ダイガクコトハジメ - 東京外国語大学
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学校略歴
← 開成所・大学南校
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1871(明治4)年7月、加藤弘之、文部大丞に、文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦、共に日本の教育制度改革に乗り出す、富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める
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1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日)、大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク、大学廃止、大学南校・大学東校が独立、新たに文部省設立
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1871(明治4)年9月5日(旧暦・7月21日)、大学南校は文部省管轄に、南校に改称、文部省主導による貢進生廃止など制度改革のため一時閉鎖、翌10月に再開、外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となるも、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた
→ 東京大学
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1871(明治4)年、外務省、独魯清語学所設置
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1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日)、学制公布、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令、全国を学区に分けそれぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画、身分・性別に区別ない国民皆学を目指す、「大学」を高尚な諸学を授ける専門科の学校とし、卒業者に学士の称号を与えるとする
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組、第一大学区第一番中学校に、外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に
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1872(明治4)年、外務省、韓語学所設置
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1873(明治6)年3月、外務省、独逸学教場設置
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1873(明治6)年4月、学制二編追加、「専門学校」を外国教師によって教授する高尚な学校とし、「大学」と同じく卒業者に学士の称号を与えるとする、外国語教育機関として「外国語学校」を定める
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1873(明治6)年4月10日、学制二編追加により、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組、第一大学区開成学校に、教授言語が原則として英語に統一される
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1873(明治6)年5月、外務省、独魯清語学所を文部省に移管、外国語学所と改称
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1873(明治6)年11月4日、学制二編追加により、開成学校より「語学課程」(普通科)が分離独立、開成学校語学課程(英・独・仏の3科)・独逸学教場・外国語学所を統合、東京外国語学校(東京外国語大学の源流)創立、官立最初の語学学校に、翌1874年までに全国に8校の官立外国語学校が設立される
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英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置(後に英語科が分離)、朝鮮語科を増設、高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす
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1873(明治6)年末、開成学校が教授言語を原則として英語に統一したことにあわせて、東京外国語学校英語科を東京英語学校として独立
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1874(明治7)年5月、東京開成学校に改称、法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編、修業年限3年の予科設置
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1877(明治10)年2月19日、東京英語学校・大阪英語学校以外の官立英語学校、廃止
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1877(明治10)年4月12日、東京大学創立、東京開成学校本科と東京医学校が統合、法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生、しかし実態は1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった
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1877(明治10)年、東京英語学校と東京開成学校予科が統合、東京大学予備門(後に、第一高等中学校・第一高等学校)設立、東京大学法・理・文三学部入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に
→ 大学予備門
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1880(明治13)年3月、外務省、韓語学所を文部省に移管、東京外国語学校に朝鮮語学科設置
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1882(明治15)年6月、東京大学医学部予科を東京大学予備門に合併、東京大学・東京大学医学部各学部に入学する全生徒に対する基礎教育・語学教育機関に
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1885(明治18)年8月、東京大学予備門、東京大学付属より分離、文部省の管轄に、東京大学の予備教育機関であるばかりでなく他の官立学校に入学すべき生徒も養成する機関に拡張
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1885(明治18)年9月、高等教育の基礎としての外国語教育について、英・仏・独3語科は東京大学予備門に合併、英・仏・独以外の語学科が東京商業学校(現・一橋大学)に合併される、東京外国語学校(旧外語)は廃止に
→ 一橋大学
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1897(明治30)年4月22日、第9帝国議会にて外国語学校開設を建議、高等商業学校(現・一橋大学)に高等商業学校附属外国語学校設置
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1944(昭和19)年4月26日、東京外事専門学校に改称
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1949(昭和24)年5月31日、学制改革に伴い、東京外国語大学発足
学校年表
1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想
明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校を大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校を大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。
1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立
明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校・医学校を分局とする大学校(東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。
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1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校を大学と改称。昌平学校を大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校は大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校は大学東校(だいがくとうこう)と改称。
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1870(明治3)年8月8日(旧暦・7月12日)、学神祭論争、『大学規定』をめぐる洋学派・反洋学派(国学・漢学両派)間の抗争など深刻な派閥争いを理由に。大学本校は当分休校とされ、再開されることなくそのまま廃校となる。昌平坂学問所(昌平黌)の歴史が幕を下ろす。改めて明治新政府は大学南校を中心とする大学構想に舵を切る。貢進生の制度を定め、諸藩から俊秀な人材を選抜、大学南校に入学させる。欧米の学問文化を学ばせ、国家の指導的人材の養成を図る。
1870(明治3)年7月27日 貢進生
太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。
1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。
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1870(明治3)年 江藤新平(37歳)、制度取調専務として国家機構の整備に従事。大納言・岩倉具視に対し、30項目の答申書を提出。フランス・プロシア・ロシアをモデルとした三権分立と議会制、君主国家と中央集権体制の促進、四民平等を提示。憲法の制定作業に着手。
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江藤新平、国法会議や民法会議を主催、箕作麟祥・加藤弘之らと共に『民法典編纂』に取り組む。フランスの法制度を高く評価。「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」・「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」。普仏戦争でフランスが大敗するも、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒める。
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1871(明治4)年7月 加藤弘之(35歳)、文部大丞に。文部長官となる文部大輔として江藤新平を推薦。共に日本の教育制度改革に乗り出す。富国強兵・殖産興業を目指す明治新政府による「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。
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1871(明治4)年7月 江藤新平(38歳)、文部大輔に。加藤弘之と共に日本の教育制度改革に着手。大学本校・大学南校・大学東校の分裂問題を担当、「洋学中心の東京大学創立」の大方針を固める。また、文部省務の大綱を定める。後任の盟友、初代文部卿・大木喬任の下、学制として体系化される。
1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク
大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校と大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。
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1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。
→ 東京大学
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1871(明治4)年、外務省、独魯清語学所設置。
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
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1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。
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1872(明治4)年、外務省、韓語学所設置。
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1873(明治6)年3月、外務省、独逸学教場設置。
1873(明治6)年4月 学制二編追加
「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。
「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。
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1873(明治6)年4月10日、学制条文追加に伴い、第一大学区第一番中学校は専門学校へと改組。第一大学区開成学校に。教授言語が原則として英語に統一されることとなる。
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1873(明治6)年5月 伴正順(31歳)、文部省六等出仕。開成学校(現・東京大学)校長に。
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1873(明治6)年5月、外務省、独魯清語学所を文部省に移管。外国語学所と改称。
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1873(明治6)年8月、開成学校、従来の「語学課程」(普通科)に加え、「専門学課程」(専門科)新設。法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置される。法学・化学・工学が英語で教授されたが、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とされた。当2学科について、学生の卒業に伴い順次廃止。
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1873(明治6)年11月4日、学制二編追加により、開成学校より「語学課程」(普通科)が分離独立。開成学校語学課程(英・独・仏の3科)・独逸学教場・外国語学所を統合。東京外国語学校(東京外国語大学の源流)創立、官立最初の語学学校に。翌1874年までに全国に8校の官立外国語学校が設立される。
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東京外国語学校、英・仏・独・清(中国)・魯(ロシア)の5語科を設置(後に英語科が分離)。朝鮮語科を増設。高等教育の基礎としての外国語教育と通訳養成教育の二重の役割を果たす。
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1873(明治6)年11月 伴正順(31歳)、 東京外国語学校初代校長に。
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1873(明治6)年末、東京外国語学校、開成学校が教授言語を原則として英語に統一したことにあわせて、東京外国語学校英語科を東京英語学校として独立。
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1876(明治9)年 高橋是清(24歳)、東京英語学校教員に。
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1874(明治7)年5月、東京開成学校に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編される。加えて、修業年限3年の予科が設けられる。
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1874(明治7)年9月 肥田昭作(33歳)、東京外国語学校校長に。
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1874(明治7)年12月 肥田昭作(33歳)、新設の東京英語学校校長兼務。
1874(明治7)年12月 官立外国語学校、英語学校に改称
愛知・大阪・広島・長崎・新潟・宮城の官立外国語学校、英語学校に改称。
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1875(明治8)年11月 服部一三(25歳)、東京英語学校校長心得に。後に、東京英語学校校長に。
1877(明治10)年2月19日 東京英語学校・大阪英語学校以外の官立英語学校廃止
愛知・広島・長崎・新潟・宮城の官立英語学校、廃止。
1877(明治10)年4月12日 東京大学創立
東京開成学校本科と東京医学校が統合。法学部・理学部・文学部・医学部の4学部からなる総合大学が誕生。しかし実態は、1881(明治14)年の組織改革に至るまで、旧東京開成学校と旧東京医学校のそれぞれに綜理が置かれるなど連合体であった。校地も東京大学法・理・文三学部が錦町、東京大学医学部が本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷跡地と離れていた。職制や事務章程も別々に定められる。
法学部に法学の一科。理学部に化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五科。文学部に史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科。医学部に医学科・製薬学科の二科が設けられ、それぞれ専門化した学理を探究する組織が目指される。あわせて、東京大学法・理・文三学部予科として基礎教育・語学教育機関である東京大学予備門が付設される。
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1877(明治10)年4月13日 加藤弘之(42歳)、東京大学法・理・文三学部綜理に。
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1877(明治10)年 服部一三(27歳)、東京大学法・理・文三学部綜理補に。東京大学予備門主幹を兼務。
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1877(明治10)年、東京英語学校と東京開成学校予科が統合、東京大学予備門(後に第一高等中学校・第一高等学校)設立。「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」とされ、東京大学法・理・文三学部入学のための基礎教育・語学教育を施す教育機関に。当初、東京大学医学部は別に予科を設ける。
→ 大学予備門
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1880(明治13)年3月、外務省、韓語学所を文部省に移管。東京外国語学校に朝鮮語学科設置。
1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生
東京大学法学部・理学部・文学部三学部と東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法・理・文三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。
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1881(明治14)年5月 二葉亭四迷(18歳)、外交官を目指し、東京外国語学校露語科入学。ロシア語を教授したレフ・メーチニコフ、黒野義文、古川常一郎の影響で、次第にロシア文学に心酔するように。
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1885(明治18)年9月、高等教育の基礎としての外国語教育について、英・仏・独3語科は東京大学予備門に合併。英・仏・独以外の語学科が東京商業学校(現・一橋大学)に合併される。東京外国語学校(旧外語)は廃止に。東京商業学校への合併に対し、東京外国語学校学生が激しく反発、中退者も出現。
→ 一橋大学
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1886(明治19)年1月 二葉亭四迷(23歳)、東京外国語学校露語科が改組された東京商業学校第三部露語科に通うも、合併に反対。東京商業学校校長・矢野二郎に対し悪感情を持つように。中退。
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1893(明治26)年 神田乃武(37歳)、高等商業学校(現・一橋大学)教授に転じる。
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1897(明治30)年4月22日、第9帝国議会にて、衆議院・貴族院が外国語学校開設を建議。日清戦争後、露・中・朝など極東諸国との交流が密になることを予測し、外交・商業の実務者育成を提言するものであった。高等商業学校(現・一橋大学)に高等商業学校附属外国語学校設置。
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1899(明治32)年 二葉亭四迷(36歳)、再び東京外国語学校(新外語)が設立される。旧制東京外国語学校時代の恩師・古川常一郎の推薦を受け、ロシア語科教授に。
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1944(昭和19)年4月26日、東京外事専門学校に改称。
1946(昭和21)年 - 学制改革
第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。
複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。
戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。
1949(昭和24)年5月31日公布・施工 国立学校設置法
文部省管轄、全国に69の新制国立大学が発足。
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1949(昭和24)年5月31日、学制改革により、東京外国語大学発足。東京外事専門学校を内包。
東京外国語大学年表