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ダイガクコトハジメ - 昌平坂学問所(昌平黌)

年表 | 東京大学動画

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学校略歴

  • 1632(寛永9)年、林羅山(道春)、上野忍岡に林家の書院・学寮設立・聖廟建立、私塾・弘文館創立

  • 1691(元禄4)年、林鳳岡、神田台・湯島に移転、聖堂学問所設立

  • 1790(寛政2)年7月6日(旧暦・5月24日)、寛政異学の禁、江戸幕府が朱子学を正学(官学)に定める、封建体制・身分制度を知的・理念的側面から支える

  • 1797(寛政9)年、林家塾を江戸幕府直轄に、昌平坂学問所(昌平黌)発足

  • 1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日)、学問所奉行設置、幕府教育機関の振興を目的に祭酒・林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所を監督

  • 1868(慶応4/明治元)年8月17日(旧暦・6月29日)、明治新政府が昌平坂学問所を接収、官立の昌平学校として再出発

  • 1868(慶応4/明治元)年10月31日(旧暦・9月16日)、明治新政府は当初、京都の学習院漢学所皇学所)を中心とする官立の大学校設立を構想

  • 東京奠都に伴い構想変更、東京の地に昌平学校を基盤とし、洋学・医学を織り交ぜた官立高等教育機関を設立する案に修正、皇学所漢学所が京都から東京へ移される、昌平坂学問所(昌平黌)の漢学(儒学)派と皇学所の国学派が主導権を争い激しく対立

  • 1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日)、大学校設立、昌平学校を本校に、開成学校(後の東京大学)・医学校(後の東京大学医学部)を分局とする、教育機関としての役割だけでなく日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部省の前身)

  • 1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校大学に改称、昌平学校を大学本校に、開成学校大学南校医学校大学東校に改称

  • 1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に、大学本校は当分休校、そのまま再開することなく廃校、昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす、大学南校を中核とする高等教育機関構想へ転換

  • 1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日)、大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク、大学廃止、大学南校大学東校が独立、新たに文部省設立

  • 1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学南校文部省管轄に、南校に改称、文部省主導による貢進生廃止など制度改革のため一時閉鎖、翌10月に再開、外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となるも、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた

東京大学

  • 1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学東校文部省管轄に、東校に改称、一旦閉鎖、学則改正後に再開、入学試験を通過した学力優秀者だけの再入学を許可

東京大学医学部

創立者

学校年表

  • 1604(慶長9)年 林羅山(22歳)、藤原惺窩と出会い、精神的・学問的に大きく影響を受ける。藤原惺窩を師とし、儒学ことに朱子学を学ぶ。傑出した英才が門下に加わったことを喜んだ藤原惺窩より、儒服を贈られる。

  • 1605(慶長10)年 林羅山(23歳)、英明さに驚いた藤原惺窩より推挙され、京都二条城にて徳川家康に謁見。以後、徳川家康に仕える。万象を貫く道徳的属性を考える立場に立ち、幕藩体制下の身分秩序およびそこにおける実践道徳を形而上学的に基礎付けていく。

  • 1624(元和10/寛永元)年 林羅山(42歳)、3代将軍・徳川家光の侍講に。さらに深く徳川幕府政治に関与。その活躍は、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』など伝記・歴史の編纂・校訂、古書・古記録の採集、武家諸法度・諸士法度・御定書百箇条などの撰定、外交文書の起草、朝鮮通信使の応接など多岐にわたる。

1630(寛永7)年 - 1632(寛永9)年 上野忍岡に林家の書院・学寮設立・聖廟(先聖殿)建立

1630(寛永7)年、3代将軍・徳川家光が林家に上野忍岡の五千余坪の土地と二百両を与え、書院と学寮を設立。昌平坂学問所の起源に。1632(寛永9)年、徳川義直が同地内に聖廟(先聖殿、後に忍岡聖堂)建立。

  • 1632(寛永9)年 林羅山(50歳)、3代将軍・徳川家光より江戸上野忍岡に土地を与えられ、私塾弘文館(学問所)・文庫を設立。私塾より多くの門人を輩出、後の昌平坂学問所(東京大学の源流)の起源となる。尾張藩初代藩主・徳川義直がこれを助け、孔子の聖像、顔子・曾子・子思・孟子の四賢像、祭器を寄付。先聖堂の扁額を書いて与える。祭祀の維持運営が代々の林家当主に継承される。

  • 林鳳岡、江戸幕府4代将軍・徳川家綱以後、8代将軍・徳川吉宗まで5代にわたって仕える。講学だけではなく、官爵・系譜・祭典など、幕府の文書行政に参与。また、朝鮮通信使の応接にも関わる。

  • 1690(元禄3)年 林鳳岡(46歳)、信任厚い5代将軍・徳川綱吉の命により、書を殿中の諸士に講じる。

1690(元禄3)年 神田湯島に聖廟(大成殿)建立・林家塾を移す

5代将軍・徳川綱吉が神田湯島に六千坪の土地を与えて聖廟(大成殿)建立。林家塾(後に昌平坂学問所)を移す。孔子の生地である「昌平郷」に因み、「昌平坂」と命名。

  • 1691(元禄4)年 林鳳岡(47歳)、5代将軍・徳川綱吉の命にて、上野忍岡邸内の聖堂(孔子廟)を神田台(現・湯島)に移す。先聖殿を大成殿と改称。あわせて、講堂・学寮が整備される。この土地を孔子の生地である昌平郷にちなみ、昌平坂と命名。聖堂学問所(東京大学の源流)を管掌、大学頭に任じられる。以降、大学頭の官職は林家の世襲となる。この時まで、儒者は仏僧の風に従い、士籍に入ることはできなかったが、これに強く反対。士籍に入ることが認められ、束髪改服。従五位下に叙せられる。

  • 1698(元禄11)年 林鳳岡(54歳)、木下順庵らと共に、松平家の発生から徳川家康の一生を事跡、武功を記した『武徳大成記』編纂。林家の官学的傾向を強める。

  • 1787(天明7)年 柴野栗山(52歳)、江戸幕府老中・松平定信より招聘され、幕臣に。岡田寒泉と共に湯島聖堂取締に。大学頭・林信敬を補佐、朱子学による学風の統一・刷新と学制の整備に当たる。

  • 1788(天明8)年6月 中井竹山(59歳)懐徳堂大阪大学文系学部の源流)は父・中井甃庵の代に官許学問所となっていたが、さらに昌平坂学問所(昌平黌)が官立となったように、官立学問所を目指した。江戸幕府の老中就任すぐの松平定信が大阪に。引見、3日と短い滞在期間の中で、政治・経済・学問などについて諮問を受ける。後に『草茅危言』を著作、献上。この引見から名声が全国に拡がり、来阪する諸大名や旗本らの招きが増える。懐徳堂に諸藩士や学者の訪問が相次ぐ。大坂城代・堀田正順との関係も緊密に、召し抱えの儒者として大阪城内に自由な出入りが許され、講義をするように。

  • 1790(寛政2)年 柴野栗山(55歳)、寛政の改革を進める江戸幕府老中・松平定信に湯島聖堂をはじめとする教育機関における朱子学の復興、異学の禁止を建議。寛政異学の禁を指導。

1790(寛政2)年7月6日(旧暦・5月24日) 寛政異学の禁

江戸幕府老中・松平定信による教学政策。8代将軍・徳川吉宗が理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、古学や折衷学派などが流行したこともあり、朱子学が不振。湯島聖堂の廃止も検討される状況にあった。天明の大飢饉で低下した幕府の威信を取り戻すため、松平定信は儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させるべく学問統制。当時流行していた古文辞学や古学について、風俗を乱すものとして規制。学問所(後に昌平坂学問所)をはじめ、幕府教育機関における朱子学以外の異学の講義を禁じた。
林家の私塾であった学問所を林家から切り離し、聖堂学規や職制を制定、幕府直轄の教育機関とする。1792(寛政4)年9月、湯島聖堂仰高門内に講舎落成。旗本・家人を問わず、幕臣とその子弟の学問吟味を行う。

朱子学は、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系(新儒教)である。万物は宇宙の理想的なあり方を示す善や真の概念「理」と現実世界の諸現象「気」から成るとし(理気二元論)、「理」である理性・道徳により、「気」としての現実を支配することを理想とした。江戸幕府が朱子学を正学(官学)と定めた背景には、政権の安定と支配層の再生産について、「理」を四民の身分秩序にあると定義(上下定分の理)し、身分制度を知的・理念的側面から支えたい思惑があった。武士が学ぶべき学問として、思想体系・教育環境の整備を図る。一方で現実の「気」に重きを置き、実践を重視(知行合一)した陽明学は反体制的な行動を誘引する恐れがある学問とされ、日本だけでなく東アジアの多くの体制下で異端・異教として扱われた。

  • 1791(寛政3)年 尾藤二洲(47歳)、幕府からの招聘を受け、昌平坂学問所(昌平黌)教官に。

  • 1796(寛政8)年 古賀精里(47歳)、幕府からの招聘を受け、昌平坂学問所(昌平黌)教官に。

1797(寛政9)年 昌平坂学問所(昌平黌)設立

学舎の敷地拡張、昌平坂学問所(昌平黌)設立。外部より尾藤二洲古賀精里を教授として招聘。以後、幕府直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可される。柴野栗山尾藤二洲古賀精里の3名は「寛政の三博士」と呼ばれる。

  • 1797(寛政9)年 古賀穀堂(20歳)、幕府より父・古賀精里が招聘を受けて昌平坂学問所(昌平黌)の学官に任じられると、その後を追いかけて江戸に。父の下で学び、柴野栗山尾藤二洲からも教えを受ける。

  • 1799(寛政11)年、長年荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成。敷地面積は1万6千坪余りに。大成殿も水戸孔子廟にならい、創建時2.5倍規模の黒塗りの建物に改められる。

  • 中井竹山尾藤二洲より昌平坂学問所(昌平黌)の史局総裁として招聘されるも、病気を理由に固辞。その後も薩摩藩、加賀藩、熊本藩から招聘されるも、すべて固辞。懐徳堂を離れることはなかった。

  • 1814(文化11)年 安積艮斎(24歳)、江戸神田駿河台の幕府旗本小栗家屋敷内に私塾・見山桜を創立。朱子学だけでなく、危険視されていた陽明学など他の学問や宗教も摂取した新しい思想を唱える。外国事情にも詳しく、海防論の論客としても知られる。学んだ門人は2,000人以上と言われ、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、安場保和、秋月悌次郎、小栗忠順、栗本鋤雲、清河八郎、近藤長次郎、前島密などが学ぶ。見山桜創立の頃、蘭学者・儒学者など幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した尚歯会に参加。渡辺崋山らと親交。

  • 1846(弘化3)年 古賀謹一郎(31歳)昌平坂学問所(昌平黌)の儒者見習に。翌年、幕府仕えの儒官となり15人扶持。

  • 1849(嘉永2)年 古賀謹一郎(34歳)、儒学者でありながらいち早く洋学の必要性を感じ、漢訳蘭書による独学にて、西洋事情を習得。アメリカからの漂流者・次郎吉から欧米の事情を取材、『蕃談』著作。書写本にて流布。

1862(文久2)年1月3日(旧暦・11月14日) 学問所奉行設置

文久の改革の一環として、幕府教育機関の振興を意図した学問所奉行を設置。祭酒である林大学頭以下を指揮、昌平坂学問所(昌平黌)および蕃書調所の監督を行う。初代奉行に、田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹を任命。蕃書調所昌平坂学問所(昌平黌)と同格の幕府官立学校に。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

  • 1868(慶応4)年4月4日(旧暦・3月12日)、学習院、大政奉還以後の政治的混乱より一時閉鎖。半年後、再開。しかし、平田派の国学者は、学習院が旧来の大学寮と同様に漢学(儒教)に基づく教育方針であったことに不満。国学と神道を中心に据えた教育改革または新制学校の創設を求める。

1868(慶応4/明治元)年 新政府が開成所医学所を接収

明治新政府の布告により、開成所医学所が新政府に接収される。新政府運営の学校に。

1868(慶応4/明治元)年8月17日(旧暦・6月29日) 新政府が昌平坂学問所を接収

明治新政府が昌平坂学問所(昌平黌)を接収、官立の昌平学校として再出発。

1868(慶応4)年9月3日(旧暦・7月17日) 東京奠都

江戸が東京と改称。京都との東西両京とした上で、都として定められる。9月、元号が明治に改められる。10月13日、天皇が東京に入る。1869(明治2)年、政府が京都から東京に移される。

  • 1868(慶応4)年10月28日(旧暦・9月13日)、松代藩士・長谷川昭道が学習院を巡る平田鐵胤・玉松操・矢野玄道ら国学派と漢学派の対立を憂慮。岩倉具視に両者間の妥協を促す意見書を提出。平田案に基づく国学中心の皇学所と、大学寮代を改組した漢学中心の漢学所の2校体制に。​

  • 1868(慶応4/明治元)年10月31日(旧暦・9月16日)、京都に大学校を新設する太政官布告。これにより、漢学所が11月2日(旧暦・9月18日)開講。やや遅れ、1月26日(旧暦・12月14日)に皇学所開講。

  • 東京奠都、明治新政府により、京都での大学校設立構想は修正。東京の地に昌平坂学問所(昌平黌)を基盤とし、洋学・医学を織り交ぜた高等教育機関を設立する案へと変更。皇学所漢学所が京都から東京へ移されることに。皇漢両学を教授する大学校の本校に、皇学所出身者が採用される。昌平坂学問所(昌平黌)の漢学(儒学)派と皇学所の国学派が激しく対立。

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

  • 1869(明治2)年10月6日(旧暦・9月2日)、明治新政府より皇学所漢学所の廃止命令が出される。

  • 1870(明治3)年1月11日(旧暦・12月10日)、皇学所漢学所、廃止命令に強く反発。この声に圧された京都留守官は、東京に置かれた大学校を補完する学校として、独断で旧・皇学所と旧・漢学所を統合した大学校代設置。しかし、東京奠都で多くの公家が京都を去ったことも影響、生徒を十分に集めることができず。皇漢両派の対立も止まず。

  • 1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。

  • 1870(明治3)年8月21日(旧暦・7月25日)、大学校代、明治新政府より不振を理由に廃校、京都府管轄とする命令が下る。府校(現・京都府中学校)に。

  • 1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

東京大学

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、東校南校と同様に一旦閉鎖。学則改正後、再開。入学試験を実施、学力優秀者の再入学を許可。

東京大学医学部

  • 1872(明治5)年3月10日、湯島聖堂大成殿で、文部省主催による日本最初の博覧会・湯島聖堂博覧会開催。国立博物館(後に東京国立博物館および国立科学博物館)の起源に。​

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

1872(明治5)年9月 師範学校設立

学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に日本初の官立教員養成機関・師範学校(後に東京師範学校、筑波大学の源流)設立。湯島聖堂内の昌平坂学問所(昌平黌)跡地に置かれる。将来全国に設立されるべき小学校教員養成機関のモデルケースとしての役割を果たす。校内編輯局にて、全国小学校で使用される新たな教科書の編纂、全国小学校の教則の範例となるべき『小学教則』の編成などが行われる。

1873(明治6)年8月 6大学区で官立師範学校設立

名古屋・大阪・広島・長崎・新潟・仙台で官立師範学校設立。東京の師範学校は、東京師範学校に改称。師範学校は卒業後教職に就くことを前提に授業料が無料、生活も保障された。このため、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たす。

1874(明治7)年11月 東京女子師範学校開校

湯島聖堂(旧・昌平坂学問所)構内界隈(現・お茶の水橋袂)に日本最初の官立女子師範学校・東京女子師範学校創立。女子教育機関の最高峰とみなされる。​修業年限5年、課程は10級に分けられ、地理・歴史・物理学・化学大意・修身学・雑書・修辞・書取・作文・数学(算術・代数・幾何)・経済学・博物学・教育論・記簿法・養生書・手芸・画学・唱歌・体操・授業法・実地授業の学科目が講義される。

1872(明治5)年創立の女子中等教育機関・東京女学校からも相当数の生徒が東京女子師範学校予科転入。

  • 1880(明治13)年、東洋の学術文化の交流を意図、岩倉具視が谷干城らと図って斯文学会設立。会長に有栖川熾仁親王。

  • 1918(大正)7年、斯文学会を母体に公益財団法人斯文会設立。史跡湯島聖堂の維持管理、孔子祭(釈奠)の挙行など活動。

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