ダイガクコトハジメ - 東京藝術大学
関連する学校・組織(前史)
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東京美術学校
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東京音楽学校
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帝国博物館
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日本美術院
関連する学校・組織(現代)
関連する教育者
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アーネスト・フェノロサ
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浅井忠
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岡田三郎助
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岡部覚弥
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加納夏雄
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川端玉章
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黒川真頼
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久米桂一郎
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小島憲之
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巨勢小石
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西郷孤月
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桜岡三四郎
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下村観山
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高村光雲
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寺崎広業
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長沼守敬
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橋本雅邦
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菱田春草
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福地復一
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藤島武二
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穂積陳重
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本多天城
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和田英作
参考情報
参考文献・書籍
年表 | 工部大学校工部美術部 | 東京工業大学 | 東京高等工藝学校 | 筑波大学 | 動画
東京美術学校略歴
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1876(明治9)年、工部省工学校内に、日本最初の美術教育機関・工部美術学校設立、純粋な西洋美術教育のみの機関であり、日本画・木彫は教授されず
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1882(明治18)年 - 1883(明治19)年、アーネスト・フェノロサの提言などもあり、日本美術の再評価、国粋主義が台頭、西洋美術教育機関・工部美術学校廃校
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1886(明治19)年-1887(明治20)年、岡倉天心、文部省図画取調掛委員としてフェノロサと共に美術教育全般に関わる調査を目的に欧米調査旅行、東京美術学校を構想、日本美術に触発されたアールヌーヴォー運動の高まりを見て日本画推進の意をさらに強くする
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1887(明治20)年10月、欧米調査における美術学校の組織管理および学科教授法の報告に基づき、東京美術学校の創立準備、文部省図画取調掛と工部省工部大学校内工部美術部を統合
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1889(明治22)年2月、東京美術学校開校、文人画を除く伝統的日本美術の保護・振興を目的とする、西洋美術が排される
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1889(明治22)年、工部美術学校出身の西洋美術作家達を中心に、当時の洋画家ほぼ全員約80名が大同団結、松岡壽が明治美術会組織、反東京美術学校の一面を備える
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1890(明治23)年10月7日、岡倉天心、東京美術学校校長に、日本美術史講義は日本美術史叙述の嚆矢とされる、副校長にフェノロサ
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1896(明治29)年、伝統美術に限定されない、より幅広い教育内容が求められるように、西洋画科・図案科を新設、西洋画科主任教官に黒田清輝
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1898(明治31)年、美術学校騒動、校長・岡倉天心と自身の長年の後援者であった文部官僚・九鬼隆一の妻・九鬼波津子との不倫が公に、帝室博物館美術部長・東京美術学校校長を罷免される、西洋画科を除き全教師が一斉辞職を決議、岡倉天心・横山大観ら辞職教官が日本美術院発足
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1899(明治32)9月、東京工業学校、工業と美術との境界領域・産業デザインを教授する東京工業学校工業図案科設置、1906(明治39)年、松岡壽が科長に迎えられる
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1901(明治34)年、正木直彦、校長就任、以後30年長にわたる長期間校長を務め、校正改革、画家・作家揃いの教授陣の統制は困難を極めるも各派調停、制度・組織が安定
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1906(明治39)年、正木直彦・黒田清輝・大塚保治らと共に政府による芸術振興を建議、これを受けて翌1907(明治40)年に第1回文部省展覧会(文展)開催
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1914(大正3)年、東京高等工業学校工業図案科を併合、機能美実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず、独立の機運が高まる
← 東京工業大学
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1919(大正8)年8月20日、文部省の高等工業学校拡充の政策にも合致、工業図案科が東京美術学校から独立、東京高等工業学校工業図案科の流れを汲む専門学校として東京高等工藝学校(現・千葉大学工学部)創立認可
→ 東京高等工藝学校
東京音楽学校略歴
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1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月、伊沢修二、文部省の師範学校教育調査のためアメリカ留学、渡米中に目賀田種太郎と出会う、日本の音楽唱歌を欧米の音楽と同化させようと研究
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1880(明治13)年、日本内外音楽の調査をはじめ多くの事業を開始、東京師範学校及び東京女子師範学校の附属小学校・幼稚園生徒に授業開始、また伝習人を募集、音楽教員の養成を開始
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1887(明治20)年10月4日、文部省音楽取調掛を改称、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)創立
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1890(明治23)年5月12日、奏楽堂を含む校舎を新築、日本最初の音楽教員・音楽家・音楽鑑賞家の養成機関として東京音楽学校開校、初代校長に伊沢修二
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1891(明治24)年、開校まもなく国費節減と関連して帝国議会で存廃論議が起こる
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1893(明治26)年6月、高等師範学校に移管、附属学校に格下げされる
→ 筑波大学
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1907(明治40)年、文部省邦楽調査掛が設置され、古邦楽の採譜・演奏が始まる、西洋音楽に限らず広く音楽家・音楽教師・音楽鑑賞家を養成する中心的教育機関に
東京美術学校創立者
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アーネスト・フェノロサ
東京音楽学校創立者
学校年表
1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布
日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。
「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。
1872(明治5)年9月 師範学校創立
学制に基づき、初等・中等学校教員の養成を目的に日本初の官立教員養成機関・師範学校(後に東京師範学校、筑波大学の源流)創立。湯島聖堂内の昌平坂学問所(昌平黌)跡地に置かれる。1873(明治6)年9月、他の6大学区(愛知・大阪・広島・長崎・新潟・宮城)にて官立師範学校設立。東京の師範学校は東京師範学校に改称。
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1874(明治7)年9月27日 田中不二麿(30歳)、文部大輔に。学制実施の実質上の責任者に、教育行政の要衝にあたる。
1874(明治7)年11月 東京女子師範学校開校
湯島聖堂(旧・昌平坂学問所)構内界隈(現・お茶の水橋袂)に日本最初の官立女子師範学校・東京女子師範学校創立。女子教育機関の最高峰とみなされる。修業年限5年、課程は10級に分けられ、地理・歴史・物理学・化学大意・修身学・雑書・修辞・書取・作文・数学(算術・代数・幾何)・経済学・博物学・教育論・記簿法・養生書・手芸・画学・唱歌・体操・授業法・実地授業の学科目が講義される。
1872(明治5)年創立の女子中等教育機関・東京女学校からも相当数の生徒が東京女子師範学校予科へ転入。
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明治以後の一時期、神田湯島の湯島聖堂内・昌平坂学問所跡地に文部省、東京師範学校およびその付属学校、東京女子師範学校およびその付属学校、国立博物館が同居。
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1875(明治8)年 - 1878(明治11)年5月 伊沢修二(25-28歳)、文部省の師範学校教育調査のため、神津専三郎・高嶺秀夫と共にアメリカ留学。マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校で学ぶ。同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。ハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究。
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1876(明治9)年、工部省工学校内に、日本最初の美術教育機関・工部美術学校設立。ルネサンス美術の中心地であるイタリアより、お雇い外国人が起用される。画学科・彫刻科の二科設置。純粋な西洋美術教育のみの機関であり、日本画や木彫は行われなかった。
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1877(明治10)年7月 目賀田種太郎(25歳)、ハーバード法律学校卒業。帰国後、文部省に勤務。
1878(明治9)年11月 東京以外の官立師範学校、府県に移管
西南戦争時の財政難により、東京師範学校と東京女子師範学校を除く官立師範学校が廃校に追い込まれる。管轄を文部省より府県に移管。小学校教員養成を目的に府県が独自に設置した師範学校が多数存在したが、修業期間・入学年齢共にまちまちであった。
1879(明治12)年9月29日 教育令公布(自由教育令)
全国を7つの学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置するとした学制について、当時の国力や民情・文化の異なる日本では全国画一的に実施することが困難であり、多くの問題が生じていた。学制を廃止。地方の実情を重視するという立場から、文部省が中央集権的教育政策を改め、地方当局に教育行政を大幅に与えることに。アメリカの教育制度をモデルとし、自由教育令とも呼ばれる。その寛容さから学校教育の停滞を招く要因と批判があがる。翌1880(明治13)年、再度国家管理を強化する方向で改正される。
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1878(明治11)年10月 - 1879(明治12)年5月 九鬼隆一(27-28歳)、パリ万国博覧会で渡仏中、西洋美術や美術行政に触れたことがきっかけで、美術分野に関心を持つ。後にアーネスト・フェノロサや岡倉天心と面識を持ち、美術研究の支援者となる。後援を受けたフェノロサらは、京都や奈良をはじめ全国各地で寺社などにある文化財の調査を効率的に進める。
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1879(明治12)年 田中不二麿(35歳)、日本の学校における音楽教育の研究を目的に、文部省音楽取調掛を開設。伊沢修二を御用係に。彼らを欧米に派遣、『蝶々』『霞か雲か』『ローレライ』などのドイツ民謡を教育現場に取り入れると共に、音楽教育の近代化を図る。
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1879(明治12)年 伊沢修二(29歳)、文部省音楽取調掛に。目賀田種太郎と連名にて、日本の音楽教育の意見書提出。米国で師事したボストン音楽学校創立者・ルーサー・メーソンを日本に招く。メーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植。『小學唱歌集』編纂。
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1880(明治13)年3月 伊沢修二(30歳)、文部省音楽取調掛にて、日本内外音楽の調査をはじめ多くの事業を開始。また、東京師範学校及び東京女子師範学校の附属小学校・幼稚園生徒に授業を行う。また、伝習人を募集、音楽の授業と教員の養成を始める。
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1880(明治13)年3月12日 田中不二麿(36歳)、教育令公布(自由教育令)が未就学児増加ならびに学力低下を招いたとして政府内で批判が強まる。司法卿に配置換えに。以後、教育行政から遠ざかる。
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1880(明治13)年 九鬼隆一(29歳)、文部少輔に。
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1880(明治13)年11月 九鬼隆一(29歳)、内国勧業博覧会の審査副長および議官に。藩閥の力が強力な当時、小藩出身の人物の出世としては珍しいほどの速さであった。文部卿・河野敏鎌が教育行政への関心が薄かったこともあり、「九鬼の文部省」と呼ばれるほどの権勢を振るう。
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1880(明治13)年 - 1888(明治21)年 松岡壽(19-27歳)、ローマ留学。国立ローマ美術学校入学。チェーザレ・マッカリに絵画を学ぶ。1887(明治20)年、国立ローマ美術学校卒業。パリに移る。
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1881(明治14)年 岡倉天心(19歳)、アーネスト・フェノロサと日本美術を調査。
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1882(明治18)年 - 1883(明治19)年、アーネスト・フェノロサの提言などもあり、日本美術の再評価が行われる。国粋主義が台頭。西洋美術教育・工部美術学校廃校。
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1884(明治17)年6月25日 岡倉天心(22歳)、フェノロサと共に京阪地方の古社寺歴訪を命じられる。法隆寺夢殿を開扉、救世観音菩薩像を調査。
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九鬼隆一、特命全権公使としてワシントンD.C.赴任。公使館の客間に数百幅の日本画を飾り、日本美術を紹介。また古美術品の海外流出防止の観点より、国宝保存を文部省や宮内省に進言。背景に、以前から交流のあったアーネスト・フェノロサの意見があったとされる。
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1884(明治17)年2月 - 1893(明治26)年7月 黒田清輝(19-28歳)、法律を学ぶことを目的に渡仏留学。パリで画家・山本芳翠や藤雅三、美術商・林忠正に出会う。1886(明治19)年、井上哲次郎に諭され、美術家転向を決意。久米桂一郎と共に、アカデミー・コラロッシのラファエル・コランに師事。フランスの展覧会にて1891(明治24)年に『読書』、1893(明治26)年に『朝妝』が入賞。
1886(明治19)年3月2日-4月10日公布 学校令
教育令に代わり公布。初等・中等・高等の学校種別を規定。高等教育相当の機関を規定する「帝国大学令」、教員養成機関を規定する「師範学校令」、中等教育相当の機関を規定する「中学校令」、初等教育相当の機関を規定する「小学校令」、学校設備などを規定する「諸学校通則」を勅令。
1886(明治19)年4月10日公布 師範学校令
師範学校を「高等師範学校」と「尋常師範学校(師範学校)」の2つに分ける。「高等師範学校」を東京に1校設置することとし、東京師範学校が高等師範学校(後に東京高等師範学校、現・筑波大学)となる。国費により運営(尋常小学校は府県の地方税により運営)。卒業生は原則として尋常師範学校(師範学校)の校長および教員に任命するとされる。
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1886(明治19)年4月、東京師範学校の高等師範学校昇格に伴い、東京師範学校女子部は高等師範学校女子師範学科に。尋常師範学校2年終了を入学資格に。修業年限4年。
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1886(明治19)年-1887(明治20)年 岡倉天心(24-25歳)、文部省図画取調掛委員として、フェノロサと共に美術教育全般に関わる調査を目的に欧米調査旅行。東京美術学校を構想。日本美術に触発されたアールヌーヴォー運動の高まりを見て、日本画推進の意をさらに強くする。
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1887(明治20)年10月 岡倉天心(25歳)、欧米調査における美術学校の組織管理および学科教授法の報告に基づき、東京美術学校創立を準備。文部省図画取調掛と工部省工部大学校内工部美術部を統合。
← 工部大学校工部美術部
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1887(明治20)年10月4日 伊沢修二(37歳)、文部省音楽取調掛長であった自身のほか、菊池大麓・外山正一・穂積陳重ら代表的学者7名が連署した『音楽学校設立ノ儀ニ付建議』に基づき、文部省音楽取調掛を改称して東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)創立。初代校長に。
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1888(明治21)年5月 - 1889(明治22)年2月 九鬼隆一(37-38歳)、フェノロサを伴い、近畿地方の京都府・大阪府・奈良県・滋賀県・和歌山県を訪れ、社寺や美術品の調査を行う。
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1889(明治22)年2月、東京美術学校開校。日本最初の美術教員・美術家養成のための機関であり、当初は文人画を除く伝統的日本美術の保護・振興を目的とする。教官に黒川真頼・橋本雅邦・小島憲之・川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲ほか。修業年限2年の普通科と3年の専修科から構成。後に西洋画・図案・彫塑など西洋美術の教育も加わる。
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1889(明治22)年 横山大観(22歳)、東京美術学校受験の際、受験者数300人のうち200人が鉛筆画で受験。しかも有名な師に何年も教わってきたと聞き、試験直前に鉛筆画から毛筆画に変更。第1期生として合格。岡倉天心・橋本雅邦らに学ぶ。同期生に下村観山・西郷孤月、第3期生に菱田春草など。
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1889(明治22)年、国立の美術教育機関・東京美術学校が開校するも、西洋美術が排される。欧化政策の反動から国粋主義が台頭、1883(明治19)年に廃校した工部美術学校出身の西洋美術作家達を中心に、当時の洋画家ほぼ全員約80名が大同団結、明治美術会発足。当初は、反東京美術学校の一面を備えていた。後に1893(明治26)年にフランスより帰国した黒田清輝・久米桂一郎も入会。
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1889(明治22)年 松岡壽(28歳)、西洋美術作家達が大同団結、浅井忠らと明治美術会を組織する。会の運営にあたる。印象派風の新画風で新派・外光派(紫派)と呼ばれた黒田清輝に対し、工部美術学校系の西洋画家は旧派・脂派と呼ばれる。藤島武二ら多くの後進を指導。
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1889(明治22)年 岡倉天心(27歳)、高橋建三と共に、美術雑誌『国華』創刊。
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1889(明治22)年 九鬼隆一(38歳)、東京・京都・奈良に帝国博物館(現・国立博物館)設立。初代総長に。
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1889(明治22)年 岡倉天心(27歳)、帝国博物館理事に。
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1889(明治22)年12月 岡倉天心(27歳)、大博覧会美術部審査官に。
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1890(明治23)年5月12日 伊沢修二(40歳)、奏楽堂を含む校舎を新築。日本最初の音楽教員・音楽家・音楽鑑賞家の養成機関として東京音楽学校開校。当初は西洋音楽の教育を中心とする。修業年限1年の予科と本科(2年制の師範科および3年制の専修科)から構成。
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1890(明治23)年 九鬼隆一(39歳)、上野で開催された第3回内国勧業博覧会の審査総長に。
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1890(明治23)年10月7日 岡倉天心(28歳)、東京美術学校校長に。日本美術史を講義、日本美術史叙述の嚆矢とされる。副校長にフェノロサ。福田眉仙・横山大観・下村観山・菱田春草・西郷孤月らを育てる。
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1891(明治24)年4月 九鬼隆一(40歳)、農商務大臣・陸奥宗光の命令にて、1893(明治26)年開催シカゴ万国博覧会の準備組織作りを行う。副総裁に。
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1891(明治24)年、東京音楽学校、開校まもなく国費節減と関連して帝国議会で存廃論議が起こる。
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1891(明治24)年 天野為之(31歳)、国会にて予算委員として活動。予算削減のため、第一高等中学校ほか第五までの高等中学校、女子高等師範学校・東京音楽学校を廃止する案が出た際、これに異議を唱え、撤回させる。
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1891(明治24)年12月 岡倉天心(29歳)、シカゴ万国博覧会評議員に。シカゴ万国博覧会の日本展示は日本画を中心とした伝統的なものに。日本館として平等院鳳凰堂を模した鳳凰殿を建て、工芸品の輸出を積極的に促進。室内装飾を東京美術学校が担当、美術・調度品を帝国博物館が選定。
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1892(明治25)年1月16日 松岡壽(31歳)、明治美術会美術学校創立。浅井忠・長沼守敬らと西洋絵画・彫刻の指導にあたる。
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1893(明治26)年 横山大観(26歳)、東京美術学校第1期生卒業。京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)予備科教員に。この頃より、雅号・大観を使い始める。
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1893(明治26)年6月、東京音楽学校、高等師範学校に移管。附属学校に格下げされる。
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1893(明治26)年7月11日 岡倉天心(31歳)、宮内省より清国出張を命じられ、竜門石仏発見。
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1894(明治27)年10月 黒田清輝(29歳)、芳翠の生巧館を譲り受け、久米桂一郎と共に洋画研究所・天心道場開設。後進の指導にあたる。印象派の影響を取り入れた新派・外光派と呼ばれる作風を確立。
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1896(明治29)年、東京美術学校、伝統美術に限定されない、より幅広い教育内容が求められるように。西洋画科・図案科を新設。西洋画科の教官に、黒田清輝・藤島武二・和田英作・岡田三郎助ら。図案科の教官に、福地復一・横山大観・本多天城らが就任。この頃より、岡倉天心校長の専権的な学校運営に対する批判が起こるように。
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1896(明治29)年 横山大観(29歳)、東京美術学校にて西洋画科・図案科新設。図案化教官として助教授に。
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1896(明治29)年5月 黒田清輝(31歳)、東京美術学校に西洋画科が新設される。西洋画科講師に。西洋画科主任となり、本格的なフランス式の美術教育を指導開始。
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1896(明治29)年6月 黒田清輝(31歳)、明治美術会脱退。白馬会結成。洋画研究所設立。明治美術会は次第に勢力が衰え、1901(明治34)年に廃止。
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1897(明治30)年 岡倉天心(35歳)、『日本帝国美術歴史』編纂主任に。
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1898(明治31)年 岡倉天心(36歳)、自身の長年の後援者であった文部官僚・九鬼隆一の妻・九鬼波津子との不倫が公に。東京美術学校での専権的な学校運営に対する批判も表面化。帝室博物館美術部長・東京美術学校校長を罷免される。教師陣は、黒田清輝ら西洋画科を除き全教師が一斉辞職を決議。橋本雅邦・西郷孤月・菱田春草・寺崎広業・横山大観・岡部覚弥・桜岡三四郎が辞職。辞職教官と共に、日本美術院を下谷区谷中大泉寺に発足(美術学校騒動)。
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1898(明治31)年3月29日 高嶺秀夫(45歳)、日本の伝統美術に造詣が深く、浮世絵の収集は、3千点以上に及ぶ。浮世絵の研究を通じ、伝統美術の保護を進めたフェノロサ・岡倉天心とも親交を結んでいた。岡倉天心の美術学校騒動による罷免を受け、後任として東京美術学校校長に。教授陣の復職についても一任され、騒動を収拾。
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1898(明治31)年 黒田清輝(33歳)、東京美術学校教授に。
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横山大観、日本美術院において、菱田春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ねる。「朦朧体」と呼ばれる、線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表。しかし、その先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びる。保守的風潮の強い日本での活動が行き詰まりを見せ始め、菱田春草と共に海外に渡る。
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1899(明治32)年9月、東京工業学校工業図案科、「工業製品は性能は基より、使いやすく美しくなければならない」という考えに基づき設置。
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1899(明治32)年 - 1901(明治34)年 正木直彦(38-40歳)、文部省の美術など調査のため、欧米へ。
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1900(明治33)年- 1901(明治34)年 黒田清輝(35-36歳)、再び渡仏。パリ万国博覧会に『智・感・情』・『湖畔』など5作品出展。『智・感・情』が銀賞。イタリア・ドイツ・ロンドン回遊。
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1901(明治34)年 正木直彦(40歳)、岡倉天心辞職後の東京美術学校にて、校長就任。以後30年長にわたる長期間校長を務め、校正改革。画家・作家揃いの教授陣の統制は困難を極めるも、各派調停。制度・組織が安定。
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1901(明治34)年11月21日 松岡壽(40歳)、明治美術会、解散に追い込まれる。
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1904(明治37)年 高嶺秀夫(51歳)、女子高等師範学校校長と東京音楽学校校長を兼任。
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1906(明治39)年 松岡壽(45歳)、西洋画地位向上に努めると共に、美術工芸品の向上にも尽力。特許局審査官として、産業としての工芸品の発展にも尽くす。この手腕を東京高等工業学校(現・東京工業大学)の手島精一校長に見込まれ、東京高等工業学校(現・東京工業大学)工業図案科科長として迎えられる。
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1906(明治39)年 正木直彦(45歳)、黒田清輝・大塚保治らと共に、政府による芸術振興を建議。これを受け、翌1907(明治40)年に第1回文部省展覧会(文展)が開催されることに。文展委員主事に。委員長は文部次官・澤柳政太郎。
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1907(明治40)年、東京音楽学校、西洋音楽一辺倒であったが、文部省邦楽調査掛が設置され、古邦楽の採譜・演奏が始まる。瀧廉太郎・山田耕筰・信時潔ら作曲家を輩出。音楽家・音楽教師・音楽鑑賞家を養成する中心的教育機関に。
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1907(明治40)年 湯原元一(45歳)、東京音楽学校校長に。
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1910(明治43)年10月18日 黒田清輝(45歳)、洋画家として初めて、帝室技芸員に選ばれる。
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1913(大正2)年 黒田清輝(48歳)、新設の国民美術協会会頭に。
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1913(大正2)年 松岡壽(52歳)、国民美術協会設立に理事として参加。
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1914(大正3)年、東京高等工業学校工業図案科、東京美術学校図案科に併合、廃止に。在学生が東京美術学校に転入。しかし、東京美術学校では機能美実現に不可欠な工学的要素がうまく教えられず。また日本美術に重きが置かれ、合理的な西洋美術が軽んじられる当時の風潮も重なり、工業図案科が目指す美麗なる製品のための産業工芸の必要性がすぐには理解されず。
← 東京工業大学
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松岡壽、東京高等工業学校工業図案科科長として、安田禄造らと共に廃止反対。工芸図案に関する高等教育の必要性を訴え続ける。東京美術学校に移った関係者の不満も次第に高まり、分離独立の機運が高まる。
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1919(大正8)年8月20日 松岡壽(58歳)、文部省の高等工業学校拡充の政策にも合致、工業図案科を東京美術学校から独立。東京高等工業学校工業図案科の流れを汲み、工業学校と美術学校との境界領域・産業デザインを教授する専門学校として東京高等工藝学校(現・千葉大学工学部)創立が認められる。東京高等工業学校校長・吉武栄之進、安田禄造と共に創立委員に。
→ 東京高等工藝学校
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1922(大正11)年7月 黒田清輝(57歳)、森鴎外の後を受け、第2代帝国美術院院長に。
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1929(昭和4)年 正木直彦(68歳)、東京美術学校が蒐集した美術品を展示するための陳列館を建設。
1946(昭和21)年 - 学制改革
第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。
複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。
戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。
1949(昭和24)年5月31日公布・施工 国立学校設置法
文部省管轄、全国に69の新制国立大学が発足。
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1949(昭和24)年5月31日、学制改革により新制・東京藝術大学発足。東京美術学校・東京音楽学校を包括。
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1949(昭和24)年5月31日、国立学校設置法により、千葉医科大学を主な母体に千葉大学設立。東京工業専門学校は千葉大学に内包され、千葉大学東京工業専門学校に。
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1951(昭和26)年4月1日、千葉大学東京工業専門学校廃止。千葉大学工学部に。
→ 千葉大学工学部
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1952(昭和27)年3月31日、東京美術学校・東京音楽学校、廃校。
東京藝術大学年表