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ダイガクコトハジメ - 津田塾大学

 

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学校略歴

  • 1871(明治4)年 - 1882(明治15)年11月、津田梅子、最年少の女子留学生として岩倉遣欧使節団に参加、同行の山川捨松(大山捨松)・永井繁子(瓜生繁子)と共にアメリアで学ぶ、10年超の海外留学を経て帰国、幼少からの長い留学生活により日本語通訳が必要な状況に、日本の風習にも不慣れであった、また儒学の価値観が色濃く残る当時日本においては女子留学生が活躍できる場は乏しかった

  • 1883(明治16)年、津田梅子伊藤博文より華族子女を対象に教育を行う私塾・桃夭女塾(実践女子大学の源流)を設立した下田歌子を紹介される、下田歌子より日本語を学ぶ

  • 1885(明治18)年8月、昭憲皇太后の令令旨により、華族女学校(現・学習院女子大学)設立、下田歌子教授・学監に

  • 1885(明治18)年、津田梅子伊藤博文の推薦により華族女学校英語教師に、華族の上流階級的気風には馴染めず

  • 1888(明治21)年、津田梅子、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日、留学を薦められる、翌年再渡米、アリス・ベーコンの日本女性研究・『日本の女性』出版を手助け、日本の女性教育に関心を持つきっかけに

  • 1899(明治32)年2月7日公布・4月1日施行、高等女学校令、女子に必要な中等教育を行うことを目的に新たに独立した勅令を定める​

  • 1900(明治33)年、津田梅子成瀬仁蔵日本女子大学校創設運動や高等女学校令・私立学校令公布など女子教育への機運の高まりを背景に官職を辞す

  • 1900(明治33)年7月、津田梅子、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力を得て、女子英学塾(現・津田塾大学)創立、塾長に、華族平民の別の無い女子教育を志向、一般女子の教育を始める

  • 1903(明治36)年7月、​専門学校令に基づき、女子英学塾を社団法人に

  • 1905(明治28)年、女子学校で始めて、 中等教員英語科無試験検定資格を認可される

  • 1922(大正11)年、東京府北多摩郡小平村に新校地2万5千坪を購入

  • 1923(大正12)年、関東大震災、五番町校舎が全焼、存続の危機に

  • 1932(昭和7)年、小平校舎建設・移転。

  • 1933(昭和8)年、津田梅子の功績を記念し、校名を津田英学塾に改称

  • 1943(昭和18)年、太平洋戦争勃発、英語不要論により全国の高等女学校英語科が廃止、英語教師の需要も激減し再び存続の危機に、塾存続のため校名から英学塾を外して津田塾専門学校に改称、理科(数学科・物理化学科)を増設

  • 1948(昭和23)年3月25日、学制改革により新生大学に、津田塾大学発足

創立者

学校年表

  • 1871(明治4)年 津田仙(35歳)、明治政府が設立した北海道開拓使の嘱託に。青山の北海道開拓使農事試験場を任され、農事研究。西洋野菜の栽培を手掛けるなど、日本の近代農業の先駆者に。女子教育に関心のあった開拓次官・黒田清隆が政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画すると、娘・津田梅子を応募。

1871(明治4)年12月23日(旧暦・11月12日) - 1873(明治6)年9月13日 岩倉遣欧使節団

岩倉具視を正使に、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成。使節46名、随員18名、留学生43名。使節は薩長中心、書記官などは旧幕臣から選ばれる。アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣。元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものに。政府首脳陣が直に西洋文明や思想に触れ、多くの国情を比較体験する機会を得たことが与えた影響は大きい。同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍。日本の文明開化に大きく貢献。

  • 1871(明治4)年 - 1873(明治6) 伊藤博文(31-33歳)岩倉遣欧使節団の副使にとして渡米。サンフランシスコにて、「日の丸演説」・「国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん」。1873(明治6)年3月、ベルリンに渡り、プロイセン皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相・ビスマルクと会見、ビスマルクから強い影響を受ける。

  • 1871(明治4)年 津田梅子(8歳)岩倉遣欧使節団に随行、渡米。ワシントンへ。随行員5人の少女のうち、最年少であった。日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられる。

  • 1872(明治5)年5月 津田梅子(9歳)、随行員5人の少女のうち、2名が帰国。山川捨松(後に大山捨松)永井繁子(後に瓜生繁子)と共にアメリカに残る。生涯の友となる。

  • 1873(明治6)年7月 津田梅子(10歳)、特定宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受ける。ラテン語、フランス語など語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。また、ランマン夫妻に連れ添われ、休暇に各地を旅行。

  • 1878(明治11)年7月 津田梅子(15歳)、コレジエト・インスティチュート卒業。私立女学校アーチャー・インスティチュート進学。

  • 1881(明治14)年 津田梅子(18歳)、開拓使より帰国命令。山川捨松と共に、延長を申請。

  • 1882(明治15)年7月 津田梅子(19歳)、私立女学校アーチャー・インスティチュート卒業。同年11月、岩倉遣欧使節団派遣より10年超におよぶ留学より日本帰国。

  • 津田梅子、帰国するも、儒学の価値観が色濃く残る日本において、女子留学生が活躍できる場は乏しく。山川捨松・永井繁子はそれぞれ軍人へ嫁す。幼少からの長い留学生活により、日本語通訳が必要な状況に、日本の風習にも不慣れであった。

  • 1882(明治15)年 下田歌子(29歳)、夫・下田猛雄が病に臥す。看病の傍ら、東京九段の自宅にて桃夭女塾(実践女子大学の源流)開講。日本における私学女子教育の先駆けに。時の政府高官の殆どがかつての勤王志士であり、妻の多くが芸妓や酌婦だった。世間知らずではないが、正統な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教える。

1884(明治17)年4月 学習院、宮内省所轄の官立学校に

学習院学制および女子学習院学制に基づく教育機関で、華族の子弟なら原則として無償で入学することができた。学制に基づく文部省管轄の学校と必ずしも一致しないが、初等科は尋常小学校、中等科は中学校・高等女学校、高等科は旧制七年制高等学校に相当。

  • 1884(明治17)年5月 谷干城(48歳)、非職でありながら度々政府から復職を望まれ、学習院第2代院長として復帰。かねてより華族の教育を構想していた伊藤博文に改革を依頼される。皇室の藩屛(守護)となることを目指した華族の子弟教育を推進、軍人養成に力を注ぐ。将来の議会政治にも目を向け、華族が天皇に忠誠を尽くし、独立した勢力として議会で公平に政治活動していく構想も。政治・外交にも長けた多様な人材育成を目指す。

1884(明治17)年7月7日 華族令

制度取調局局長・伊藤博文を中心に制定。華族を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に区分。旧公家の華族は家格により、旧大名の華族は石高により爵位受爵。また、国家に勲功ある者を新たに華族に列する。爵位は代々世襲される(永世華族)。1889(明治22)年貴族院令にて、同爵の互選により貴族院議員となる特権を持つ。華族令制定直後の7月中に509名の有爵者が誕生。

  • 1885(明治18)年8月、昭憲皇太后の近代日本に相応しい、質実剛健で徳育に基本を置いた上流女子教育をという令旨により、四谷区尾張町に華族女学校開校。

  • 1888(明治21)年 津田梅子(25歳)、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日。留学を薦められ、再度の留学を決意。父・津田仙の知人、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介により、留学希望を伝え学費免除の承諾を得る。華族女学校校長・西村茂樹より、2年間の留学を許可される。

  • 1889(明治22)年7月 津田梅子(26歳)、再び渡米。進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、ブリンマー・カレッジで生物学専攻。使命であった教授法に関する研究は、オズウィゴー師範学校で学ぶ。

  • 津田梅子、アリス・ベーコンがアメリカ帰国。日本習俗に関心を持ち、日本女性を研究。『日本の女性』出版を手助けする。これが、日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われている。日本女性留学のための奨学金設立を発起、公演や募金活動など行う。

  • 1893(明治26)年春 下田歌子(40歳)、常宮・周宮両内親王の御養育主任・佐々木高行より、皇女教育のため欧米教育視察を拝命。皇室の伝統を保持しつつ、両内親王を海外賓客と接しても遜色ない、時代に順応した皇女として教育することを目論む。

  • 1894(明治27)年 下田歌子(41歳)、皇女教育の目的を越え、一般女学校への視察を始める。

  • 1895(明治28)年8月 下田歌子(42歳)、日本帰国。皇女教育を巡る宮中の勢力争いの渦中に。

  • 1896(明治29)年 成瀬仁蔵(39歳)、『女子教育』出版。「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」の女子教育方針を示し、女性が人として自立し活動することを期し、世論を喚起。『日本女子大学校創設之趣旨』発表。

  • 1898(明治31)年11月 下田歌子(45歳)、当時日本の一般女性があまりにも男性の言いなりになっていた姿に心を痛める。「日本が一流の大国と成らん為には、大衆女子教育こそ必要」と、帝国夫人協会設立。

1899(明治32)年2月7日公布・4月1日施行 高等女学校令

中学校令14条および高等女学校規程に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について、女子に必要な中等教育を行うことを目的に、新たに独立した勅令を定める​。

  • 1900(明治33)年7月 津田梅子(37歳)、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力を得て、女子英学塾(現・津田塾大学)創立。塾長に。華族平民の別の無い女子教育を志向、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長としての女子教育と異なり、進歩的で自由な、レベルの高い授業が評判になる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模に。学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など、経営は厳しかった。

  • 津田梅子女子英学塾(現・津田塾大学)開校式辞にて、「真の教育には物質上の設備以上に、もっと大切なことがあると思います。それは、一口に申せば、教師の資格と熱心と、それに学生の研究心とであります。」

1903(明治36)年3月27日公布 専門学校令

中等教育修了者を対象に高等専門教育を実施する「専門学校(旧制専門学校)」を規定。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校ハ専門学校トス」と大枠を定める。

予科・研究科・別科を設置することが認められる。専門学校令によって設立された専門学校は、宗教系学校、女子専門学校、医学専門学校、歯科医学専門学校、薬学専門学校、外国語学校など多岐にわたり、多様な高等専門教育機関が生まれる。

  • 1903(明治36)年7月 津田梅子(40歳)、​専門学校令に基づき、女子英学塾を社団法人に。

  • 1905(明治28)年、女子学校で始めて、中等教員英語科無試験検定資格を認可される。

  • 1906(明治39)年9月 星野あい(23歳)津田梅子が創設した日本婦人米国奨学金の受給者に選ばれる。津田梅子の母校・ブリンマー大学入学。

  • 1912(明治45/大正元)年 星野あい(29歳)、帰国。女子英学塾(現・津田塾大学)教授に。英語・英文学・生物学を教える。

  • 1918(大正7)年 星野あい(35歳)女子英学塾(現・津田塾大学)よりコロンビア大学に派遣される。ティーチャーズ・カレッジにて、教育学M.A.取得。

  • 1919(大正8)年1月 津田梅子(56歳)、​女子英学塾の経営基礎が整うと、塾長辞職。創業期より健康を損ない、鎌倉の別荘で長期闘病。

  • 1919(大正8)年9月 星野あい(36歳)、帰国。重態に陥っていた病気療養中の津田梅子より、「あまり規模を大きくしないこと、あくまでも堅実にやってゆくこと、万事よろしく頼む」と紙片を受け取る。女子英学塾(現・津田塾大学)教頭に就任。

  • 1922(大正11)年、東京府北多摩郡小平村に新校地2万5千坪を購入。

1923(大正12)年9月1日11時58分32秒 関東大震災

神奈川県および東京府(現・東京都)を中心に、隣接する茨城県・千葉県から静岡県東部までの内陸・沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらす。死者・行方不明者は推定10万5,000人。明治以降の日本の地震被害として最大規模の被害に。

  • 1923(大正12)年、関東大震災、五番町校舎が全焼。存続の危機に。

  • 1925(大正14)年 星野あい(42歳)女子英学塾(現・津田塾大学)塾長代理に。

  • 1925(大正14)年7月29日 渋沢栄一(86歳)女子英学塾復興資金を寄付。

  • 1929(昭和4)年8月16日 津田梅子(66歳)、死去。享年66歳。生涯、独身を貫く。

  • 1932(昭和7)年、アナ・ハーツホンのアメリカでの献身的な募金活動により、小平校舎建設。移転。

  • 1933(昭和8)年、女子英学塾、津田梅子の功績を記念して校名を津田英学塾に改称。

  • 1943(昭和18)年 星野あい(60歳)、太平洋戦争勃発、英語不要論により全国の高等女学校英語科が廃止、英語教師の需要も激減。津田英学塾は再び存続の危機に。塾存続のため、校名から英学塾を外して津田塾専門学校に改称。理科(数学科・物理化学科)を増設。英文学科のみであった塾にとって、理科増設は困難を極める。

1946(昭和21)年 - 学制改革

第二次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部の占領下、第一次アメリカ教育使節団の調査結果より、アメリカ教育使節団報告書に基づいて日本の教育制度・課程の大規模な改変・改革が行われる。日本側は、東京帝国大学総長・南原繁らにより推進される。

複線型教育から単線型教育「6・3・3・4制」への変更。義務教育の9年間(小学校6年間・中学校3年間)への延長。複線型教育については、封建制の下における社会階層に応じた教育構造であるとされ、これを廃止。教育機会の均等が図られる。

戦前の旧制大学・旧制高等学校・師範学校・高等師範学校・大学予科・旧制専門学校が4年制の新制大学として再編される。新制国立大学について、文部省が総合的な実施計画を立案、1949(昭和24)年施行の国立学校設置法に基づき設置。

  • 1948(昭和23)年3月25日、学制改革により新生大学に、津田塾大学発足。初代学長に、星野あい

​関連する学校・組織(前史)

  • 女子英学塾

  • 津田英学塾

  • 津田塾専門学校

関連する学校・組織(現代)

関連する教育者

参考情報

参考文献・書籍

津田塾大学年表

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