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ダイガクコトハジメ - 松崎蔵之助

松崎蔵之助

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松崎蔵之助

まつざきくらのすけ

1866(慶応元)年2月1日(旧暦・12月16日) - 1919(大正8)年11月12日

法学博士、社会経済学者、東京専門学校(現・早稲田大学)講師、海軍経理学校講師、帝国大学農科大学教授帝国大学法科大学教授、台湾協会学校(現・拓殖大学)学監、東京帝国大学法科大学教授、東京高等商業学校校長、東京帝国大学法科大学経済学部教授、日本銀行設立委員、東洋拓殖会社創立委員

​「松崎蔵之助」に関する書籍 [外部]

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  • 1866(慶応2)年2月1日(旧暦・12月16日) 松崎蔵之助(1歳)、上総国望陀郡上根岸村(現・千葉県木更津市)に請西藩士・松崎圭輔の子として生まれる。

  • 1890(明治23)年 松井直吉(34歳)帝国大学農科大学設立。初代農科大学長に。以後、死去まで長年ににわたり農科大学長を務める。教授兼務、化学を教える。東京化学会(現・日本化学会)会長を務めるなど、日本の化学の中心となる。

  • 1897(明治30)年9月、高等商業学校、予科1年・本科3年の上に専攻部(1年)設置。大学昇格を目指す。

  • 1900(明治33)年7月 渋沢栄一(61歳)高等商業学校の同窓会にて、商業大学必要論を開陳。設立について調査研究を続ける。商業大学実現のために斡旋尽力。

  • 1901(明治34)年1月 神田乃武(45歳)、​欧州留学中の高等商業学校教授7名(石川巌・石川文吾・瀧本美夫・津村秀松・福田徳三・志田鉀太郎・関一)と共に、ベルリンにおいて『商業大学の必要』を建議。専攻部の設置・拡充や卒業者への商業学士授与を足がかりに、大学昇格運動開始。

  • 1901(明治34)年 松崎蔵之助(36歳)、台湾協会学校(現・拓殖大学)学監に。

  • 明治30年代 松崎蔵之助、金井延と共に、東京帝国大学法科大学へ社会政策学派の経済学移植に貢献、一時代を築く。ワグナーに強く影響を受ける。門下生に、柳田国男・高野岩三郎・河上肇ほか。

 

  • 1907(明治40)年、『商科大学設置に関する建議案』が帝国議会を通過。東京高等商業学校の大学昇格運動は最高潮に。

  • 1908(明治41)年 松崎蔵之助(43歳)、朝鮮の土地開発を目的に、日韓両国政府により設立の国策会社・東洋拓殖会社創立委員に。

1908(明治41)年 - 1909(明治42)年 申酉事件

大学への昇格を目指す東京高等商業学校に対し、第2次桂内閣および文部省東京帝国大学法科大学に経済・商業2科を新設し、さらに東京高等商業学校専攻部を廃止、東京帝国大学法科大学に事実上吸収する方針を決定。商業大学昇格を真っ向から否定。これにより、10年にわたる商業大学昇格運動は挫折。運動を進めてきた関一佐野善作ら4教授は辞表を提出、松崎蔵之助校長も問責により辞職に追い込まれる。

  • 1918(大正7)年 福田徳三(45歳)、吉野作造らと共に黎明会結成。民本主義の啓蒙に務める。第一次世界大戦後はマルクス主義に対し批判的立場から、民本主義・自由主義に立ち、政府による社会・労働問題の解決を主張。大正デモクラシーをけん引、日本における福祉国家論の先駆者とされる。

1919(大正8)年2月7日公布・4月1日施行 第二次帝国大学

帝国大学令を全部改正。分科大学制を廃止、学部制に。帝国大学官制により、総長・学部長・教授・助教授その他必要な職員を設置。

  • 1919(大正8)年11月12日 松崎蔵之助(54歳)、死去。享年54歳。

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