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ダイガクコトハジメ - 松井直吉

松井直吉

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松井直吉

まついなおきち

1857(安政4)年8月14日(旧暦・6月25日) - 1911(明治44)年2月1日

理学博士、東京大学理学部教授、帝国大学工科大学教授、第三高等中学校(現・京都大学)教頭、帝国大学農科大学初代農科大学長、東京帝国大学総長、東京化学会(現・日本化学会)会長、文部省専門学務局長

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  • 1857(安政4)年8月14日(旧暦・6月25日) 松井直吉(1歳)、美濃国大垣藩(現・岐阜県大垣市)に大垣藩士和田政央の次男として生まれる。

  • 1864(文久4/元治元)年 松井直吉(8歳)、大垣藩藩校・敬教堂入学。

1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。

1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立

王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。

1869(明治2)年6月15日 官立の大学校構想

明治新政府が官立の高等教育機関構想を通達。国学・漢学の昌平学校大学校本校に、洋学の開成学校、西洋医学の医学校大学校分局として統合。昌平学校を中枢機関とする総合大学案を示した。国学を根幹として漢学を従属的に位置付け。漢学(儒学)を中心としてきた昌平坂学問所(昌平黌)の伝統からみて一大改革を意味した。国学派と漢学派の主権争いの対立が激化。

1869(明治2)年8月15日(旧暦・7月8日) 大学校設立

明治新政府官立の高等教育機関として、昌平学校を本校に、開成学校医学校を分局とする大学校東京大学の前身)設立。教育機関としての役割だけでなく、日本全国の学校行政を管轄する官庁を兼ねるとされた(文部科学省の前身)。松平春獄が学長・長官に相当する大学別当に就任。

1870(明治3)年1月18日(旧暦・12月17日)、大学校大学と改称。昌平学校大学本校に。大学本校の南に所在していた開成学校大学南校(だいがくなんこう)、東に所在していた医学校大学東校(だいがくとうこう)と改称。

1870(明治3)年7月27日 貢進生

太政官布告、富国強兵・日本の近代化を目的に、諸藩に対し石高に応じて1名から3名の優秀な人材を大学南校に推薦・貢進することが命じられる。総数318名に。御雇い外国人より英語・フランス語・ドイツ語を学ぶ。1871(明治4)年1月段階で、英語219名、フランス語74名、ドイツ語17名。更に成績優秀者をイギリス・フランス・ドイツ等の外国へ留学させる。

1877(明治10)年の東京大学成立以降、順次卒業生を輩出、貢進生はその第一期生を構成。その他、フランス語を学んだ者の一部が司法省法学校に転じたり、他の高等教育機関に転校、卒業を待たず政府に出仕した者も。

  • 1871(明治4)年 松井直吉(15歳)、大垣藩の藩命により、貢進生として大学南校入学。

1871(明治4)年9月2日(旧暦・7月18日) 大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク

大学本校の閉鎖により有名無実となっていた大学を廃止。大学南校大学東校が独立。日本の学校行政を管轄する新たな官庁として、神田湯島の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡地)に文部省設置。当初長官として江藤新平が文部大輔に就任。まもなく、初代文部卿に大木喬任が就任。近代的な日本の教育制度・学制・師範学校の導入にあたる。

  • 1871(明治4)年11月7日(旧暦・9月25日)、南校にて文部省主導による貢進生廃止など制度改革。一時閉鎖、翌10月に再開。外国人教師による普通科教育に重点を置く機関となったが、当初そのレベルは外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。

1872(明治5)年9月4日(旧暦・8月2日) 学制公布

日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令。109章からなり、「大中小学区ノ事」・「学校ノ事」「教員ノ事」・「生徒及試業ノ事」・「海外留学生規則ノ事」・「学費ノ事」の6項目を規定。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画。身分・性別に区別なく、国民皆学を目指す。フランスの学制にならい、学区制を採用。​

「大学」について、高尚な諸学を授ける専門科の学校とした。学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)に区分。卒業者には学士の称号を与えることを定める。

  • 1872(明治5)年9月、学制公布に伴い、南校は中学校へと改組。第一大学区第一番中学校に。外国語による普通科課程を修了する学生が出てくると、次の受け皿が必要に。

  • 1872(明治5)年 松井直吉(16歳)、松井喜太郎の養子に。

1873(明治6)年4月 学制二編追加

「専門学校」について、外国教師によって教授する高尚な学校とした。法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等に区分。「大学」と同じく、卒業者には学士の称号を与えることを定める。

「外国語学校」について、外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させるとした。

  • 1874(明治7)年5月、開成学校東京開成学校に改称。法学・化学・工学3科よりなる修業年限3年ないし4年の本科に再編される。加えて、修業年限3年の予科が設けられる。

  • 1874(明治7)年 - 1875(明治8)年 松井直吉(18-19歳)、東京開成学校にてイギリスの化学者・アトキンソンに学ぶ。

  • 1875(明治8)年 目賀田種太郎(23歳)文部省の留学生監督となり、再渡米。東京開成学校の生徒9人(鳩山和夫・小村寿太郎・菊池武夫・斎藤修一郎・長谷川芳之助・松井直吉・原口要・平井晴二郎・南部球吾)を引き連れる。後に政財界・教育界で活躍する俊英揃いであった。自身もハーバード法律学校で法律を学ぶ。

  • 1875(明治8)年 松井直吉(19歳)、アメリカ留学。文部省の第1回海外派遣留学生としてコロンビア大学鉱山学科入学。化学を学ぶ。

  • 1880(明治13)年 松井直吉(24歳)、アメリカ留学より帰国。東京大学理学部講師に。翌1881(明治14)年、教授に。化学担当。

1881(明治14)年4月12日 東京大学機構改革、総合大学誕生

東京大学法学部・理学部・文学部三学部東京大学医学部を名実共に統合、4学部を有する総合大学が誕生。単一の総理を新設。東京大学初代総理に、加藤弘之。それぞれの学部に、学長が置かれる。神田錦町に校地のあった東京大学法学部・理学部・文学部三学部は、1885(明治17)年にかけて東京大学医学部に隣接する本郷新校舎に移転。

1886(明治19)年3月2日公布・4月1日施行 帝国大学

高等教育相当の機関を規定。帝国大学について、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とし、国家運営を担う人材育成のための教授研究機関であると規定された。大学院と法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学からなる5つの分科大学から構成。これらをまとめる総長は勅任官とされる。帝国大学初代総長に渡辺洪基を勅任。

  • 1890(明治23)年 松井直吉(34歳)、理学博士に。

  • 1890(明治23)年 松井直吉(34歳)、帝国大学農科大学設立。初代農科大学長に。以後、死去まで長年ににわたり農科大学長を務める。教授兼務、化学を教える。東京化学会(現・日本化学会)会長を務めるなど、日本の化学の中心となる。

  • 1902(明治35)年 松井直吉(46歳)、文部省専門学務局長に。

  • 1903(明治36)年6月 - 1906(明治39)年1月、日露戦争開戦直前、東京帝国大学教授の戸水寛人・富井政章・小野塚喜平次・高橋作衛・金井延・寺尾亨、学習院教授の中村進午の7人が、内閣総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村壽太郎に意見書提出(七博士意見書)。桂内閣の外交を軟弱であると糾弾。「満州・朝鮮を失えば日本の防御が危うくなる」とし、対露武力強硬路線の選択を迫った。主戦論が主流の世論に沿ったもので、反響も大きかった。日露戦争末期、戸水寛人は賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張。文部大臣・久保田譲は文官分限令を適用、休職処分とする。ところが、戸水寛人は金井延・寺尾亨と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出。文部大臣・久保田譲は、東京帝国大学総長・山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭した。東京帝国大学・京都帝国大学の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言。このため、1906(明治39)年1月、戸水寛人の復帰が認めらた(戸水事件)。

 

  • 1907(明治40)年 松井直吉(51歳)、書画骨董・絵画にも精通。フェノロサとも親交。文展審査員に。

  • 1911(明治44)年2月1日 松井直吉(55歳)、死去。享年55歳。

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