ダイガクコトハジメ - 林洞海
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林洞海
はやしどうかい
1813(文化10)年3月5日(旧暦・2月3日) - 1895(明治28)年2月2日
和田塾(順天堂大学の前身)塾頭、お玉が池種痘所(東京大学医学部の源流)創立、大阪医学校校(現・大阪大学医学部)校長
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1813(文化10)年3月5日(旧暦・2月3日) 林洞海(1歳)、豊前国小倉藩・林祖兵衛の三男として生まれる。
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1830(文政13/天保元)年 佐藤泰然(27歳)、蘭方医を志す。刎頚の友もなる松本良甫を誘い、蘭方医・足立長雋に入門。また、シーボルトの高弟・高野長英に師事。
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林洞海(20歳頃)、蘭方医・足立長雋の塾を通じ、佐藤泰然と出会う。
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1835(天保6)年 佐藤泰然(32歳)、長崎留学。3年間、オランダ医学を学ぶ。蘭書翻訳、種痘法を学ぶ。
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1835(天保6)年 林洞海(23歳)、佐藤泰然と共に長崎留学。オランダ医学を学ぶ。
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1838(天保9)年 佐藤泰然(35歳)、江戸日本橋薬研堀に蘭医学塾・和田塾(順天堂の前身)創立。長崎より同道した林洞海、三宅艮斎の助けを得る。江戸有数の外科塾として名をあげる。
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1838(天保9)年 林洞海(26歳)、佐藤泰然が創立したに蘭医学塾・和田塾(順天堂の前身)を助ける。傍ら、オランダ人医師ファン・デル・ワートル『薬性論』を翻訳。長崎留学の資金を得る。
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1838(天保9)年 三宅艮斎(22歳)、佐藤泰然に従って江戸へ。開業。佐藤泰然が創立した蘭医学塾・和田塾(順天堂の前身)を助ける。
1839(天保10)年 蛮社の獄
江戸幕府による蘭学者弾圧事件。モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判した高野長英、渡辺崋山など蘭学者が捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑された。
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1840(天保11)年 林洞海(28歳)、再び3年間、長崎留学。
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1843(天保14)年10月 佐藤泰然(40歳)、蛮社の獄で永牢となった高野長明との師弟関係などから幕府より要注意人物とされていた折、佐倉藩家老・渡辺弥一兵衛より招聘を受ける。蘭医学塾・和田塾を女婿の林洞海に託し、佐倉に移住。門人・山口舜海(後に佐藤尚中)らが同行。病院兼蘭医学塾・佐倉順天堂創立。初代堂主に。その治療は当時の最高水準を極める。手術の記録は高弟・関寛斎の『順天堂外科実験』に記される。
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1843(天保14)年 佐藤尚中(舜海)(17歳)、師・佐藤泰然の佐倉移住に同行。
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1844(天保15/弘化元)年 三宅艮斎(28歳)、佐倉藩医に。佐倉藩侯の侍医となる。
1849(嘉永2)年3月 蘭書翻訳取締令
漢方医と蘭方医の対立が深刻化。漢方医側の政治工作もあり、蘭方医学の徹底的な取締開始。幕府医師の蘭方使用を禁止。全ての医学書は漢方医が掌握する医学館の許可を得ることに。
翌1850(嘉永3)年9月、蘭書の輸入が長崎奉行の許可制に。諸藩に対し、海防関係書の翻訳を老中および天文方に署名届出するものとした。蘭学に関する出版が困難に。蘭学の自由な研究が制約される。
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1849(嘉永2)年 鍋島直正(鍋島閑叟)(35歳)、1846(弘化3)年より佐賀藩内で天然痘が大流行。当時不治の病であった天然痘根絶のため、佐賀藩医・伊東玄朴の進言により、長崎出島のオランダ商館を通じて牛痘種痘苗を入手。佐賀城内にて種痘接種。佐賀藩が漢方から蘭方医学へ転換する象徴的な出来事となる。この痘苗は、長崎・佐賀を起点とし、複数の蘭方医の手によって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播。
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1849(嘉永2)年7月20日 伊東玄朴(49歳)、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言。オランダ商館を通じ、入手に成功。この痘苗が長崎から京都・大阪・福井から北陸へと広まる。10月に江戸に運ばれ、関東や東北へ広まる。
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1849(嘉永2)年12月 佐藤泰然(46歳)、佐倉藩に牛痘を導入。普及に努める。
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1852(嘉永5)年 佐藤泰然(49歳)、日本最初の卵巣嚢腫摘出術などを行う。蘭学の先進医療を行うと共に、医学界を担う人材を育成。佐倉順天堂は大阪の緒方洪庵の適塾(適々斎塾)とならぶ有名蘭学塾に。「日新の医学、佐倉の林中から生ず」
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1857(安政4)年8月 大槻俊斎(52歳)、自宅に伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫ら蘭方医10人と斎藤源蔵が集まり、種痘所開設を会議。幕閣の開明派・川路聖謨に働きかけ。種痘所の計画用地として川路聖謨の神田於玉ヶ池の屋敷の一角を借りることとする。
1858(安政5)年5月7日 お玉が池種痘所設立
江戸にて、蘭方医学解禁。大槻俊斎・伊東玄朴・戸塚静海・箕作阮甫・林洞海・竹内玄同・石井宗謙・杉田玄端・手塚良仙・三宅艮斎ら蘭方医83名が出資し、お玉が池種痘所(東京大学医学部の源流)設立。初代所長に、大槻俊斎。
1858(安政5)年7月 蘭方医解禁令
幕府医師の和蘭兼学を認める。蘭方医・伊東玄朴と戸塚静海が幕府奧医師に登用される。
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1859(安政6)年 佐藤尚中(舜海)(33歳)、佐藤泰然より家督を譲り受ける。佐倉順天堂第2代堂主に。
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1860(安政7/万延元)年 林洞海(48歳)、幕府医師に登用され、奥詰医師に。二の丸製薬所掛。
1861(万延2/文久元)年1月 西洋医学所発足
種痘所が幕府直轄に。西洋医学所(現・東京大学医学部)に改称。教授・解剖・種痘の三科に分かれ、西洋医学を教授・実践する場となる。初代頭取に、大槻俊斎。
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1861(万延2/文久元)年8月28日 林洞海(49歳)、奥医師に。
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1861(万延2/文久元)年12月16日 林洞海(49歳)、法眼に叙せられる。
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1862(文久2)年 林洞海(50歳)、西洋医学所取締役に。
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1869(明治2)年2月、大阪府知事・後藤象二郎、参与・小松清廉の尽力により、東成郡東高津村八丁目寺町(現・大阪市天王寺区上本町四丁目)の大福寺に浪華仮病院、および適塾(適々斎塾)元塾生らを中心とする仮医学校(後に大阪医学校、現・大阪大学医学部)設立。院長に緒方洪庵の次男・緒方惟準。主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招く。一般の病気治療と医師に対する新治術伝習を行う。
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林洞海、明治維新後、大阪医学校(現・大阪大学医学部)校長に。
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1895(明治28)年2月2日 林洞海(83歳)、死去。享年83歳。
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