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ダイガクコトハジメ - 東京経済大学

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学校略歴

  • 1873(明治6)年、大倉喜八郎、銀座に大倉組商会設立、貿易および用達事業に乗り出す、後に大倉財閥に成長

  • 1898(明治31)年、大倉喜八郎西洋諸国と並ぶ商業の知識・道徳を備える人材を育てるため、私財を投ずることを決意、商業学校設立趣意書好評、創立委員に渋沢栄一渡辺洪基石黒忠悳

  • 1900(明治33)年9月1日、大倉喜八郎、私財50万円を投じ、港区赤坂葵町(現・港区虎ノ門)に大倉商業学校創立

  • 1919(大正8)年、専門学校として高等商業学校へ昇格が認可され、大倉高等商業学校に、名門高商として全国にその名を馳せる

  • 1944(昭和19)年、大倉経済専門学校に改称

  • 1946(昭和21)年1月20日、空襲により校舎消失、赤坂葵町から国分寺へ移転

  • 1949(昭和24)年4月1日、新生大学・東京経済大学に昇格、在校生がアルバイトをして募金するなど全校を挙げて旧制専門学校から新制大学への昇格運動に取り組む、経済学部経済学科・商学科設置

創立者

学校年表

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 大久保利通(42-44歳)、大蔵卿に就任。岩倉遣欧使節団の副使として外遊。イギリスの工業・工場群に、日本近代化のための殖産興業の姿を描く。政治体制のあるべき姿については、先進国イギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考える。

  • 1873(明治6)年 大倉喜八郎(37歳)、銀座に大倉組商会を設立。貿易および用達事業に乗り出し、後に台湾出兵・西南戦争・日清戦争・日露戦争の軍需物資調達で巨利を得る。

  • 1875(明治8)年 大倉喜八郎(39歳)、東京会議所の肝煎となる。この時、東京府知事・楠本正隆の要請で渋沢栄一も肝煎となり、以後50年におよぶ親交を持つ。

  • 1875(明治8)年 渋沢栄一(36歳)、東京府知事・楠本正隆の要請で東京会議所の肝煎となる。同じく大倉喜八郎も肝煎となり、以後50年におよぶ親交を持つ。

  • 1878(明治11)年 渋沢栄一(39歳)、大蔵卿・大隈重信より「日本にも商人が集会して相談する機関をつくっては」と提案を受け、大倉喜八郎と二人で発起人となり東京商法会議所(後に東京商業会議所、現・東京商工会議所)創立。会頭に。

  • 1882(明治15)年3月 大倉喜八郎(46歳)、矢島作郎・蜂須賀茂韶と共に、日本初の電力会社・東京電燈創立。宣伝の一環として、銀座大倉組商会事務所前で日本初のアーク灯を点火。驚嘆した市民が毎夜見学に押しかける。​

  • 大倉喜八郎、東京瓦斯・京都織物会社・日本製茶・東京水道会社などの株主や委員などにも名を連ね、日本の近代化に尽力。

  • 1887(明治20)年 大倉喜八郎(51歳)、藤田伝三郎の藤田組と大倉組の土木部門を合併、日本土木会社(大成建設の源流)設立。資本力・技術力ともに高く、帝国ホテル・東京電燈・日本銀行・歌舞伎座・碓氷トンネルなど建造物を請け負う。

  • 1898(明治31)年 大倉喜八郎(62歳)大倉商業学校(現・東京経済大学)設立趣意書を公表、西洋諸国と並ぶ商業の知識・道徳を備える人材を育てるため、私財を投ずることを決意。創立委員に渋沢栄一渡辺洪基石黒忠悳が名を連ねる。

1899(明治32)年8月3日公布・8月4日施行 私立学校令

私立学校のみを対象とする最初の法令。私学の基盤を一定整備、日本の近代教育の中で存在が正当なものに位置付けられる。同時に、私学は直接・間接的に国家の教育政策からの強い統制を受けることに。

  • 1900(明治33)年9月1日 大倉喜八郎(64歳)、還暦銀婚祝賀式の記念事業として、私財50万円を投じ大倉商業学校(現・東京経済大学)創立。ロンドンタイムズなどで美挙と報じられる。港区赤坂葵町(現・港区虎ノ門)の邸宅(現在はホテルオークラ・大倉集古館が建つ)の隣接地に開校。

  • 1900(明治33)年9月1日 石黒忠悳(56歳)、古くから交遊があった大倉喜八郎が私財を投じて創立した大倉商業学校の創立委員に。理事兼督長に。

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1907(明治40)年9月 大倉喜八郎(71歳)大阪大倉商業学校(現・関西大倉中学校・高等学校)創立。

  • 1917(大正6)年 - 1918(大正7)年 大倉喜八郎(81歳)、大倉組を大倉工業・大倉土木組(現・大成建設)に分離。翌年、大倉商事と改称。大倉組をコンツェルン化。

  • 1919(大正8)年、専門学校として高等商業学校へ昇格が認可され、大倉高等商業学校に。名門高商として全国にその名を馳せる。

1943(昭和18)年2月16日 専門学校令改正

実業学校令廃止、専門学校と実業専門学校の区別廃止。翌年、各種専門学校は経済専門学校(旧高等商業学校・旧高商)・工業専門学校(旧高等工業学校・旧高工)・農林専門学校(旧高等農業学校・旧高農)・外事専門学校(旧外国語学校)など改称。

  • 1944(昭和19)年、大倉経済専門学校に改称。

  • 1946(昭和21)年1月20日、空襲により校舎消失。赤坂葵町から国分寺へ移転。

1946(昭和21)年 - 学制改革

第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。

複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。

戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。

  • 1949(昭和24)年4月1日、新生大学へ昇格、東京経済大学に。在校生がアルバイトをして募金するなど、全校を挙げて旧制専門学校から新制大学への昇格運動に取り組む。経済学部経済学科・商学科設置。

 

東京経済大学年表

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