に。恭順策を実行に移していく。ここに至り徳川家の公式方針は恭順に確定するも、不満を持つ幕臣たちは独自行動へ。山岡鉄太郎の下交渉を受け、大久保一翁・勝海舟と官軍大総督府下参謀・西郷隆盛が江戸開城交渉、徳川家が明治新政府に対して完全降伏することで最終合意。徳川慶喜の死一等を減じ、水戸謹慎を許可する勅旨を下す。江戸城無血開城、人口150万人を超える当時世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込むことを回避。

  • 1868(慶応4/明治元)年 大鳥圭介(36歳)、鳥羽・伏見の戦い後、江戸城における評定にて、小栗忠順・水野忠徳・榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張。

  • 1868(慶応4/明治元)年2月28日 大鳥圭介(36歳)、陸軍の最高幹部である歩兵奉行に。

  • 1868(慶応4/明治元)年4月11日 大鳥圭介(36歳)、江戸開城、伝習隊を率いて江戸を脱走。

  • 大鳥圭介、本所・市川を経て、小山・宇都宮・今市・藤原・会津を松平太郎・土方歳三等と合流しつつ、転戦。母成峠の戦い伝習隊は壊滅的な損害を受けたものの辛うじて全滅は免れ、仙台に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 日下義雄(17歳)、鳥羽・伏見の戦いに従軍。

  • 1868(慶応4/明治元)年 日下義雄(17歳)、会津戦争に従軍。大鳥圭介らと行動を共にする。落城前に会津を脱出。

  • 大鳥圭介、仙台にて榎本武揚と合流、蝦夷地に渡る。箱館政権の陸軍奉行に。

  • 1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 日下義雄(17-18歳)、箱館戦争(五稜郭の戦い)に従軍、捕虜となる。

  • 1869(明治2)年5月18日 大鳥圭介(37歳)、五稜郭で降伏。東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄。

  • 日下義雄、赦免される。増上寺で謹慎の時、石田義雄と名乗る。会津出身を隠すため、日下義雄と改名。長州藩日下家の養子になったとも言われる。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 大久保利通(42-44歳)、大蔵卿に就任。岩倉遣欧使節団の副使として外遊。イギリスの工業・工場群に、日本近代化のための殖産興業の姿を描く。政治体制のあるべき姿については、先進国イギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 伊藤博文(31-33歳)岩倉遣欧使節団の副使にとして渡米。サンフランシスコにて、「日の丸演説」・「国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん」。1873(明治6)年3月、ベルリンに渡り、プロイセン皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相・ビスマルクと会見、ビスマルクから強い影響を受ける。

  • 1871(明治4)年 日下義雄(20歳)、井上馨の知遇を得て、推挙により岩倉欧米使節団に同行。アメリカに留学。

  • 日下義雄、帰国後、ヨーロッパを視察。ロンドンで経済学を研究。

  • 1872(明治5)年6月、大蔵大輔・井上馨と渋沢栄一が人材育成機関として構想した、大蔵省翻訳局設立。外国書翻訳や銀行要員養成のため、有給生徒を募集。小池清一(後に貴族院議員)・島田三郎・田口卯吉・高梨哲四郎(後に衆議院議員)・三輪信次郎(後に銀行学局教官)など錚々たる人財が入局。

  • 1873(明治6)年11月10日 大久保利通(44歳)、ビスマルクの下で官僚機構を活用した近代化を推し進めるプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに。強い行政権限を持つ官僚機構として、内務省設立。大蔵省より地方行財政や殖産興業に関する組織・権限を内務省に移管。初代内務卿として実権を握る。学制・地租改正・徴兵令などを実施。「富国強兵」をスローガンに、「殖産興業」政策を推進。当時の大久保利通への権力集中は、有司専制として批判されることに。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎が築かれることに。

  • 日下義雄、帰国後、内務省に勤務。

  • 日下義雄、太政官権大書記官など歴任。

  • 1874(明治7)年4月、大蔵省、お雇い外国人・A.A.シャンドの薦めにより紙幣寮銀行課の一部局として、大蔵省銀行学局設立。実質的に翻訳局を引き継ぐものに。日本で最初の商業教育機関と呼べる。銀行学局長に、日下義雄。副長に、宇佐川秀次郎

  • 1874(明治7)年6月- 福澤諭吉(40歳)、簿記書を翻訳、日本最初の洋式簿記書『帳合之法』を慶應義塾出版局より刊行。

  • 1874(明治7)年6月10日 宇佐川秀次郎(26歳)、大蔵省紙幣寮入省。八等出仕。丹吉人・小林雄七郎・遠藤敬止ら慶應義塾の同窓と共に、初期の大蔵省を牽引。

  • 1886(明治19)年2月25日 日下義雄(35歳)、一等駅逓官となった後、長崎県令(7月19日より知事に改称)に。同郷の官吏・神保修理の実弟・北原雅長を抜擢。

  • 日下義雄、中島川上流中川郷の地に吉野桜数千本を植え、夜桜の名所とする。

  • 日下義雄、保健衛生上の観点より、長崎市およびその周辺の土葬を禁止する。

  • 1892(明治25)年8月20日 日下義雄(41歳)、福島県知事に。

  • 1895(明治28)年7月16日 日下義雄(44歳)、弁理公使(外国大使)に。

  • 1899(明治32)年7月15日 日下義雄(48歳)、渋沢栄一ほか実業家や地元資本家らの協力を得て、岩越鉄道株式会社を設立。郡山-会津若松間を開通。

  • 日下義雄、第一銀行常務取締役に。

  • 1902(明治35)年8月 日下義雄(51歳)、第7回衆議院議員総選挙福島県郡部区から立候補、衆議院議員に初当選。

  • 1912(明治45/大正元)年5月 日下義雄(61歳)、第11回衆議院議員総選挙福島県若松市区から立候補、衆議院議員に再当選。

  • 1923(大正12)年3月18日 日下義雄(72歳)、死去。享年72歳。

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