ダイガクコトハジメ - 柳田藤吉
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年表 | 動画
柳田藤吉
やなぎだとうきち
1838(天保9)年1月3日(旧暦・12月8日) - 1909(明治42)年5月10日
事業家、北門義塾・北門社郷塾創立、北海道会議員、衆議院議員
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1838(天保9)年1月3日(旧暦・12月8日) 柳田藤吉(1歳)、現・岩手県盛岡市に生まれる。家業は、下駄を生業に。
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柳田藤吉、遠野で商業を学ぶ。
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1854(嘉永7/安政元)年2月 柳田藤吉(17歳)、箱館に商店・柳屋を開業。昆布の貿易を手がけ、多くの利益を手にする。
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1864(文久4/元治元)年 柳田藤吉(27歳)、昆布の加工場設営。
1867(慶応3)年11月9日(旧暦・10月14日) 大政奉還
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上、明治天皇へ奏上。翌日、天皇が奏上を勅許。
1868(慶応4)年1月3日(旧暦・12月9日) 明治新政府樹立
王政復古の大号令、江戸幕府の廃絶、同時に摂政・関白等の廃止、三職設置による新政府の樹立を宣言。
1868(慶応4/明治元)年 - 1869(明治2)年 戊辰戦争
王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)の戦い。日本最大の内戦となる。新政府軍が勝利、以降明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められる。
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柳田藤吉、戊辰戦争にて旧幕府方・新政府の双方に武器を売り、財を成す。
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1869(明治2)年5月 柳田藤吉(32歳)、戊辰戦争で財を成し、社会に貢献したいと福澤諭吉・箕作麟祥に相談。私塾を起こすことを勧められ、洋学校・北門義塾創立。この事業に賛同した三井家が、所有する早稲田の建物(元高松藩下屋敷)を提供。山東一郎・松本良順が学校を管理することに。
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1870(明治3)年 柳田藤吉(33歳)、藤野文蔵らと共に開拓使に請願、会所町にあった官舎を補修。函館に分校・北門社郷学校設立。
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1871(明治4)年7月 柳田藤吉(34歳)、北門社郷学校を北門社郷塾に改称。
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堀達之助、開拓吏時代、豪商・柳田藤吉が函館に創立した北門社郷塾および開拓使立函館学校の教師に。
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柳田藤吉、根室地方の漁業経営に進出、後に根室昆布営業組合・同鮭営業組合頭取に。
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1872(明治5)年 柳田藤吉(35歳)、北門義塾閉校。学舎は、柳田藤吉の理念を継承した東京専門学校(現・早稲田大学)に受け継がれる。
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1876(明治9)年 柳田藤吉(39歳)、国内初の大規模な洋式牧場・柳田東梅牧場開設。
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1882(明治15)年10月21日 大隈重信(45歳)、英国流の近代国家建設という政治展望の一事業として。小野梓・高田早苗らと共に、東京専門学校(現・早稲田大学)創立。「学問の独立」・「学問の活用」・「模範国民の造就」を掲げる。北門義塾校舎を受け継ぐ。政治経済学科・法律学科・理学科・英学科設置。理学科は学生が集まらず、早々に廃止。
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柳田藤吉、根室銀行設立など、道東地区で様々な事業を展開。
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1901(明治34)年 柳田藤吉(64歳)、北海道会議員に。
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1904(明治37)年 柳田藤吉(67歳)、第9回衆議院議員総選挙、衆議院議員当選。
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1909(明治42)年5月10日 柳田藤吉(72歳)、死去。享年72歳。
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