ダイガクコトハジメ - 日本女子大学
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参考情報
参考文献・書籍
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日本女子大学年表
学校略歴
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1878(明治11)年1月、澤山保羅、成瀬仁蔵ら浪花公会とその母教会である梅本町公会(現・大阪教会)教会員の協力により、キリスト教主義教育を建学の精神とする梅花女学校設立、「梅花」と名付ける、成瀬仁蔵を主任教師に、学校運営を託す
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1890(明治23)年 - 1894(明治27)年1月、成瀬仁蔵、アメリカ留学、教育学や社会学・キリスト教などを学ぶ、ユニテリアン的な思想を身に付け各種社会施設も視察、女子教育研究
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1896(明治29)年、成瀬仁蔵、『女子教育』出版、女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期して世論を喚起、『日本女子大学校創設之趣旨』発表
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1896(明治29)年、広岡浅子、成瀬仁蔵の訪問を受けて著書『女子教育』を手渡される、幼い頃に学問を禁じられた体験より大いに共感、金銭の寄付のみならず、行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど強力な援助者に
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1897(明治30)年3月24日、日本女子大学校第一回創立委員会開催、創立委員長に大隈重信、総理大臣・伊藤博文、学習院院長・近衞篤麿、文部大臣・西園寺公望、財界人・渋沢栄一、岩崎弥之助ほか各界の重鎮の多大な支援を受ける
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1900(明治33)年、広岡浅子、日本女子大学校学校建設に向け、広岡家や実家の三井家一門に働きかけ、三井家から目白台の土地5,520坪を寄贈させるに至る
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1901(明治34)年4月20日、日本で初めての組織的な私立の女子高等教育機関・日本女子大学校(現・日本女子大学)創立
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1904(明治37)年、専門学校令に基づき、専門学校として認可
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1948(昭和23)年、学制改革により、新制大学として日本女子大学発足、家政学部・文学部設置
創立者
学校年表
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広岡浅子(幼少期)、裁縫や茶の湯・生け花・琴の稽古などよりも、四書五経の素読など学問に強い興味を持つ。しかし、「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を禁じられる。
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1878(明治11)年1月 澤山保羅(27歳)、成瀬仁蔵ら教会信徒有志の協力を得て、キリスト教主義教育を建学の精神とする梅花女学校(現・梅花学園・梅花女子大学)設立。牧師をつとめた浪花公会とその母教会である梅本町公会(現・大阪教会)教会員の協力があったことから、「梅花」と名付ける。大阪で最初の女学校に。成瀬仁蔵を主任教師に、学校運営を託す。
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1878(明治11)年 - 1882(明治15)年 成瀬仁蔵(21-25歳)、澤山保羅がキリスト教主義教育を建学の精神とする梅花女学校設立、教会信徒有志と共に協力。主任教師に。私財を投じて学校経営の維持を図るなど教職に熱心であったが、伝道活動への意思強く。1882(明治15)年に卒業生をおくると、教職を辞職。牧師としての活動をはじめる。
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1890(明治23)年 - 1894(明治27)年1月 成瀬仁蔵(33-37歳)、アメリカ留学。アンドーバー神学校・クラーク大学にて教育学や社会学・キリスト教などを学ぶ。ユニテリアン的な思想を身に付け、各種社会施設も視察。女子教育研究。英文で『澤山保羅伝』出版。
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1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、病気で辞任の文部大臣・井上毅の後任として、第2次伊藤博文内閣に初入閣。文部大臣に。女子教育発展などに努める。
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1894(明治27)年 西園寺公望(46歳)、戊辰戦争以来の繋がり、中川家子息・中川小十郎との出会いを喜ぶ。厚遇、文部大臣秘書官に抜擢。
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1894(明治27)年 中川小十郎(29歳)、文部大臣・西園寺公望の秘書官として仕える。以後、首相秘書官・元老私設秘書として終生そばに仕え続ける。
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1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。
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1896(明治29)年 広岡浅子(48歳)、土倉庄三郎の紹介により、梅花女学校校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、著書『女子教育』を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験より大いに共感。金銭の寄付のみならず、行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者に。
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1897(明治30)年3月24日 成瀬仁蔵(40歳)、日本女子大学校第一回創立委員会開催。創立委員長に大隈重信。総理大臣・伊藤博文、学習院院長・近衞篤麿、文部大臣・西園寺公望、財界人・渋沢栄一、岩崎弥之助ほか各界の重鎮の多大な支援を受ける。
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1897(明治30)年 西園寺公望(49歳)、女子大学設立援助を求め中川小十郎邸を訪れる成瀬仁蔵を後援。日本女子大学校設立発起人・創立委員に。中川小十郎を創立事務幹事嘱託に置く。
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1897(明治30)年 中川小十郎(32歳)、女子大学創立に奔走する成瀬仁蔵、自宅寄寓。西園寺公望と共に後援、日本女子大学校創立協力。創立事務幹事嘱託に。
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1898(明治31)年11月 下田歌子(45歳)、当時日本の一般女性があまりにも男性の言いなりになっていた姿に心を痛める。「日本が一流の大国と成らん為には、大衆女子教育こそ必要」と、帝国夫人協会設立。
1899(明治32)年2月7日公布・4月1日施行 高等女学校令
中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める。
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1899(明治32)年 下田歌子(46歳)、帝国夫人協会の事業として、麹町に私立・実践女学校(現・実践女子大学)と女子工芸学校創立。初代校長に。日本で初めて、女学校の制服を制定。
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1900(明治33)年7月 津田梅子(37歳)、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力を得て、女子英学塾(現・津田塾大学)創立。塾長に。華族平民の別の無い女子教育を志向、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長としての女子教育と異なり、進歩的で自由な、レベルの高い授業が評判になる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模に。学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など、経営は厳しかった。
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1900(明治33)年 広岡浅子(52歳)、日本女子大学校学校建設に向け、広岡家、実家の三井家一門に働きかけ。三井家から目白台の土地5,520坪を寄贈させるに至る。
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1901(明治34)年4月20日 成瀬仁蔵(44歳)、日本で初めての組織的な私立の女子高等教育機関・日本女子大学校(現・日本女子大学)創立。初代校長に。「女子を人として、婦人として、国民として教育する」を教育方針に掲げる。設立者総代、大隈重信。
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1901(明治34)年4月 渋沢栄一(62歳)、日本女子大学校開校。会計監督に。
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1901(明治34)年 嘉納治五郎(42歳)、日本女子大学校創立委員に。
1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令
中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。
予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。
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1904(明治37)年、専門学校令に基づき、専門学校として認可。
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1931(昭和6)年4月 渋沢栄一(92歳)、日本女子大学校第3代校長に。
1946(昭和21)年 - 学制改革
第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。
複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。
戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。
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1948(昭和23)年、学制改革により、新制大学として日本女子大学発足。家政学部・文学部設置。
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